3-8

 遅れて到着した救急車がハンの命を救えるはずもなかった。過失運転致死傷罪の捜査が始まり、警察ばかりが現場には現れた。

 もちろん僕らも目撃者として証言を求められた。と言ってもタクシーがスリップして行ったと、そう答えただけだったのだが。結局のところ事故の原因は、すべてタクシー会社側の過失であり、責任は彼らにある。ハン・イーミンの事故死もまた、そういう結末カバーストーリーに帰結した。あるいは、させた。タイヤをパンクさせた銃弾など存在せず、またそれを画策した暗殺組織など存在しないというように……。

 結局、警察が僕らを拘束したのは、ものの十五分程度。それが終わると、僕は再びリンの運転するシビックに乗り込み、池袋の街へ消えることとなった。おそらく取り調べに来た豊島署の警官も、ドライブデート中に巻き込まれた不運なカップルぐらいにしか思わなかったに違いない。


 帰り道、僕はそこでようやくの拠点が文京区内にあることを知った。大学が乱立する巨大ビル群の中に、まるでキャンパスのようにひっそりと立つ高層ビル。その地下がすべて秘密基地だったわけだ。上層階はごくふつうの会社が入る貸しオフィスで、システム会社の営業所だとか、出来たばかりのベンチャー企業だとかが入っていた。どれも本物の企業で、ペーパーカンパニーではないらしいが、誰も階下が暗殺組織だなどとは気づいていないようだった。

 地下駐車場にクルマを入れ、そのまま地下二階の空洞へ。分厚いシャッターに仕切られたそこは、のみ立ち入りを許される空間だった。

 シャッターの向こうは、立体駐車場だ。円形の操車場にシビックを乗せると、リンはギアをパーキングに戻した。ゆっくりと床板が降下をはじめる。

「今日はご苦労だったわね」

「リンさんこそ」

「リンでいいって。……まあ、とにかくこれでキミはもう自分の尻拭いを終えた。あとは何も気にする必要はないわ」

「でも、この会社から足を洗うことはできない」

「そうね。もうキミは、首まで浸かってしまったわけだから。アタマは浸かってないみたいだけど」

 リンはそう言って、クスッといつものように微笑んだ。皮肉のような乾いた笑みが、彼女の特長だった。

 笑いながら、彼女は仕事を終わりの一服と言わんばかりにタバコを取り出した。

「わかってますよ。何度も聞きました。……僕は一度死んだ。生きるためには、殺さなくちゃいけないって」

「そう。それで正しいのよ。キミはね、はじめからそうなる運命だったのよ」

「運命って。そんなもの、リンは信じてるんですか?」

「ええ。もちろん」

 床が回転を停止。空いたスペースにクルマを納める。あとは降りて、出口へ出るだけだった。

 エンジン停止。リンはくわえタバコのまま車外へ。一服、紫煙を吐きながら、弊社へと続く階段へと向かった。

「ねえ、

 短くなったタバコを手で支えて、リンは言った。

 思えば、彼女が僕の名前を呼んだのは、このときが初めてだったのかもしれない。

「もしもわたしが未来から来た人間で、キミがこうなる運命をすべて知っていたって言ったら、どうする?」

 ――未来から来た。

 脳裏にレンゲの言葉がよみがえる。


『前に一度だけ『アンタってどこからきたの?』って聞いたことがあったな。ま、あいつ『未来』って言ってたけどね』


 そんなことあり得ない。

 僕は脳以外をすげ替えられたし、世界には殺しを請け負う企業が存在する。そんな非日常が、非現実が、いまの僕の前では当然のようにまかり通っている。

 でも、だからって未来人だって? そんなもの――

「……信じませんよ」僕は漏らすように言った。「たとえ裏社会の暗殺企業があったとしても、でも未来人はナンセンスだ」

「あっそう」

 と、リン。その声音は、興味がなさそうというよりも、残念がっているみたいだった。

「つまんないわね、キミって」

 リンは再びタバコを銜えた。乾いた隙間を、罰の悪い空気を満たすみたいに。

 僕の先を行く彼女は、欄干を左手にして階段を下っていった。そしてその左手とは、先ほど一人の男を殺めたばかりの手だった。

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