第7話

「ア、アイちゃんの事ですか?」

「はい。奥様が、アイちゃんの事をとても心配されていましてね。こういったご依頼は私も初めてなんですけど、奥様がとても心配されているお気持ちが伝わってきましたので、お受けする事にしました」

「そ、そうですか。それは、わざわざありがとうございます」

 と、俺は頭を下げた。

 しかし――

 アイちゃんって、いったい誰だ? 名前から考えると、女性のようだが……。

 まさか、娘だろうか? 夫婦二人だけだと思ったが、娘もいたのだろうか?

 そういえば、一階はすべての部屋を確認したわけではない。もしかしたら、二階の奥さんの寝室だと思った部屋が、娘の寝室だったのかもしれない。

 そうだとすれば、あれはやっぱり若い女性の――

 いやいや、今はそれどころではない。

「そ、そうでしたね。アイちゃんの――いや、アイの事でしたね」

 と、俺は言い直した。自分の娘に、ちゃん付けはおかしいと思ったからだ。

「はい」

 と、桜井さんは頷いた。

 しかし、アイちゃんは何歳なんだろうか? 二階の寝室がアイちゃんの寝室だとすれば、化粧品があった事から考えても、ある程度大人だろう。

 もしかしたら、女子高生くらいかもしれないが。いや、そこまで若い人の部屋ではないか。

「それで、妻はアイの何を相談したんでしょうか?」

「アイちゃんが、ストーカーに狙われているんじゃないかという相談です」

「ス、ストーカーですか?」

「はい、そうです。知らなかったんですか?」

「え、ええ。お恥ずかしい話ですが、あまり妻や娘とは話をしないもので……」

 ストーカーという事は、20歳前後くらいだろうか?

 しかし、こういったご依頼は初めてと言っていたな。弁護士なら、もっとあってもよさそうなものだが、意外とストーカー相談というのは少ないものなんだろうか?

 ――まさか!

 桜井さんは、まだ弁護士になったばかりで、経験が浅いのだろう。つまり、自分の事務所というのは、金持ちの親にでも出してもらったのだろう。

 きっと、そうに違いない。こんな実力もない新人弁護士に、俺が負けるわけがないだろう。

「そうなんですか? まあ、ご家庭の事情は、それぞれですからね」

 と、桜井さんは微笑んだ。

「それで、ストーカーというのは?」

「まだ私も詳しいお話は聞いていないのですが、奥様がおっしゃられるには、奥様とアイちゃんがお散歩に出掛けると、必ず公園の辺りから後ろをついてくるとか」

「後ろをですか? 完全な、ストーカーじゃないですか」

 しかし、散歩か。今どきの若い女の子は、母親と一緒に散歩なんかするのか?

「そうでしょうかね?」

「いや、そうでしょう! 必ずついてくるなら、ストーカーじゃないですか。妻も、警察に相談すればいいのに」

「警察にも、行かれたそうですよ。でも、相手にされなかったそうです。まあ、当然ですよね」

 当然? 何が、当然なんだ?

「警察も、酷いですね。過去にも、ストーカー殺人なんて何度かあったじゃないですか!」

「は、はあ、そうですね」

 桜井さんは、俺のあまりの剣幕に、少し引いている。

 俺自身も、どうして他人の娘の事に、こんなに熱くなっているのか分からない。

「もしも、娘がストーカーに殺されたら、誰が責任を取ってくれるんですか!!」

 何故か、俺は顔を真っ赤にして怒っていた。

「そんな、大袈裟な。あ、あの、ストーカーに狙われているのは、アイちゃんですよ?」

「ええ、分かっていますよ! アイは、大事な娘ですから!」

「そ、そうですか――」

「ええ、私と妻の間に生まれた、大事な娘です!」

 大事な事だから、もう一度言ってみた。

「生まれた? 松井さんの奥様が、アイちゃんを生まれたんですか?」

「そんなの、当たり前でしょう? 私は、男ですから」

 桜井さんは、何を言っているんだ?

「いえ、そういう意味では――」

「それじゃあ、どういう意味ですか?」

「まあ、落ち着いてください。松井さん」

「これが、落ち着いていられるわけがないでしょう」

 そろそろ、桜井さんを追い返さないとまずいな。この話の流れから、なんとか追い返す方法はないだろうか?

「そうだ、松井さん」

「なんですか?」

「やっぱり――」

 桜井さんは、俺の顔を見て、ニッコリと微笑んだ。

「やっぱり?」

「あなた――杉本明さんではありませんね」

 と、桜井さんは、俺を指差して言った。


「な、何を言っているんですか? お、俺は、杉本明ですよ」

 俺は否定をしたが、明らかに動揺をしていた。

「あくまでも、杉本明さんだと言い張るんですね?」

「言い張るも何も、俺は、杉本明ですよ。何を根拠に、俺が杉本明ではないと言うんですか? 失礼な人ですね。もう、帰っていただけますか?」

 よ、よし。なんだかよく分からないけど、帰ってくれと言う事ができた。

 しかし、どうして俺が杉本明ではないと分かったんだ?

「気付いていないんですか?」

「な、何をですか?」

「私、途中から松井さんって呼んでいたんですよ」

「えっ?」

 そ、そうだっけ?

「あなた、普通に返事をしていましたよね? 松井さん」

 と、桜井さんは微笑んだ。

「い、いや、それは……」

 どうして、俺が松井だって分かったんだ? もしかして、知り合いか?

 いや、こんなかわいい女性が知り合いにいたら、忘れるはずがない。

「どうして、私があなたの名前を知っているのか、不思議ですか? スーツに、松井って刺繍がしてありましたよ」

 刺繍? 確かに、してあるが――

 あっ! あの時か!

 桜井さんが、俺の上着を脱がせようとした、あの時に見たのか……。

「いつからですか? いつから、俺の事を疑っていたんですか?」

「もちろん、最初からですよ」

 と、桜井さんは微笑んだ。

「最初から?」

「ええ、そうです。まずは、鍵穴ですね。まだ新築なのに、鍵穴の周りが傷だらけでした」

 くっ、やっぱり気付かれたか……。

「それから、奥様に電話をしたんですけど。奥様は、鍵を掛けるのを忘れたとおっしゃったんです。それなのに、鍵が掛かっていた」

 えっ? 開いてたの?

 俺の素晴らしいピッキング技術で、開いたんじゃなかったのか……。

 そういえば、チャイムは鳴らしたけど、ドアが開くかは確かめなかったような気がする。

「そして、カーテンの隙間から、スーツ姿のあなたと目が合った。この時はまだ、ご主人かもしれないという思いもありました。ご主人が帰宅して、理由は分かりませんが、鍵を掛けたのかもしれないと。しかし、玄関に脱いだはずの靴がなかったのが決定的でしたね。他にも、ブルーレイレコーダーの件や、カバンに入っていた靴の事もありますけどね」

 と、桜井さんは微笑んだ。ああ、やっぱりカバンの中を見られていたのか……。

「あなた、いったい何者ですか?」

 と、俺は聞いた。とても、弁護士とは思えない。

「申し遅れました。私は、こういう者です」

 と、桜井さんは、名刺を俺に差し出した。

「探偵……」

 探偵だったのか……。

「桜井明日香?」

「はい。桜井明日香です」

 ま、まさか、本当に桜井という名字だったのか――

 待てよ……。

「確か、アスナの姉って探偵だって……」

 と、俺は呟いた。

「おや、明日菜の事をご存じですか? あんまり、テレビやラジオで私の事を話すなとは言っているんですけどね」

 なるほど、そういう事か……。

 そりゃあ、アスナに似ているわけだ。

「まあ、明日菜の事は置いておいて。松井さん、あなたは他人の家で、いったい何をやっているんですか?」

「俺は――」

 これは、空き巣だとはばれていないのか? 俺は、まだごまかせるんじゃないかと、一瞬思った。

 しかし、桜井さんの目を見て、それは無理だと悟った。明らかに、俺が空き巣だと分かって聞いているだろう。

 こうなったら、最後の手段だ――

 俺は、桜井さんに向かって飛び掛かった。

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