第一幕
第一の死
1-1
〈一年前 東京都〉
チャイムが鳴った。大学の校歌だとかいう、行進曲のようなチャイムが。でもそのチャイムを聞いて歩きだす者なんて一人もいない。狭苦しい教室と、巨大なキャンパスとに響くだけだ。もう帰る時間だぞと、そう示すように。
「じゃあ、時間も来たので今日は佐藤さんまでということで。来週は守田君から」
教授は、十あまりしかいない受講生に呼びかけた。佐藤というのは僕の前に座っている女学生のことで、守田というのは僕――守田セイギのことだった。
教授の一言とチャイムから、学生たちは身支度を始める。あたりはすっかり夕方になっていた。日は徐々に暗くなり始めている。学生が帰りを急ぐのももっともなことだった。だけど、このゼミの学生が急いでいるのは、ほかに理由がある。
僕は二十人も入れない小教室を一番最後に出た。といっても、教授を除いてだ。僕が出た後、あとを追うようにして教授が出てきた。
「守田」
と、彼が両手いっぱいに書類とパソコンを持って言った。
僕はその問いかけに立ち止まってもよかったし、無視してもよかった。だけど、このときはしっかりと立ち止まった。帰宅ラッシュの、キャンパスの喧噪のなかで。
「なんでしょうか?」
「来週の発表の資料、まだ出てなかったよな」
喧噪。文学部キャンパス三階の騒がしさは、他キャンパスと比べたらずっと静かだ。でも、いまの僕にとってはうるさくてたまらなかった。
「すみません。今日出します」
「急いでくれ。私も明日チェックするから。……って、そういえば守田、けっきょく君は今日の飲み会は来ないんだったか?」
そう。彼らが帰宅を急ぐ理由はそれだ。
「ええ、まあ」と僕は軽く茶を濁す。
「他に重要な用事が? 彼女とデートか?」
「まあ、そんなところです」
僕はそういって決まりの悪い笑みを浮かべたけど、教授はそんなこと気にしているようすではなかった。むしろ彼は「この色男が」と僕の脇腹を小突いて、四階へと続く階段へ向かっていった。文学部研究室の並ぶ空間へ向けて。
大学を出てから、僕は何の理由もなく、あてもなく外を歩いた。暇をつぶすように、理由を見つけるように。キャンパスを出てから、池袋駅西口方面へ。僕は喫茶店に入るわけでもなく、公園で腰を下ろすわけでもなく。ただ呆然としていた。でも、本当のところは、完成していない発表資料に向き合えなくて、課題をサボる言い訳を探していたのだと思う。
池袋駅西口。変色したコンクリートと、退色した看板、切れかけのネオンサイン。かつてのラブホテルと、改装された映画館、もぬけの殻のゲームセンター。
僕はしばらく歓楽街を散歩していたけれど、しばらくしたら駅に向けてUターンを始めていた。映画でも見ようと思っていたのだけど、けっきょく課題をしたほうがいいと思い直したのだ。
大学図書館にでも戻ろうかと思った。
池袋駅。西口からすこし逸れたところに、東側への連絡通路がある。僕はそこを抜けて、大学に戻ろうと思った。
人通りの多い大通りをすり抜けて、路地裏へショートカット。といっても、さすがは池袋。薄暗い路地でも、数人の歩行者はあった。室外機が轟音を立てるなかを、スーツ姿の男性に、パンツスタイルの女性が歩いている。僕はその後にならって、東口に向かおうとしていた。
と、そのときだった。
数歩先を歩いていた女性がポケットに突っ込んでいた手を抜いた。するとその拍子に、ポケットから何かが転がり落ちたのだ。それは白いちいさな箱だった。箱は地面に転がり、そして爆ぜた。
僕はその白い箱に、しばらくのあいだ目を奪われていた。そして気が付くと、あの女性も、その先を行っていた男性も消えていた。
「あっ、あのぉ!」
僕はそう口にしたが、しかしもうそこに女性はいない。
あるのは、地面に落ちたものだけ。
それはタバコだった。一箱のハイライト・メンソール。白いソフトケースに、緑色のロゴマーク。しかし封は切られておらず、完全な新品だった。まだビニルテープすら剥がされていない。
いったい僕は課題よりもお節介のほうが重要だと思ったのだろうか。気づけば路地を抜け、女性の影を追っていた。
女性の姿はかろうじて見つけられた。駅の方向。改札を抜け、山手線のホームへと向かっていく喧噪の中に。
「あの! これ!」
僕はそういって手を挙げたが、しかし女性はうんともすんとも言わなかった。こちらを振り返りもせず、ただ帰宅ラッシュの人の波をかき分けていく。まさしく我関せずという雰囲気。まったく彼女は現実から切り離されているみたいだった。
山手線に急ぐ人たちは、みな僕を奇妙に思ったし、邪険にしていた。そりゃそうだ、片手にタバコを持って、「あのぉ!」とか、「すみません!」とか言ってる男だ。僕が彼らの立場でも、きっと近づかないだろう。それにここは東京だ。この街の住人は、人一倍他人への興味を失っている。
五番線に出た。山手線内回り。ちょうど向かいのホームから列車が出て行く。それと同時、僕がいたホームにもアナウンスが響いた。
「まもなく、五番線に列車が――」
アナウンスが告げる。黄色い線から待避せよと。でも、帰宅者の列は誰も従わない。そして、僕が追いかけていた彼女も。
「はい下がってください。列車がまいります」
駅員がマイク越しに警告する。それでも人々の列は変わらない。その先の彼女も。
僕はそれに追いつこうとした。
――どうして?
――タバコを届けるため?
単純な理由だが、きっと何かそれに運命的なものを感じていたのかもしれないし、もしかしたらその女性の後ろ姿に惚れていたのかもしれない。あるいは、ただ僕は自惚れていたのかもしれない。
そうして緑色の列車が、レールの向こうに見え始めたころだ。
僕はようやくその女性に追いつけそうだった。
だけど、次の瞬間には頭がパニックになった。
どすんっ、と体を誰かに小突かれた。足をくじきそうになったけど、転びはしなかった。でも、事態はそれだけでは済まなかった。
「あっ……!」
と、誰かが言った。
それはホームに並んでいた女子高生か、それともサラリーマンの一人か、それとも僕が意識せず発した言葉なのか。それはわからなかった。だが、次の瞬間に視界へ飛び込んできたのは、一人の男性だった。
スーツ姿の、やさぐれた中国人風の男。それは、路地裏で僕とあの女性の前を歩いていた男だった。そしていま、その男性は駅のホームから飛び出していたのだ。
男性の体が宙に浮く。黄色い線の向こう側、山手線の緑の線が見える、その先へ。
誰かが悲鳴を上げている。落下に気づいたのだ。そして、それから先起きる悲劇にも。
あっ、と漏れた言葉が合唱になっている。
そして、あの女性が――タバコを落とした女性は、ひっそりと黄色い線の後ろ側に戻ろうとしたいた。
そのとき僕にはすべてがスローモーションに見えた。
そして何を思ったのだろう。本当は彼女にタバコを届けようとしただけなのに、それなのに僕は、目の前でたったいま落ちそうになっている男性に手を伸ばさなきゃと思って……
警笛が聞こえた。
それ以降はわからない。ただ女性を追いかけて、そして不意に男性が落ちて、僕はそれを救おうとして。
気づけば、鈍い衝撃が全身を駆けめぐり、意識は消失した。
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