6-2

     †


 冷蔵庫にあった缶ビールは、大した量なかったはずだ。それにびんに入ったウィスキーなんて僕の部屋にはなかった。リンが持ってきたか、それとも僕が知らず知らずのうちに買っていたのか。

 とにかく、いま僕はひどく酔っていた。僕はベッドのフチに座っているのだが、マットレスがどこまでも深く沈み込んでる気がするし、上下左右に揺れてる気もする。それに目の前には紫煙をくゆらせる女性見えた。しかも、彼女は裸のようだった。

 ――酔ってるからだ。すべてまやかしだ。

 そう思ったけれど、それは半ば不正解だった。

 目の前にいる彼女、楪リンは一糸まとわぬ姿でそこにいた。もっと言えば彼女はシャワーを浴びてきたばかりで、肌は赤く、熱気で上気し、髪は湿り気を帯びていた。ゆえに口元からあふれる紫煙は、煙草の葉によるものなのか、それとも彼女由来の湯気なのか判然としなかった。でも、どちらにせよそこからはメンソールの匂いと、石鹸の匂いがしていた。

 リンは琥珀色をした壜をラッパ飲みしながら、その肢体をベッドの中へと滑り込ませた。そしてタオルケットを手に取り、二人のカラダに覆いかぶせた。

「ねえ、

 そう、彼女は僕の名を呼んだ。それはとても親愛を込めた相手のように。上司と部下、教師と教え子という関係を一足飛びにして、禁断の領域に踏み入れたような呼び方だった。

 そしてその声音と同時、彼女の手と、アルコールとタバコの匂いのする吐息とがベッドのなかに侵入してきた。まるで僕をつまびらかにするみたいに。

「ねえ、どうしてわたしはキミを助けたと思う?」

 彼女の手が僕の背中に回される。

 拒絶してもいいのに、僕は自然とそれを受け入れていた。

 ――心地よかったから?

 ――わからない。

 でも、ともかく僕は、すべてを酔いのせいにしようとしていた。あいまいに記憶しようと努めていた。

「あなたの心境変化、じゃないんですか?」

「あなたって呼ぶの、やめてよ」

 彼女の手が背中から肩にまであがってくる。人殺しの手。血に塗れたオンナの手。僕と同じ手。それが僕の腕を愛撫して、肩まで到達し、ついには頬を撫でた。無精髭の生えかけたゴマ塩肌。彼女はそれを楽しそうになぞってみせた。

 やがてリンの人差し指は、僕の唇をなぞった。

「じゃあ、なんて呼べばいいんです」

「リン」

「じゃあ、リン。僕たち酔ってるんですよ。気づいてます? 僕ら、こんなことしていいんですか?」

「そうね。酔ってるわ。とても酔ってる。でもね、だからこそ、ふだんなら殺している感情も出てくるの。いまハダカなのよ、わたし」

「悪い酒飲みは、みんなそう言ってごまかすんです」

「そうね。でも、ちょっと違うわ。……安心してるの、わたしってば。キミの匂いと、酔いとで」

 リンは止まらない。

 プロの殺し屋であるリンの力が弱いはずがない。大の男もねじ伏せ、あっという間に殺してしまうような彼女だ。そんなリンの拘束から、そうカンタンに逃れられるはずもなかった。

 リンの拘束と、一方的な詰問は続いていく。

「センチメンタリズムなのよ」

「センチメンタリズム?」

「そう。すべて感傷なのよ。あなたを救ったことも、そうしようと決意したことも、そしていまこうしていることも。すべて刹那的なセンチメンタリズム。まあ、すこしは計画的なとこもあるけど。でも、その計画性の発露もセンチメンタリズムなのよ……。ねえ、明日起きたら、わたしきっと後悔してると思う」

「でしょうね」

「でもね、満足してるとも思う。本当はわたし、こうしたかったんだって」

 そして彼女は僕の口をふさぐようにして、自分の口もふさいだ。お互いの口を、お互いにふさぎ合った。しばらくのあいだ僕らは言葉を発さなかった。お互いに口をふさぎ合っていたからだ。ぶつけられた彼女の唇を、僕は許した。止めどなくあふれる唾液と吐息。それを受け止めていると、まるで僕も口づけに応えているような気分になった。

 先に離したのは、リンだった。そのときの彼女は、まるで潜水を終えて水面に出るダイバーのようだった。息をあえがせ、全身を湿らせて、そして僕の上に覆いかぶさった。再び水に潜るように。バタフライで泳ぐ競泳選手のように。

 そうして枕に顔をうずめて、リンは僕の耳を甘噛みしはじめた。タバコを吸うみたいに、幼子が乳を求めるように。彼女の吐息が僕の右耳を犯した。

「ちゅ……はぁっ……。ねえ。わたしね、ずっとこうしたかったの」

、ですか? それとも僕に似ているっていう、ですか?」

「どっちだと思う?」

 艶めかしい囁きは、そのまま愛撫として僕の耳を挑発する。

「ウソよ。ただの欲求不満。言ったじゃない、キミが彼に似てるなんて、ウソだって」

「じゃあ、ただの欲求不満で部下を犯すんですか」

「不満?」

 僕は黙っていた。

 それにイエスと答えても、ノーと答えても、彼女を傷つけてしまう。そう思ってしまったからだ。楪リンというオンナは、彼女の振る舞いが見せるほどタフな人間ではない。それが、いまの僕にはなんとなくわかった気がしていた。

「ねえ、秋桐ユキトには将来を誓い合った恋人フィアンセがいたんだって」

「そうなんですか」

「そう。しかも相手の女性は妊娠していたそうよ。でも残念なことに、新しい命を授かった矢先に恋人を失ったみたい」

「ご愁傷様、ですね。……そのあと、その婚約者の女性はどうしたんですか?」

「さあ? 弊社はそこまでのことは関知しないわ。……でも、それよりさ。キミ、肉体が既婚者なのに、精神が童貞ってどういう気分なの?」

「僕をからかいたかっただけですか? 少なくとも処女膜ヴァージンはないですよ」

「雄だからね。じゃあ、皮はあるの?」

 悪戯っぽく笑うリンは、そのまま顔を上げ、僕を見下ろした。

 僕に覆いかぶさる真っ白い肢体。筋肉の跡が見える腹部と、そして胸筋と脂肪との複合体。揺れる栗色のポニーテール。大きな切れ長の眼……。

「試してみる?」

「酔ってますよ、僕ら。こんな状況に流されていいんですか? きっと後悔しますよ」

「そうね。でも、だから感傷なのよ。酔いじゃないわ。ねえ、許してよ、こんなときぐらい。わたし、んだから」


     †

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