3-7
首都高に入ってからのリンの運転は、荒さの極みというようだった。追い越し車線を行ったりきたり。リンが駆るシビックは、編み目を縫うようにして進んだ。前のクルマが遅ければ速攻でウィンカーを出して抜き去り、ある程度の速度が出ていても、それをしのぐスピードで追い越していった。巡航速度としては一二〇キロを越えていたかもしれない。
しかし、その急ぎようも新宿を抜けたあたりで収まっていった。理由は明白だ。目的であるタクシーを発見したからである。
黒塗りのタクシーは、賃走の表示とともに走行を続けていた。その周囲にはグレーのミニバンが一台と、走り屋風のスポーツカーが一台。そしてEVのホットハッチが一台あった。少なくとも
「片づけるなら今のうちだけど……どうしたらいいと思う?」
徐々に車間距離を詰める。タクシーとの差はクルマ一台ぶんにまで縮まっていた。
「ハンが降りたところを狙いますか?」
僕はそう尋ねたが、しかしリンは首を横に振った。まるでその考えは初めから無しだといわんばかりに。
「わたしの勘が正しければ、やつはいま羽田に向かってる。そのまま高飛びするつもりなのよ」
「じゃあ、次降りたときは――」
「羽田でしょうね。空港は人目が多いし、それまで待ってたら谷口組の連中もやってくるはず。そうなれば、不用意に仕事には移れないわ。だけど、かといって高速のあいだは殺せるチャンスはない。相手のクルマを停めない限りは……。ねえ、そこのダッシュボード開いてくれる?」
「これですか?」
開くと、そこには拳銃が一つと予備弾倉が二つあるだけだった。
「ダメね。他に手を考えないと」
「銃でタイヤをパンクさせるとかはどうですか?」
「それ、わたしも考えてた」
左車線を行くタクシー。その隣につけるために、リンは右へ車線変更。車線保持システムと速度保持システムとが作動する。
リンの両手は完全にステアリングを離れ、上着の下へ滑り込んだ。胸元からなだらかに湾曲し、波打つワイシャツ。その上に装着されたのは、革製のショルダーホルスター。そこから彼女は銃を引き抜く。
「ねえキミ、上着を脱いで」
「え?」
「いいから、脱いで」
言われるがまま、僕はシートベルトを外してから、ジャケットを脱いだ。僕に選択肢はなかったのだ。
「それでわたしの銃を隠して。言ってる意味わかる?」
シビックを徐々に加速させ、タクシーとの距離を詰めていく。幸いにも後続する車両はいない。ゆっくりと相対速度を詰めていく。
助手席側の窓が開く。夜風が入り込み、その先に向けてリンの左手が伸びた。
「上着で腕を覆えってことですか?」
「正解」
僕は彼女の手に上着を優しくかける。僕の匂いのするそれを、彼女の細く長い、しかし殺意の詰まった左腕に。銃が見えないように、隠すようにして。
「そういうこと……。耳、ふさいでおいたほうがいいわよ」
「銃声で鼓膜が破れますか?」
「ええ。
僕が両手を耳に当てた、次の瞬間だ。
それは銃声と言うにはあまりにも静かで、しかも災厄の引鉄だというには軽すぎた。
パンッ、と僕の鼻先で弾けるような音した。それはポップコーンが弾けたみたいな音だった。でも、その実それは脳味噌が爆ぜた音だったのだ。
リンは、そのすべてを見据えていたようだった。ステアリングを左へ。ゆったりとタクシーの車体を避けながら急減速。本来、高速道路でブレーキングは御法度だが、もはやそうは言っていられない状況になっていた。
バックミラーには惨状が写っていた。ガードレールに激突したタクシーと、急停車した後続車両。幸いにも玉突き事故とはならなかったようだが、タクシーはひどい有様だ。フロントはペシャンコで、エンジンルームは煙を吐いている。クラクションは鳴りっぱなしで、運転手はエアバッグの上に倒れていた。
「行くわよ」
と、ミラー越しにその惨状を一瞥して、リンが言った。
「トドメを刺すわ」
ハザード点灯。リンはシート下から発煙筒を取り出すと、シビックから降りた。僕もそのあとを追う。
発煙筒点火。暗がりに真っ赤な光が灯った。リンはそれを左右に大きく振りながらタクシーへ近づいていく。さも人の良いドライバーのフリをしながら。
しかし、そのときの彼女の手には、発煙筒以外のものも握られていた。左手に隠したのは手のひらサイズのアルミケース。それは、名刺ケースだった。
「大丈夫ですか? ケガは?」
発煙筒片手に駆け寄るリンと、その後ろから近づいていく僕。
タクシーの運転手は、ひどい様子だった。それもそうだ。首都高を走行中に突然タイヤがパンクするなんて、想像もしないはずだ。……少なくとも、銃に撃たれる可能性を考えなければ。
運転手はひしゃげたドアを何とか開け放ち、外へ出た。エアバッグで胸骨を圧迫したのだろう。顔は青ざめて、今にも吐いてしまいそうだった。
そしてもう一人。後部座席から降りてきたのは、スーツ姿の男だった。黒の短髪をした、浅黒い肌の男。目深にキャスケット帽をかぶっていたが、その顔はハン・イーミンに違いなかった。
「そちらの方も。お怪我はありませんか?」
足下の覚束ないハンに、リンは声をかけた。タクシーの後ろに発煙筒を置きに行って、ハンの元まで回り込んで……。
そして、ハンが思わず倒れそうになった、その瞬間だった。
リンは革手袋をはめた左手で名刺を抜き取ると、よろめいたハンを支えに入ったのだ。むろん、両手でだ。そのときリンの左手は、ちょうどハンの首筋に触れていた。
毒の塗りたくられた名刺。それがハンの首筋を撫で、消えていく。
次の瞬間、ただでさえ青ざめていたハンの顔色がさらに悪くなっていくのを、僕は見逃さなかった。
「大丈夫ですか?」と声をかけるリン。
もちろん大丈夫なはずがない。だが、ハンもハンで、救急車の厄介になるわけにはいかないのだろう。彼は小声で「大丈夫だ」と答えるばかりだった。
だが、もちろん大丈夫なはずがなかった。
次の瞬間、ハンはアスファルトの上に倒れた。現場にいた誰かが悲鳴を上げる。大急ぎでリンが(見せかけの)救命活動に入ったが、もちろんそれが実を結ぶはずもなかった。
救急車が現場にたどり着いたのは、それから十四分後。ハンが絶命したあとのことだった。
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