6-3

 翌朝。といってももう昼を過ぎていたが、僕はひどい二日酔いとともに目を覚ました。だが、あいにく目覚めをともにしたのはだった。

 ベッドには、かすかに石鹸とメンソールの匂い。そしてなんとなく残された温もりだけがある。僕のとなりに楪リンの姿はなかった。

 僕は彼女の温もりを求めるように、ベッドの右半分をさすった。そうしていると、サイドテーブルにちょこなんと紙切れが置かれているのに気づいた。そこには走り書きで、こう記してあった。


 昨夜は無理を言ってごめんなさい。キミってば寝ちゃったから、先に帰らせてもらったわ。風邪だけは引かないように。

 業務連絡:明日(つまり君が目覚めた翌日だと思うけど)の午前十時から電算室で作戦会議を行う。遅れぬように。


 それだけの書き置きを見て、僕はとたんに自分の記憶を疑った。

 僕が先に寝てしまった? じゃあ、どこからが夢で、どこからが現実だった? 昨日リンに攻められたのは、もしかして夢だったのか?

 僕はとたんに恥ずかしくなって、まるで中学生のような気分になった。パンツの中身を確認したけれど、幸いにも事故は起きていないようだった。


     *


 さすがに翌日にもなれば、二日酔いも治っている。痛む頭もどこかに失せ、血中のアルコール濃度も平均値に戻っていた。ただ、リンに対する気恥ずかしさというか、罰の悪さみたいなものは、一日経っても晴れなかった。


 約束の午前十時。その十分前には、僕は電算室に来ていた。

 電算室の様子は相変わらずだった。アルミ製のラックと、そこに並べられたコンピュータの群。天井のエアコンは最大出力で稼働し、コンピュータたちはその冷気を吸い込むようにしてファンを回す。まるで呼吸でもしているかのように。

 そして、そんな部屋の片隅。モニターに四方を囲まれた空間に烏瓜カラスウリレンゲはいた。そしてまた先客も。

「じゃあ、そういうことで。あとは追って会長のほうから連絡がいくと思うから」

 と、レンゲ。

 その言葉に対するのは、黒い影を落とす一人の男性だった。僕より一回りも、二回りも年上のように見える風貌。坊主というよりはスキンヘッドというような頭髪に、黒のワイシャツ、スラックス。左手の薬指にはシルバーリング。格好こそ厳つかったが、しかし大きなたれ目が朗らかな印象を与えている。

 でも、彼の声音は殺意のにじんだハスキーボイスだった。

「了解した。……どうやら後がつかえているみたいだな」

 と、男が目だけを僕に向けて言った。レンゲも後を追うように視線を動かす。

「ああ。彼が来てたのか。彼だよ、ウワサのリンを射止めた新入り君チェリーボーイっていうのはさ」

「なるほど。じゃあこのあとはユズリハの件か」

「そうそう。ついでに聞いてく? 例の標的の話」

「それは就業規則違反だ、烏瓜。基本的にエージェント間の必要以上の情報共有は禁じられている。……俺たちのあいだにチームプレーなんてものは存在しない」

「チームというのは、ただ標的が同じだけの集まりに過ぎない……だっけか? いつ誰に裏切られるかなんてわからない。だったよね?」

「そうだ。馴れ合いは程々にしておけよ、烏瓜。俺たちはあくまでもなんだ。今はカネ払いがいいから、弊社ココにいるだけだ」

 男性はそう言い残し、レンゲのあとを去る。

 僕の隣を通過して、電算室の外へ。そう思われたとき、彼は通り際に僕の肩を叩いた。それからマッサージでもするみたいにさすってきた。

「君がウワサの新入りだな。楪が担当する初めての新人だとか」

「えっと……はい、そうですけど」

「俺は御堂アキラ。もちろん偽名だがな。今後現場で出くわすようなことは滅多ないだろうが、もしかしたら行動を共にするかもしれん。そのときは、よろしくな」

 もう一度彼は僕の肩をたたき、それから電算室を出た。

 僕はそのあいだ呆然としていた。


 リンがきたのは、御堂アキラが出てからまもなくのことだった。午前十時。その五分前というところだったろう。

「早いじゃない。それじゃあもう始めましょうか」

 リンがそう言ったので、作戦会議は五分繰り上げで始まった。会議といっても、僕とリン、そしてレンゲの三人だけなのだが。御楯会長には、あとでカーボンコピーCCでメールだけ転送しておくらしい。

「とりあえず、明日二人に行ってもらう現場はここ」

 レンゲがエンターキーを叩いて、中央の一番大きなモニタにPDFデータを映し出す。それは招待状のオリジナルデータのようだった。

「明日、午後六時から新宿プラザホテルで薬袋みないグループの二十周年祝賀会が開かれる。薬袋グループの名前ぐらいは聞いたことあるでしょ?」

 僕は黙っていたが、リンはうなずいていた。

「剣菱重化学や、デロック重工を買収したとかっていう企業。でしょ?」

「そう。で、問題はその薬袋グループを設立した薬袋トモヒデ。いわゆる典型的な投資家で、数々の学者のパトロンになっていることは有名。最近は芸術家にも出資しているみたいだけど」

「その薬袋が、ケン・ウォンにも出資していた、というんですか?」

 僕がそう問うと、二人は首を縦に振った。

「極秘裏にだけどね」とレンゲ。「でも、ウォンと薬袋のメールのやりとりは、すでに確認してる。で、そのメールによれば、ウォンは祝賀会に乗じて薬袋と密会するらしいのよ」

「つまり、僕らは――」

「――つまりわたしたちの仕事は、その祝賀会に潜入して、密会の場を偵察。ケン・ウォンの情報を手に入れること」

 リンが僕の言葉を遮って言った。

「すでに招待状と身分証明書の偽造は、レンゲに発注してある。わたしたちがやることは会場図を頭に叩き込むことと、お色直しだけよ。そうしたら――」

「待ってください。会場図のことはわかりますけど。お色直しって、どういうことですか?」

「アンタ、ホントに無知ね」

 今度はレンゲが呆れたような声で言った。

「ていうかリン、アンタ今回の作戦について彼にはどれぐらい教えてるの?」

「なにも」

「なんでよ。アンタ教育係でしょうが。……つまりね、アンタとリンは、今回男女ペアとして身分を偽造し、潜入してもらうの。アベックとしてね。あいにく、用意できた偽造身分証がそれだけだったからさ」

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