第6話
俺は、台所にやってきた。
さて、お茶を入れるとはいっても、どうすればいいんだ? 俺は、自分でお茶を入れるなんて、ほとんどやった事がない。結婚していた頃は、元奥さんが入れてくれたし、その前は母親が入れてくれていた。
ちなみに、今はコンビニで買ったペットボトルのお茶ばかりだ。
そう――お茶なんて、自分で入れなくても生きていけるのだ。
ただ、ゴミの分別がよく分からなくて、そのまま他のゴミと一緒に出そうとして、町内会の会長に酷く怒られてしまった。
「松井さん。あんた、そんな事も知らないのか!」と。
ああ、知らないよ。悪かったな。もちろん、口には出さなかったが。
会長の野郎、俺をバカにしやがって。
あの時の会長の、俺を軽蔑する顔は、今でも忘れる事はない。
そこで、俺は考えた。
そうだ! 買ったコンビニのゴミ箱に、捨ててやろうと。
なんだって? 家庭ゴミは、捨てないでくださいだって?
そんなの、関係ない。元々、そのコンビニで買った物だ。そのコンビニのせいで、ゴミが出たのだ。俺のせいじゃ、ないんだ!
店員に注意されたら、そう言ってやるのだ。
えっ? 実際に、言った事があるのかって?
――実際には、店員に怒られるのが怖いので、店員が見ていない隙に、こっそり捨てるのだが……。
それでも、店員と目が合った事はあるが。
まあ、500ミリリットルのペットボトルの2、3本を捨てているのを見付かったところで、ほとんどの店員は何も言ってはこないのだが。
っていうか、そんな事はどうでもいいのだが。
やかんは、目の前にあるのだが。これでお湯を沸かしたとして、その後どうすればいいのか分からない。
うーん……。あまり、時間をかけるわけにもいかないしな。
俺は、冷蔵庫を開けてみた。
まず俺の目に飛び込んできたのは、缶ビールだった。
おっ、ビールか――
これで、いいか……。って、さすがにアルコールはないだろう。
――待てよ。
ビールを飲ませて、酔いつぶれて眠らせてしまえば――
いや、無理か。どう見ても、缶ビールは、350ミリリットルが2缶しか入っていない。たった2缶で、桜井さんが酔いつぶれるか分からない。
桜井さんの酒癖も分からないし、もしも中途半端に酔わせて、何か大変な事になったら余計にまずい。ビールは、やめておこう。
冷蔵庫の中をよく見ると、缶コーヒーも入っていた。こっちの方が、無難だな。
俺は缶コーヒーを2缶取り出すと、冷蔵庫を閉めた。
「すみません、お待たせしました。いやぁ、お茶の入れ方がよく分からなくて、缶コーヒーでもいいですか?」
「ええ、缶コーヒー好きですから」
と、桜井さんは、笑顔で缶コーヒーを受け取った。
「普段は、奥さんがお茶を入れてくれるんですか?」
と、桜井さんは、缶コーヒーを飲みながら聞いた。
「ええ、まあ……、そうですね」
危うく、今はいないですと言いかけた。危ない危ない。
松井明には奥さんはいないが、杉本明には奥さんがいるのだ。
そ、そういえば、俺のカバンはどこだ?
あった。押し入れの前だ。
そういえば、押し入れを開けるときに、あそこに置いたっけ。
すぐにでもカバンを回収したいところだが、押し入れ側には桜井さんが座っている。
「杉本さんも、飲まれたらどうですか?」
「あっ、はい。いただきます」
俺は、缶コーヒーを開けた。
その時、俺は思い出した。お茶をどうするかに一生懸命になりすぎて、桜井さんをどうやって追い返すかを考えていなかった。
くっ、俺としたことが――
不覚だった。
俺は、腕時計を見た。落ち着け、まだ奥さんが帰って来るまで40分近くある。
いざとなったら、カバンを取って、桜井さんを突き飛ばしてでもダッシュで逃げ出そう。
俺は、缶コーヒーを一口飲んだ。
う、美味い――
何気に、缶コーヒーを飲むのは久し振りだ。最近は、なるべく節約をするようにしていたからな。
しかし、逃げ出したところで、桜井さんには俺の顔をはっきりと見られている。
どうして俺は、素顔をさらしてしまったのか――
覆面でも、持ってくればよかった。まあ、家の中で覆面をしていれば、それはそれで怪しまれるだろうが……。
いや、実は覆面レスラーなんです――
とでも言えば、ごまかせただろうか?
いや、無理だな。レスラーの、体格じゃないしな。
「杉本さん、どうかされましたか?」
「ええ、やっぱりレスラーじゃ――」
「レスラー?」
「い、いえ……。レス、レストランにでも行ってるんですかね? 奥さんは。ハハハ……」
「そうですかね? 時間的に、中途半端じゃないですかね?」
危ねぇ。うっかり、思っている事を口に出してしまった。
しかし、なんとか上手くごまかせたようだ。
「そうだ。せっかくですから、杉本さんからもお話をお聞きしてよろしいでしょうか?」
「えっ? は、話ですか?」
いったい、何の話だ?
ま、まさか……。俺は、一つ思い当たる事があった。
杉本夫妻は、寝室を別にしていた。きっと、二人は不仲なのだ。
おそらく、二人は離婚をしようとしていて、桜井さんに相談をした――
そう、桜井さんは弁護士なのだろう。
俺を杉本明だと思っているということは、奥さんが頼んだ弁護士なのだろう。きっと、そうに違いない。
我ながら、素晴らしい推理力だ。俺は、空き巣なんかよりも、探偵の方が向いているかもしれないな。
よし、空き巣から足を洗って、明日から探偵事務所でも始めるか。
「実は、奥様から相談を受けていまして」
と、桜井さんは切り出した。
相談か――
やはり、離婚をするのだろう。しかし、他人の離婚相談を俺が聞いてもなぁ……。
そんな話に、興味は――
めちゃくちゃ、あるな。離婚経験者として、他人の離婚話は興味がある。
「そうですか。ちなみに妻は、いつ頃から相談を?」
「ちょうど、1週間前ですね。私の事務所に、電話をいただきまして」
事務所か、やっぱり弁護士で決まりだな。
しかし、私の事務所って言ったか? この若さで、自分の事務所を持っているのか。よっぽど優秀なのか、親が超金持ちかの、どっちかだろう。
「それで、妻はなんと言っているのですか?」
「杉本さんは、お聞きになられてないんですか? 奥様は、杉本さんにも相談をしたけれど、取り合ってくれないとおっしゃっていましたけど――」
そうか。妻は離婚をしたいけれど、旦那は反対をしているパターンか。俺と、同じだな。俺も、離婚なんてしたくなかった。
おそらく、この旦那もギャンブルが原因なのだろう。間違いない!
「そうですか。いえ、私もまったく考えていないわけじゃ、ないんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。私も、いけない事だとは分かっているんですが、やめられないんですよ」
「やめられない?」
「はい」
あれ? 桜井さんは、怪訝そうな顔で俺の方を見ている。
しまった……。ギャンブルが、原因じゃなかったようだ。
「えっと……。その、思い当たる事が、いくつかありまして――」
ギャンブルじゃないなら、女性関係だろうか?
「アイちゃんの事ですよ」
と、桜井さんは言った。
「ア、アイちゃんの事?」
「はい。奥様が、アイちゃんの事をとても心配されていまして」
「そ、そうなんですか――」
っていうか、アイちゃんって誰だよ!
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