3-6

 扉が開いた。外開きに、僕のほうへ向けて。向かい側に立っていたリンは、ちょうどハンと相対する形になっていた。

「……なっ!」

 驚き、嗚咽とも言えぬ声をあげるハン。

 しかしその次の瞬間には、声はうめきに変わっていた。リンが飛び込んでいったからだ。

 僕は扉の間を抜けて、拳銃を構えたままバックアップへ。そこには、格闘戦に入ったリンの姿があった。左手でハンを抱き寄せ、右手で彼のこめかみに拳銃を当てる。ちょうど人質を取るようにして。

「他に誰かいないか確認して。谷口組が監視を寄越してるかもしれない」

 リンが冷めた口調で言った。

 僕は黙ってうなずき、クリアリングを開始。リンとハンの二人をカバーするように動き回りながら、部屋中を探し回った。クローゼット、ベッドルーム、ベランダ。どこにも人の影はない。

 

 バスルームで僕が見つけたのは、死体だった。黒いスーツに身をまとった体格のいい男が一人、浴室のそばに血を流して倒れている。

 明らかにその死体は、一般人のものではなかった。剃り込みの入った坊主頭と、刺青の彫られた右腕。そっと上着を脱がせてみると、ホルスターと収められた自動拳銃マカロフが見つかった。間違いない、ヤクザだ。

 ――でも、どうしてヤクザの死体が?

「クリア。でも、死体が一人。おそらくヤクザのもの」

 バスルームから出て、リンに報告。すると、やはりリンも驚いた顔をしてみせた。

「ヤクザの? 谷口組が寄越した監視かしら。でも、どうして死体で? あなたが殺したの?」

 左手で拘束したハンに尋ねる。首にかけられたリンの左腕は、ぐっと力を増したように見えた。

 ハンは必死に首を横に振って否定した。

「あっそう。まあ、どちらにせよ好都合ね。処理する遺体が一つか二つかってだけだから。じゃあさっさと終わらせましょう。キミ、撃って」

「え?」

 次の瞬間、リンは、ハンを拘束していた手を離した。僕はとっさに銃口を彼に向けたが、それでも殺害目標が拘束を解かれたことに変わりはない。もっとも、ハンは僕とリンが持つ銃に前後を塞がれていたのだけど。

 僕が構えるHK45CT。その先端に、いま一人の男性の顔が合わさっていた。

「さあ、撃って」とリン。彼女のまったく銃口をそらさなかった。

「僕に殺せ、と?」

「そう。こういうところから仕事を覚えていくの。わかる? できることからやらせるわ」

「……撃てませんよ」

「撃てるわ。現にキミは、仮想空間で五十人殺してる」

「それは……」

 そのとき、僕は改めて照準器サイト越しにハンの姿を見た。

 もう三日も着替えていないのだろう。汗の匂いが染み着いたワイシャツに、くたびれたジャケットとスラックス。顔は浅黒く、アヴィエーターのサングラスをかけていた。短く刈り込まれた頭髪には脂汗が滲んでいる……。

 本当なら、彼はこれから風呂にでも入るつもりだったのだろう。バスルームからは勢いよく湯が落ちる音がしていた。

「あっ、あの! いったいどういうことなんです!」とハン。「ぼっ、ぼくはここにいるだけでいいって言われたんだ! ここにいたら、カネをもらえるって! こんなの聞いてない!」

 僕はそこでようやくに気づいた。

 この男、三日も拘留されていながら、無精ヒゲがまったくない。シャツは汗ばんでいるようだが、それだけだ。しかも、髪型こそハンに似ているが、その言葉遣いは明らかに日本人のそれだった。妙なアクセントは一つもない、流麗な語り口である。

「リン、僕に彼は撃てない。彼はハンじゃない。ニセモノだ」

「みたいね。……ねえ、あなたは何者?」

 リンが銃口を突きつけながらにじり寄る。

「ぼっ……ぼくは、ここのアルバイトで。宿泊客の方が服を交換して、しばらくここにいてくれれば十万払うって言ったものですから……」

「だまされてるわね、それ」

 リンがそう言った、次の瞬間だった。

 彼女は慣れた手つきで引鉄トリガーを絞った。二発、影武者の青年の頭と心臓へ一発ずつ。彼はまもなくベッドへ倒れ込んだ。僕はその光景を見ていられなかった。

「キミ、死体ボディをバスルームにでもやっておいて。処理は下請けにやらせるから。作戦変更よ。もう一度ハンを追わないと」

 リンは携帯を取り出し、いそいそと連絡を取り始める。

 一方で僕は、目の前で殺された青年を抱き抱えた。もう彼は絶命していた。僕のように救われる見込みもなく、息は完全に失せていた。


 死体をバスルームに片づけてから、僕らは大慌てで一階に戻った。そのあいだ、リンはスマートフォンを耳から離さなかった。

「……ええ。どうやらハンは、谷口組パートナーを始末して、彼らが用意したセーフハウスを脱出したみたい。谷口組とは、警察を出るまでの関係だったみたいね。……そう、まだ西池袋。足はすぐに用意できる? わかった。おおまかな位置は把握できそう? ……了解。すぐに向かう」

 フロントロビーを抜けて外へ出たとき、ようやく彼女はスマホを上着のポケットへしまった。

「急いで。クルマを用意したから、まずそこへいく」

「居場所はわかってるんですか?」

「レンゲが探してる。すぐに見つかるはず」

 言って、リンは足早にホテルを後にする。彼女は一目散に駅方面へ向かいだした。


 着いたのは、池袋駅近くにあるコインパーキングだった。満車のサインが灯るそこに彼女は入ると、一台のクルマの前で足を止めた。

 ホンダのシビック・ハッチバック。漆黒の車体が、狭苦しい駐車場の片隅に停められていた。

 カギは開いていた。ダッシュボードの上に放置され、そのままにされていた。まるで示しあわされたみたいに。

 リンは運転席へ滑り込み、僕は助手席に。彼女はすぐにエンジンをスタート。シートベルトを装着したのは、走り出してからのことだった。

「このクルマに乗るのは久々なの。ハンズフリーの設定してないから、ちょっと代わりに電話してくれない?」

 と、リンはステアリングを片手で回しながら、左手でスマートフォンを取り出す。僕はそれをなんとかキャッチする。

「誰に電話すれば?」

「LINEでいいわ。直近の相手にレンゲがいるはず。かけて」

 緑のアイコンをタップ。たしかに直近の連絡先にレンゲの名があった。タップして通話すると、レンゲはすぐに応じた。

〈クルマは受け取った?〉とレンゲ。

「たったいま乗りこんだところで、移動中です」

〈ああ、その声は新入り君のほうか。そういえばシビックはハンズフリーの設定してなかったな〉

「そういうことで自分がかけてます。それで……」

「ハン・イーミンの現在地を教えて」

 リンが割り込んで言う。僕も復唱してレンゲに伝えた。が、結局それでは非効率的なので、スマホをハンズフリー通話モードに切り替えた。

〈いま調べてる。街頭の監視カメラだとか、警察のNシステムを覗かせてもらってね。で、ハンの位置情報だけど……彼、どうやらタクシーを拾ったみたいね〉

「やっぱり組とは手を切ったみたいね」

〈うん。警察に対しての圧力は谷口組ヤクザ経由みたいだけどね。でも、いまの逃亡はあくまでもヤツ個人の判断みたいだね。彼らから逃げてるのか、あるいはもっとほかに金払いのいい組織が絡んでるのか〉

「なるほど。じゃあ、逆に谷口組の連中がハンを追ってきてる可能性もあるわね」

〈あるね。かち合うかも〉

「それは勘弁したい。さっさとハンを排除する。位置情報は?」

〈いまそっちのカーナビに送る。どうやら首都高に乗ってるみたい。いまは新宿方面に行ってる〉

「首都高? 厄介なことになったわね……」

 赤信号。交差点で停止。ちょうど僕らの視界にも首都高環状線が見え始めていた。

「わかった。首都高で、しかもタクシー相手に、車内なかのハンだけを殺るっていうのは、ちょっと難しいかもしれないけれど。でも、やるしかないわね」

〈どうやって殺るつもり?〉

「それはこれから彼と一緒に考えるわ」

 青に切り替わる。都道三一七号線から西池袋料金所へ。クルマは首都高速に入る。


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