4-2

 それから母に偽の名刺を渡し、その場を後にした。最後まで深々と頭を下げて見送る母の姿に、僕は切なさを覚えてしまった。母親の背中は、こんなにも低かったのか、と。

 そうして守田邸を出たときだ。

「どう、里帰りの気分は。というよりは、黄泉帰りかしら」

 住宅街の路地裏から声がした。僕としては、ここ数週間のあいだで耳にタコができるぐらい聞いた声だった。

「リン。ここまでついてくるんですね」

「キミはまだ試用期間中だからね。必ず誰かがついていなくちゃいけないの」

 路地裏の影から一人の女性が顔を出す。首元の開いたワイシャツに、濃紺のスラックス。ストライプの入ったジャケット。そして胸ポケットに刺さった緑のパッケージ。一箱のタバコ、ハイライト・メンソール。

 ユズリハリン。僕の教育担当であり、直属の上司がそこにいた。

「別にここまでついてこなくても、僕は逃げませんよ。母親のもとに逃げたりなんかしない。だってここにきたのは――」

「別れを言うため、だっけ?」

 リンは悪戯っぽく言って、僕の目の前に躍り出た。

「行きの途中で何度も聞いたから、さすがにわたしも覚えたわ。そんなキザな台詞を吐く余裕があるなら、まだ安心ってところかしらね。……それで、さっそく仕事の話に戻すようで悪いけど。駅に戻りながらでいいから、目を通して」

 言って、リンは僕の上着のポケットにチップを落とした。

 チップを拾い上げると、僕はかけていたメガネを外し、そのフレームにある挿入口へ差し込んだ。まもなく、レンズ型のディスプレイに映像が表示される。PDFファイル。報告書のようだった。

「あのあと、レンゲと他の営業エージェントに、ハン・イーミンのバックにいた人間を捜させたの。結果は資料の通り」

 歩きながら、件の資料に目を落とす。

 そこにはハンが所持していた携帯電話の発信先が一覧となって表記されていた。

「ハンとやりとりしていた人物をリストアップさせた。連絡先のほとんどはプリペイド携帯や公衆電話、あるいは海外サーバを経由したTor回線だったけど。でも、その一部はなんとかサルベージできた。で、そのなかでもかなりキナ臭いのが次のページ」

 視線操作アイ・トラック・コントロールで次のページへ。そこにはパスポートのコピーが一枚と、追加情報がいくらか記されていた。

 白黒でコピーされたパスポートの顔写真。そこに写る人物は、とてもじゃないが裏社会に通じるような人間には見えなかった。瓶底のような丸いメガネと、ボテッとした短髪。切りそろえられた前髪は、まるで明治時代の大学生のようだった。

「男の名は、ケン・ウォン。中国系アメリカ人。もともとアメリカ出身らしいけど、十四年前に中国に戻っている。天華大学の客員教授で、専攻は生体工学バイオニクス

「その教授と、ハンは連絡をとっていたと?」

 リンはうなずいた。

「でも、なぜハンのようなドラッグディーラーが大学教授と? 仮に彼の持っていたリストや情報が必要だったとして、そのケン・ウォンはいったい何に使うつもりだったんです?」

「わからない。でも、一つハッキリしてるのは、そのウォン教授が絶賛失踪中ってこと。それも、ちょうど一ヶ月前にハンとやりとりをした直後にね。どう、怪しいでしょ? ……どうして教授は失踪したのか。失踪した先でなにがあったのか。それがわかれば、ハンのバックに付いていた組織の輪郭も見えてくるはず」

「じゃあ、次の仕事はそれですか」

「ええ。調査が仕事。……で、わたしは一つ仮説を立てているのだけど」

 住宅街の路地から、徐々に駅へと続く大通りへ。徐々に道行く人の数が増えていく。

「仮説って?」

「ハン・イーミンのバックについて。ケン・ウォンの目的についてよ」

 言って、リンは胸ポケットからタバコを取り出す。底を叩いて一本、口に銜えて引っ張り出すと、マッチで火を点けた。紫煙が視界に揺れる。

「いまや我が国よりも遙かに技術大国になった中国だけど。ハンを含めた中国人の一部カレらが、滅び行く我が国わたしたちをなんて呼んでるか、知ってる?」

「……知りません」

「死の最前線。あるいは、技術の避難所テック・ヘイヴン。まあ、そう呼んでいるのは中国人だけじゃないけどね。

 この国で平均寿命は常に増長傾向にあり、また高齢者が人口を占める割合も増加している。つまりこの国の医療技術は、人間の寿命という生死だとか、生命倫理の極北にいるのよ。だから、この国にはそういった先進技術がどんどん投下されて、老人が老人を働き支えるシステムが作られている。そしてそのシステムは動き続けてるのよ。すくなくとも国が滅びる瞬間までね……。そして、それこそケン・ウォンの研究分野っていうのは、まさにそういうモノらしいの。たとえばだとか、そういう生命を維持する、倫理にもとるような技術よ。この国には、そう言った技術がどんどん水面下で流れ込んできているわけ……」

 背筋に悪寒が走った。

 僕を救った技術。いま、僕がこうして生きている原因。脳移植。それすらも関わりがあるというのか。

「で、ここで問題。ハンが持っていたリストの内容は?」

「……麻薬中毒者の顧客リストですよね」

「そう。つまり、なの。まあ、今回はごく一部の例外が発生したわけだけど。でも、大概の人間はそんな連中気にしない。どんな目に遭っても、この国の人間は自己責任論を押しつけるから。『麻薬中毒者なんて、自己管理のできないクズなのだから、死んで当然』みたいにね。それがこの国の宿命であり、衰退の所以であるから……。あとは、わかる?」

「……つまりハンが持っていたのは、どんな目にあっても気にされないような人間のリスト。そして売ろうとしていた相手は、先進技術の披験体を求める技術者……?」

「そう。つまり、人体実験のための人身売買リストだった可能性が高い。わたしはそう睨んでいるわ」

 大通りに出る。

 さすがにもう往来でこんな話はできない。

 しかたなく僕らは口をつぐんだ。僕とリンの間にありがちな世間話なんてなかったから。

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