3-2

 言われるがままだった。

 脅迫されるがままだった。

 僕は一種のストックホルム・シンドロームにあったのだと思う。楪リンという女に、幾ばくながらの敬意の念を持ち合わせ始めていた。それは敬愛というよりは、むしろ畏敬と呼んだほうが正しいのかもしれないけど。

 彼女が連れてきたのは、いつもいるフロアよりももう一段上の階層だった。僕と言えば、この三日間、訓練施設トレーニング・ルームと分け与えられた私室の往復しかしていなかったから、新鮮だった。

 リンが案内のは、『電算室』と記された部屋だった。そしてその室内というのは、表札に記された意味と大差ないものだった。

 薄暗い部屋の中、吐息のように作動音を響かせるコンピュータの群。全長二メートルはあろうラックに漆黒の棺が納められている。それは赤、青、緑、黄色と色とりどりに輝きながら、群をなして呼吸しているようだった。

 そんな部屋の奥。十も並んだディスプレイの中に一人たたずむ女性がいた。白衣を着た背の低い女。その手元には板チョコの銀紙が何枚も散乱していた。

「レンゲ。ウワサの新人君を連れてきたわ」

「あァ? 予想より二時間早い」

 くるり、と革張りのイスを回転させ、白衣の女はこちらを振り向いた。

 跳ね回る黒い短髪。大きな銀縁のメガネに、そしてネルシャツとジーンズ。そのうえに白衣という不揃いなファッション。レンゲと呼ばれた彼女は、机上のマグカップを手に取ると、それを飲みながら僕を見つめた。

「フーン。ま、たしかに見た目はどっからどうみても秋桐ユキトその人ね」

「でも、中身は違う。彼にはまだ、彼自身の記憶がしっかりと残っているわ」

 言って、リンはおもむろにジャケットからタバコを取り出した。いつもの緑色のパッケージ。口にくわえると、反対のポケットからマッチケースを取り出そうとした。

「オイ、リン。アンタ何度言ったらわかるわけ? ここは禁煙。吸うなら、出てって」

「ごめん。つい癖で」

「まったく。クセだかマネだかモネだか知らないけど、この部屋はとにかく禁煙。わかってんの?」

「わかったわかった。じゃあ、わたしは出てくから。彼に説明をお願い」

「はいはい。どうぞ一服ごゆるりと」

 レンゲがそう言うと、リンはくわえタバコのまま外へ。一方でレンゲはモニターのほうへと振り返った。

「守田とか言ったっけ、アナタ。アタシは烏瓜カラスウリレンゲ。レンゲでいいわ」

「守田セイギです。……カラダは秋桐ユキト、らしいですけど……」

「あー、それはアタシ気にしてないから。で社員のバックグラウンドをとやかく言う人はいないからさ、気にしないでいいよ。仕事が仕事だし。……むしろさ、アタシが気になるのはアナタの死因なんだけど。ねえ、アナタなんでハン・イーミンを助けたわけ?」

「助けたって……」

 ――助けた?

 ――どうして助けた?

 ――僕は本当に”彼”を助けたのか?

 ――あのとき、僕はに背中を押された気がした。

 ――でも、手を差し伸ばしたのは、な気がした。

 ――あるいは、僕のなかの、僕でない誰かの……。

「……ライ麦畑の捕手キャッチャーになりたかったのかもしれません」

 苦悩の末、僕がようやくひねり出した言葉はそれだった。

「なにそれ? あ、あれか。『ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ』か。そういえばアンタ文学部だったらしいもんね。たしかあの本ってさ、高校生がニューヨークほっつき歩いて、最後には精神病院に入れられちゃうってハナシでしょ? 正直ツマンナイよね、アレ」

 レンゲは問いかけるような目線を送る。僕は意図的にそこから外れた。

「文学的教養もあるんですね、レンゲさんって」

「レンゲでいいわよ。ま、いちおう京大だしね。甘く見ないでよ。……って、打ち解けるためアイスブレイクの世間話はこれぐらいにしてさ。そろそろ本題入りたいんだけど、いいよね?」

 僕は視線をそらしたまま、うなずいた。レンゲもそれでいいようだった。

「で、アナタはさ、アタシたちがなにをやっているか。どうやって飯の種を得ているのか、もちろん聞いてるよね?」

「暗殺と諜報を主とする政府機関の第三セクター……と、聞いてますけど」

「正解。でもね、いくらが暗殺者集団って言っても、そのなかにも分担があるのよ。リンやアナタみたいに現場へ出てをこなす営業職エージェントもいれば、アタシみたいに事務方を担当する人間もいる。

 で、だけど……。とりあえず今のアタシの仕事は、アナタとリンの次なるターゲットの情報収集と、その抹殺のサポートってわけなんだけど……」

 カタン、とレンゲはエンターキーを勢いよく叩いた。そして次の瞬間、彼女を取り囲む無数のマルチディスプレイに一つの映像が映し出された。

 それは、一人の男の姿。牢屋のような狭苦しい部屋に押し込まれた、一人の男性の姿だった。

「これが誰だか、わかる?」

「誰ですか?」

「はァー……。アンタが助けた相手。ハン・イーミンよ。それもわかんないわけ?

 警察はあなたの死後、他殺の可能性も含めて捜査を始めたの。で、まあおおかた自殺の方向でカタがつくものと思われてたんだけど、でもその場に居合わせたハンが元ドラッグ・ディーラーって情報が出てきた。もちろん、ハンを叩けばホコリはいくらでも出てくる。そこで警察は彼を容疑者として起訴すべきか否か、考えあぐねているわけね。で、警察がハンを拘留できる最長のタイムリミットってのがなんと

「……つまり三日間」

 ゴクリ、と思わず僕は生唾を飲んだ。リンの言葉がつながった気がしたのだ。

「そう。リンが言ってるOJT、あるいは実地研修っていうのは、つまりハンの処理のこと。リンのやつは、初めからアナタに自分のケツモチをさせるつもりだったってわけよ。で、そのタイムリミットが今夜零時」

「リンは……僕にハンを殺させると……?」

「そう。それが第一の現場研修ってことね」

 レンゲはクスクスと嗤いながら、ディスプレイに映る映像をもとに戻した。

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