3-5

「地下鉄で行くわ」

 リンがそう言ったとき、初め僕は彼女が言った意味がわからなかった。いや、地下鉄という言葉自体はわかった。だが、彼女が指す地下鉄が何線なのか、それは僕の予想を一八〇度も違えていた。

 彼女が案内したのは、このビルの地下深く。僕の寝室がある部屋のさらに下、他の部屋よりもひときわ大きな扉の設けられた場所。一瞬、僕は突き当たりと間違えたぐらい、その扉は大きく、しかし自然な調和を保っていた。

 リンが首から下げたIDをかざすと、扉は音を立てて開き始めた。と同時、その隙間から強烈な風が流れ込んできたのだ。

 疾風。それに巻き込まれて鼻を突くのは鉄の匂い、カビの匂い、小便のすえた匂い……とにかくというものの醜悪な部分を押し込んだような匂いだった。

 そして次の瞬間、その風の正体が姿を現した。

 僕らの視界の先。暗闇の中で、コンクリートの柱がいくつも屹立している。そしてその向こうを列車が走り去っていった。真っ赤なラインをまとった車両が、なにごともなかったかのように。

 それは、東京メトロ丸の内線だった。

「あっちは一般向け」

 と、リンが吸い終えたタバコを携帯灰皿にねじ込みながら。

「で、こっちがわたしたち専用」

 リンが言った、次の瞬間だった。

 柱を隔てたこちら側。開いた扉のすぐ手前。僕らの目と鼻の先に一両編成の列車が現れた。運転室には誰もいない。無人運転の漆黒の在来線。それがぬるりと闇から現れ、僕らの前で停車した。まるでここが駅だと言わんばかりに。

「乗って。現場の近くまではこれで向かうわ」

 プシューッ……と音を立て、扉が開く。鼻声の車掌によるアナウンスはなしだ。

 リンのあとに続いて、僕も列車内へ。まもなく、僕らを乗せた特別列車は池袋方面へと出発した。


 その列車が不思議に見えたのは、たぶんからだろう。乗客も、運転士も、車掌も、広告や吊革すらもない。あるのは次の停車駅を告げる電光掲示板だけだ。それには『池袋駅』とだけ記されている。ほかには何もない。あとは僕と、リンの二人だけ。

「ハン・イーミンの身柄は、一度解放されるらしいわ。わたしたちが狙うのは、そこ」

 ガタン、と電車が揺れる。吊革はないので、ポールだけが静かにふるえていた。

「警察としては身柄を押さえておきたいようだけどね。、まあ、ハンもハンで、どこかヤクザにでも圧力をかけさせたんでしょう。八時前に迎えのクルマが来る。クルマは彼を乗せて西池袋へ、そのまま今夜はビジネスホテルに宿泊するという話。わたしたちは、その彼が一人になった瞬間を狙う」

「どうやってですか?」

「訓練どおりに」

 列車がブレーキをかける。ポールにつかまっていた僕は、思わず前傾姿勢に。

「もう着くわ。キミはわたしに着いてきて。バックアップよ」


     *


 の極秘列車は、旧池袋駅の残骸という廃屋に停車。その後僕らは裏口を通り、JRの社員通用口を経由して池袋駅構内にまで出た。そこからは、もう西口へと出るだけだった。

 池袋西口。

 そこへ出たのは(体感的には)三日ぶりのこと。そしてその当時はまだ、僕は名実ともにだった。

 でも、いまは違う。

 僕の肉体は秋桐ユキトであり、その着衣も大学生のそれではなくなっている。ブラックスーツに、上着の下には拳銃が一つ。そして前を行く女性は、殺人のために池袋の街を闊歩している。そんなこと、行き交う人々は誰も知らないだろう。三日前の僕も知らなかったのだから。

 薄汚れた夜の街。帰宅を急ぐスーツの群に逆らい、僕らは高くそびえるビジネスホテルの方角へ。いまの僕にはリンの後を追うだけで精一杯だった。


 そこは何の変哲もないビジネスホテルだった。歓楽街から少し外れたところにある、某有名グループ企業経営のホテル。一階にはフロントロビーと、朝食バイキングのあるレストランフロア。それから小さな売店。客室は二階からだった。

 リンは何のためらいもなく正面玄関から中へ入った。フロントの女性が深々とお辞儀していたが、リンはさも宿泊者然として素通りした。

 そのままエレベーターで三階へ。僕も後に続いた。

 そうしてリンが足を止めたのは、三階奥の部屋。三二七号室の前でのことだった。

「ねえ、『レオン』って映画、見たことある?」

 とつぜん、リンが言った。

「なんですか急に」

「見たか、見てないかって聞いてるんだけど」

「ありますけど。たしかナタリー・ポートマンが若いころに出てた作品ですよね」

「そう。そのなかでね、噛んでたガムを覗き窓にはっつけて、相手を騙し討ちにするってシーンがあるの。覚えてる? ちょうどマチルダが、レオンに殺し屋の弟子入りをした直後のシーンだったと思うんだけど」

「……それ、やるんですか?」

「まさか。ちょっと思い出しただけ。まあ、少なくともここに監視カメラはないみたいだし、どこかを目隠しする必要はないわね。……スタンダードなのでいく。バックアップを。せめてマチルダ並には役に立ってね」

 そう言うと、リンはインターホンを押した。覗き窓にガムはない。向こうからは丸見えのはずだ。

 直後、受話器をあげる音がして、インターホンの向こうから声がした。

〈だれだ?〉

「ルームサービスです」

〈わかった〉

 通話はたった一言で切れた。そして、そのかわりにドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。

「用意して」とリン。

 そのとき、すでに彼女の手には銃が握られていた。この一瞬の間にホルスターから抜き出したのだ。

 僕も大慌てで銃を抜いた。

 思わず額に脂汗がにじんだ。

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