第5話
「はーい! 今、開けます」
俺は、玄関のカギを開けた。
落ち着け、俺。普通にだぞ。普通に、自然に接するんだぞ。
ドアが開くと、20代後半くらいだろうか? 女性が一人、入って来た。
「こんにちは。えっと、こちら杉本さんのお宅ですよね?」
と、その女性が聞いた。
「ええ、そうですよ。杉本明です」
「あなたが、杉本明さん?」
「はい。私が、杉本明です」
と、名乗ってから、俺は失敗したと気付いた。
杉本と名乗るよりも、違いますと言って、帰らせた方がよかったのではないか? まあ、名乗ってしまったからには仕方がない。話を合わせよう。
「ああ、もしかして、杉本さんのご主人ですね?」
「ええ、杉本さんの、ご主人です」
「は?」
し、しまった! 自分の奥さんの事を、杉本さんのって呼ぶのは、おかしいだろう。この女性も、おかしいと思っているに違いない。
「な、何か、ご用でしょうか? あいにく、妻は出掛けておりまして。また、出直してください。さようなら」
俺は、とにかく強引にでも女性を帰らせようと、そのままドアを閉めようとした。
「あっ、待ってください。私、奥様と今日お会いする事になっていまして、中で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ? つ、妻と約束が?」
「はい」
と、女性は頷いた。
これは、まずいぞ……。早くなんとかしないと、奥さんが帰ってきてしまう。
もしも、ここに帰ってこられたら、俺が旦那ではないとばれてしまう。なんとか、しなくては――
「そうなんですけど。実は、約束よりも1時間ほど早く着いてしまいまして」
「えっ?」
「私が、時間を勘違いしていまして。最初は今の時間に約束をしていたのですが、奥様が出掛ける用事ができたとかで。それで5時前には帰るということでしたので、その時間に来る予定だったのですが、すっかり忘れていまして、この時間に、来てしまいました。いやぁ、ご主人がいてくださって、本当に助かりました」
と、その女性は微笑んだ。
しかし、よく見ると、かわいいな――
って、それどころではない。
「そ、そうですか……。それは、大変でしたね」
と、俺は言ったが、この返しはおかしかったか? 俺は動揺していて、何を言っているのか、自分でもよく分かっていない。
「それでは、お邪魔します」
と、女性は靴を脱いで、上がり込んだ。
「えっ? あっ、ちょっと――」
女性は、俺が上がっていいと言っていないのに、上がり込んでしまった。
「はい? 何か?」
「い、いえ……。どうぞ」
どうしよう……。ここで、帰らせるのは、さすがに無理か――
幸いにも、1時間は奥さんは帰って来ないみたいだから、何か理由を付けて帰らせよう。
「こちらへ、どうぞ」
と、俺は女性を居間へ通した。
「失礼します。わぁ、大きなテレビですね!」
と、女性は居間に入るなり言った。
「え、ええ、まあ……」
「これだけ大きいと、お値段も結構しますよね?」
「えっ? 値段ですか?」
俺が買ったんじゃないから、知らないよ――とは、言えない。
「ああ、すみません。私も、大きなテレビに憧れていまして。大きなテレビを見ると、ついつい値段が気になりまして」
と、女性は微笑んだ。
「そ、そうですか。これは、妻が買ったので、俺は値段を知らないんですよ」
「へえ、そうなんですか。こんなに高い買い物を、ご主人に相談されないんですね?」
「えっ? あ、ああ、そうですね。本当に、困ったものですよ。ハッハッハ」
と、俺は、女性に話を合わせておいた。最後の笑いは、わざとらしかったかもしれないが。
「ちょっと、見てもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
「これだけ大きいと、音も迫力あるでしょう?」
「えっ、ええ……。そうですね(知らないけど)」
「えっと、リモコンは?」
と、女性は聞いた。
「リモコンですか? そこに、ありますよ」
と、俺はテーブルの上を指差した。
「ああ、本当ですね。あまりにも自然すぎて、気が付きませんでした」
と、女性は微笑んだ。
なんだ、そりゃ? 変な、女性だな。そういえば、名前を聞かなかったな。今さら聞くのもな。
いや、別に今さら聞いても不自然ではないだろうが、なるべく会話はしたくない。
しかし、よく見ると、本当にかわいいな。玄関で見た時から、誰かに似ていると思っていたのだが、今分かった。
実は、俺は、モデルでタレントのアスナという女性のファンなのだ。この女性は、なんとなくアスナに似ている。
確か、アスナの本名は、
「あれっ?」
と、桜井さんが言った。
「ど、どうしました?」
「これって、テレビのリモコンじゃなくて、ブルーレイレコーダーのリモコンじゃないですか?」
「えっ? そ、そうでしたか? おかしいな……。妻が、どこかにしまったのかな? ちょっと、待ってくださいね」
って、テレビのリモコンをどこにしまうんだ?
「あっ、やっぱりテレビのリモコンでした。よく見たら、ブルーレイレコーダーなんて、もともと付いてないですね」
と、桜井さんは微笑んだ。
「そうでしたか。それは、よかったです」
なんだよ、人騒がせだな。
「あれっ?」
「こ、今度は何ですか?」
「ご主人って、50歳なんですか?」
なんだよ、いきなり。俺が、そんなに老けて見えるのか?
「いや、俺は40――」
と、正直に言いかけた瞬間、桜井さんが持っている物が目に入った。
「そ、それは――」
「保険証が、置いてありましたよ」
し、しまった!
保険証だけ、片付けるのを忘れていた。そういえば、テーブルの上に置いて、そのままだった。
「50歳には、全然見えないですね。もっと、若く見えますよ」
「そ、そうですね。よく、言われます」
「5歳くらい、若く見えますよ」
と、桜井さんは微笑んだ。
5歳か、微妙だな。
「ど、どうも、ありがとうございます」
って、それは、45歳に見えるということか?
本当は、40歳なのだが……。
「私も、5歳くらい若く見られるんですけど。まあ、そんなことは、どうでもいいですね」
桜井さんは、20代半ばから後半くらいに見えるが、もしかしたら30を過ぎているのか?
いや、そんなことは、今はどうでもいい。
「お茶でも、入れましょうか?」
と、俺は聞いた。
とりあえず、一度この場を離れたい。
「ありがとうございます」
と、桜井さんは微笑んだ。
「あっ、杉本さん」
「は、はい?」
今度は、なんだ? 俺は、呼ばれるたびに、びくびくしている。
いかんいかん。もっと、自然にふるまわなくては。
「さっきから気になっていたのですが、どうしてスーツ姿なんですか?」
「えっ? あ、いや……」
「まさか、普段着がスーツとか?」
いや、そんな奴はいないだろう。
「じ、実は――ちょっと前に、仕事から帰ったところでして」
「ああ、そうだったんですね。それじゃあ、ちょうどいいタイミングでした」
と、桜井さんは微笑んだ。
「そ、そうですね」
と、俺も微笑んだ。
いったい、この短時間で、桜井さんは何度微笑んだのだろう? しかし、本当にアスナに似ているな。
「なんか、すごく汗をかいてませんか?」
「えっ、ええ、ちょっと部屋を片付けていまして」
「スーツを脱がれたほうが、いいんじゃないですか?」
と、桜井さんは言うと、立ち上がって俺の後ろに回り込んだ。
「えっ? な、なんですか?」
な、何をする気だ?
ちょっ、ちょっと――
ま、まさか、そんな大胆な――
俺がエロい事を想像していると、桜井さんは、俺を後ろから抱き締めた――
なんて事はあるわけなく、俺のスーツを脱がせようとしてきた。
「ちょっと! や、やめてください!」
俺は、慌てて桜井さんを振りほどいた。
「すみません」
と、桜井さんは謝ると、また座ってしまった。
なんなんだ、この人は?
俺は、桜井さんに半分脱がされた(こんな言い方をすると、誤解をうみそうだが)上着を着直した。
だが、確かに桜井さんの言う通り、スーツ姿のまま自宅を片付けるのは不自然である。
「ちょっと、お茶を入れてくるので、お待ちください」
と、俺は言うと、居間を出た。
はぁ……。俺は廊下に出ると、大きくため息をついた。今までの、何倍も疲れた。
もう、このまま逃げてしまおうか――
一瞬、そう思ったのだが。
しまった! カバンを、居間に置いたままだった。
カバンを、置いたまま逃げるわけにはいかない。カバンの中に、俺の靴が入っているのだ。裸足で逃げるわけには――
それに、後で警察犬に臭いを辿られたら、すぐに捕まってしまうかもしれない。
うーん……。居間に、カバンを取りに戻るのも不自然か。
お茶を入れてくると言ったからには、手ぶらで戻るのはまずいな。
まあ、桜井さんが、勝手にカバンの中を見る事はないだろう。警察官や、探偵じゃあるまいし。ちょっと変わった人かもしれないけど、さすがに人のカバンを勝手に開けるような事はないだろう。
俺は自分にそう言い聞かせると、急ぎ足で台所に向かった。
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