1-2

 意識の流れ。

 ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナーは、精神の移ろいをそのままに言語化した。意識の流れのまま文章を書きつづることで、取り留めもない言葉のマトリクスが形成し、信用ならざる語り手アンリライアブル・ナレーターを生み出したのである。いまの僕の状態とは、まさにそんなものだった。

 あるいはこう言い換えることもできる。と。


 電車に衝突した。そこまでは覚えている。

 あのとき、僕の体はとっさのうちに動き出し、気づけばすべてが終わっていた。よく事故や災害にあった人が「あっという間の出来事だった」などと口にするが、まさにそれだったのだ。

 衝突のあとは、朦朧とした視界と聴覚があるだけだった。時間感覚はもちろん無いし、自意識だって薄れている。現実味だってもちろんない。もっと言えば、痛覚や触覚すらもなかった。きっと麻酔のせいだろう。

 ただ僕はひどい疲労感だけを覚えていた。

 ぼんやりとした視界のなか景色が流れていく。走馬燈のごとく。でもそれは、どうにも担架が動いているだけのようだった。空は青くなく、白かった。どうやら屋内らしい。病院だろうか。

「どうします、会長? とりあえずは指令通り警察病院に搬送しますが。そのあとのは……ええ、自分の失態です。それは熟知しております」

 白衣の男女に紛れて、黒服の女性が見えた。レザージャケットにパンツスタイル、栗色のポニーテールと、日本人離れした青白い肌。彼女は左手で携帯電話に応じていた。

「……はい。それで会長、実はわたしから一つご提案が。……ええ、その被験者にを使おうと思いまして。……はい、危険なのは承知しています。しかし、すでにが関わってしまった以上、彼の死は偽装するより他にありません。死体もそのまま家族には引き渡せませんから。ならば、彼を被験体にするのは、我々にとっても好都合かと」

 そのとき、携帯電話を持った彼女が――あの女性が僕の顔ををのぞき込んだ。間違いない、あのタバコを落とした女性だった。

「ええ、問題ありません。万が一にも失敗した場合、わたしのほうで直ちに。……はい、それでは失礼します」

 言って、女性は通話を切る。

 そしてそれに呼応するようにして、僕の意識もまたプッツリと切れた。


     *


 それから覚醒したのは、はたして何時間後のことだったろうか。

 体内時計はすっかり死んでいた。頭がフワフワする。その代わりに全身が重く、あらゆる箇所に重石を乗せられているような気分だった。

 ――何かがおかしい。がおかしい。

 真っ先に感じ取ったのはそれだった。

 次にまぶたを開いた。やっと開けた視界は、白に覆われていた。光が網膜を刺激する。今一度まぶたを閉じそうになったが、なんとか持ちこたえる。僕はやっとの思いで目を見開いた。

 すると、その次の瞬間。視界にまたが飛び込んできたのだ。あの女性――青白い肌と、栗色の髪。ワイシャツにパンツスタイルのラフな格好の彼女。見かけ二十代後半ぐらいの彼女は、僕をのぞき込んで言った。

「おはよう」

 僕は答えようとした。だけどうまく舌が回らず、また唇を開くこともままならなかった。

「無理にしゃべる必要はないわ。まだキミは覚醒して間もないのだから。それに、まだキミはされている」

 ――拘束? どういうことだ?

 カラダを動かそうとしてみる。すると、すぐにその言葉の意味が分かった。両手と両足、そして腰に革ベルトが巻き付けられている。どうやら重さの正体とはこれだったのだ。

「まずは、いまのキミの状況について軽く説明しよう」

 彼女はそういうと、ベッドサイドのリモコンを手に取った。スイッチを押すと、僕が寝ている病床がゆっくりと起きあがって、ソファーに変形した。

 部屋の全容が明らかになる。ごくふつうの病室のようだった。ただ奇妙なのは、窓が一つもないことだ。

「でもその前に、キミはを交わさなければならない。そうしなければ、キミは後にも先にも行けないからね」

「……どう、いう……ことです?」

「だんだんしゃべれてきたようね。そうね、つまり今のキミは、まだ死んでいるのよ。契約を結ぶ気がなければ、キミは生きることを許されない。なんたって、とんでもなく面倒な事件に首を突っ込んでしまったからね。……あっ、会長、彼が起きましたよ」

 彼女は病室の扉、その向こうへと声をかけた。

 すると扉を開けて一人の男性がやってきた。はげ上がった頭と、白く濁った瞳。杖を突きながら歩く彼は、彼女の介助もあってようやく僕の前に立った。

「こんにちは、守田セイギくん」

 第一声。しわがれた声で彼は言った。見かけ五十代ぐらいに見えたが、声音はもっと年老いて、年期が入っているようだった。

「あの、ぼくの、名前を……?」

 ――どうして僕のことを知っている? 僕はこの女性のことも、男性のことも知らなかった。

「ああ。実は君のことは色々と調べさせてもらったんです。というよりも、『調べざるを得なかった』と言うべきですかねぇ。我々は、君という存在を『消す』必要があったんですよ」

「どういう、こと、ですか……?」

「そこから先を聞くのは、君が我々との契約にイエスと答えた場合だけです」

 言って、初老の男性はおぼつかない手で病床の隣――僕のカラダに繋げられた無数の管の、そのコントロール・ユニットに触れた。

「いいかい。君のカラダはいま、絶妙なバランスの上で存在している。そして我々の技術では、君を今後とも生かすことだってできる。でも、それは君がの秘密を守り、我々の一員として働くことを認めた場合に限られる」

「……どういうことですか? 契約って、なんの?」

「それも答えられない。君が答えられるのは、イエスとノー。その二つだけです」

「ノー、といったら……?」

「直ちに投薬量を上げ、ここで君を殺すことになるね」

 ――君を殺す。

 そんな言葉がサラリと出てくるとは、ゆめゆめ思っていなかった。

「ころ、す……?」

「そう。実を言うと、ここは正規の病院ではない。隔離病棟の一部を、我々が借りているだけです。極秘裏にね。そして君は、正規の医療行為によって助かったのではない。だから、君は本当は死んでいる。あのとき、を助けて、代わりに死んだ。だが、彼女の一存により助かった。すくなくとも、いまはね」

 ――彼女。

 隣に立つ、男性的な雰囲気の彼女。ポニーテールにした髪を揺らしながら、彼女は僕を見つめていた。

「しかしこれから先、君がさらに生きたいというなら話は別です。生きたいなら、君は今後一切それまでの関係を絶ち、新たな人生をスタートしなければならない。我々に敷かれたレールに従った、新たな人生をね。そう誓うのであれば、君の生は保証しましょう」

「そんな、むちゃくちゃ――」

「ムチャクチャですか。でも、むしろ我々にとっては君の方がムチャクチャなんですよ。助けてやっただけありがたく思ってほしいぐらいに。……さあ、どうするかい? 我々に従います?」

 服従か、死か。

 この男はそう言っているのだ。

 僕はまだ重たく気だるい意識のなかで、必死に考えを巡らせた。しかし、生よりも優先すべきことなどあるわけがない。死よりも恐ろしいものなどあるわけがない。気づけば僕は「イエス」と答えていた。

「フム、それでいい。では、説明しましょう。まずは自己紹介から。私は御楯ミタテカンゾウ。そしてこちらの彼女はユズリハリン」

 ユズリハ・リン。そう紹介された彼女が小さくお辞儀した。

「そして、いま君が置かれている状況がこうだ」

 言って、御楯は病床のサイドテーブルから何かを取り出した。それは手鏡だった。何の変哲もない、丸い手鏡。彼はそれを僕に向けた。

 はじめは蛍光灯の光を反射して、何がなんだかわからなかった。だが次の瞬間には、彼が言いたかったことが何かわかった。

「落ち着いて、現実を受け止めてほしい。君を生かすには、それ以外に方法はなかったんだ」

 鏡に写されたのは、だった。少なくとも、僕――守田セイギの顔ではない。そこにあったのは病人のような、あるいは死人のような白い肌をした男性。肩幅の広い、体格のいい男。少なくとも文学部で英文学を専攻しているようには見えない。まるで警官か、軍人のような体つきをしていた。

「……これって……」

 僕がそう口にすると、そのの顔が対応して動いた。

 ――ウソだ。

 信じられない。でも、そうだった。

 僕が口を開けると、鏡の向こうの男も口を開けた。

 僕が目を瞬くと、鏡の向こうの男も目を瞬いた。

 僕が「ウソだ」と言うと、鏡の向こう男も「ウソだ」と言った。

「事実だよ」と御楯が言う。「暗殺・諜報活動ウェットワークを請け負う政府の第三セクターです。そして君は我々の死の納品先ターゲットである男を勝手に助け、死亡した。そう、あのとき君の肉体はんだ。しかし君の死は高度に政治性と機密性を有しており、死体はそのまま放置できなかった。ゆえに我々は、かろじて生きていた君の脳を別の肉体への移植実験に使用することにした……。つまり君は脳移植の被験者に選ばれ、見事それに成功したんだよ」

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