第7話 七人目のお客様・耳垢を押し込んでしまったお客様

「……」

 椎名香澄は悩んでいた。

 今日のお客さんの耳垢は、明らかに耳の奥に押し込んでしまったものだからだ。

「どうですかね……」

 香澄が黙ってしまい、不安になったのか、恐る恐るお客さんが聞いてきた。

「あ、ええと……そうですね……耳の奥に耳垢が詰まっています」

 一瞬迷った後、香澄は正直に答えた。

「やっぱりですか。耳かきを入れると、なんかに当たるからそうじゃないかと思っていたんです」

 お客さんはホッとしたような逆に怖くなったかのような複雑な表情で頷いた。

「取れそうですか?」

「はい。あの、ピンセットは使っても大丈夫でしょうか?」

 香澄がピンセットを取り出すと、お客さんは顔を引きつらせた。

「いえ、金属のものは冷たそうで怖いから、やめてください」

「かしこまりました」

 金属のものがダメというお客さんは結構いるので、香澄はすぐにピンセットをしまった。

 そして、替わりに耳用のローションを取り出した。

「それでは綿棒で耳垢を柔らかくして、取っていきますね」

 すると、またお客さんは顔を引きつらせた。

「いえ、あの……そういう液体みたいなものも怖くて。それと、綿棒は好きじゃないんで、耳かきでやってもらえますか?」

「こちらの耳かきがよろしいでしょうか?」

 香澄が煤竹の耳かきを取り出すと、こわばっていたお客さんの表情が和らいだ。

「ええ、それがいいです。それでお願いします」

「かしこまりました」

 道具セットの中から、香澄はいろいろなサイズの煤竹耳かきを引っ張り出した。

「大きさが違うんですね」

「はい。さじの大きさもちがいますし、さじのカーブもちがいます」

 白い布の上に並べて見せると、お客さんはまじまじとその耳かきを見つめた。

「これで、まずかいてもらっていいですか?」

「はい、こちらですね」

 お客さんが選んださじのカーブが深めのものを手に取り、香澄が耳の入り口をそっとかき始める。

「いかがでしょうか」

「んー……優しくやってくれているから痛くはないけど、もう少し柔らかいやつがいいかも」

 要望を聞き、香澄は違う耳かきを取り出した。

「かしこまりました。こちらは今のよりも厚めの耳かきなので、かき心地が柔らかいと思います」

「それじゃ、それでかいてみてくれますか?」

「はい」

 香澄は横になったお客さんの耳をそっとかいた。

 耳の入り口をかりかりっと優しくかく。

「ああ……いい感じです……」

 入口についた薄い耳垢が、耳かきで少しずつ剥がされていく。

 カリ、ぺリ……。

 剥がれた耳垢が浮いて、その姿がだんだんと大きくなっていく。

 最後に少し強めにカリッと耳垢の張り付いた部分を取ると、耳かきのさじと同じくらいの大きさの耳垢が取れた。

「あ、耳垢取れましたか?」

「はい、入り口のですが」

「それではこれからが本番ですね」

 お客さんが身を固くするのを見て、香澄は一旦、耳かきを置いた。

「少し耳のマッサージをいたしましょう」

「マッサージですか?」

「はい。耳をもう一度あたためて、マッサージして、耳の穴を広げます」

 香澄が温かいタオルを持ってきて、お客さんの耳に当てる。

「耳があったかくなるって気持ちいいね……」

 お客さんの表情が柔らかくなり、耳もふんわり柔らかくあたたかくなる。

 香澄はそれを確認して、再び、耳かきを手にした。

「それでは取っていきますね」

 耳かきが押し込んでしまった固く大きな耳垢に触れる。

 ガリっと固い感触が耳かきから香澄に伝わる。

「強めにやっちゃっていいですよ」

 お客さんはそういうものの、耳の皮膚を傷つけたら大変だ。

 香澄は慎重に耳垢を動かした。

(……鼓膜のそばにまで張り付いてしまっているかも)

 少し考えて、香澄は耳かきで耳栓のようになった耳垢を軽く回すように動かした。

 ゴソゴソと耳の中で大きな音がして、お客さんは足をよじった。

「すごい音ですね」

「耳の中いっぱいに耳垢があるので、かなり響くと思います。怖かったら言ってください」

 香澄が断りを入れると、お客さんはそれを否定した。

「いえ、音がすごいだけで痛くも怖くも無いので大丈夫です」

 耳垢は回すとそこそこ動いたので、奥にすごく張り付いているのではないことがわかった。

 ピンセットを使えば、そんなに難しくなく出るのだけど、お客さんの希望は耳かきで出すことだ。

(砕いたりして、鼓膜のほうに耳垢が落ちないようにしないと)

 鼓膜に耳垢が落ちてしまうと、取るのが難しくなる。

 イヤークリーナーで吸うことが出来ればいいのだけど、耳かき以外受け付けないお客さんだとそれも難しかった。

 ただ、あまりに丸ごと取り出すことにこだわりすぎると、失敗しかねない。

 香澄は様子を見て取り方を考えることにした。

「耳垢を引っ張りますね」

 耳かきで耳垢の手前部分をぐっと抑え、ゆっくりと引いていく。

 回すようにして剥がしておいたので、強い抵抗が無く、引っ張り出せた。

 ずっ……ずるずる……。

 サザエなどの貝の中身を取り出すような感触がして、耳垢がずるずると出てくる。

 長さにして一センチほどあるだろうか。

 それくらいの長さで、厚みのある耳垢がずずずっと耳の中から出てきた。

 香澄が用意した黒い紙の上にその耳垢を置くと、お客さんは目を丸くした。

「すごいですね! こんなのが入ってたんですか」

「はい。手前を引っ張っただけで、これだけ取れました」

「いやー取れて良かったです。ありがとうございます!」

 感謝するお客さんに、香澄は言いにくそうに口を開いた。

「すみません、まだ半分くらいしか取れてないんです」

「えっ……」

 お客さんがそう呟いた時、耳の中で、がさっと音が鳴った。

「わっ……今すごい音が……」

「耳垢の上の部分が取れて、下の耳垢が動きやすくなったんだと思います」

「下の部分?」

 体勢を元に戻しながら、お客さんが尋ねる。

「お耳の中に詰まっていた耳垢は一つじゃなかったんです。こう、耳垢の塊の上にさらに耳垢が乗っていたような状態で」

「それが出て来ただけってことですか?」

「はい。上の耳垢に圧迫されていた下の耳垢がまだあるんです」

 香澄はライトを近づけ、耳かきで軽く耳穴を押し広げて、中をじっと見つめた。

 先程より見えやすくなった耳垢はガチガチになって詰まっていた。

「痛かったら言ってください」

 ゴチゴチの耳垢は耳かきで触っても、カリッとかパリッとかいう音はしなかった。

 まるで石を触ってるようなゴツゴツした音がするだけだった。

「どうして耳垢がガチガチになるんですかね?」

「耳かきで押し込められた耳垢が水や埃を含んで、固まってしまったんだと思います。めまいとかがする前に取ったほうがいいですね」

「耳垢でめまいがすることなんてあるんですか?」

 驚くお客さんに香澄は静かにうなずいた。

「はい。埃と水分が溜まった耳垢が原因でめまいを起こすことってあるんですよ」

 話す間にも香澄は耳垢の様子を注意深く観察した。

 香澄は耳垢の様子を見て、耳かきを選び、さじが平らに近い煤竹耳かきを取った。

 シャッ、シャッ……。

 穴刀のような音をさせて、香澄が張り付いた耳垢を削ぐようにかいていく。

 剥がれた耳垢を耳かきのさじで軽くたたむと、やっとパリッという音がした。

 それでもそれは詰まった耳垢の端の部分だけで、中心の部分はカチカチだ。

「こちらの耳を少し下向きにしていただけますか?」

 お客さんが言われるままにかかれている右耳を少し下にする。

「何かこれで効果があるのですか?」

「耳垢を耳の奥に落とさないためです。仮に落ちてもこれなら耳の中には落ちませんので」

 香澄は理由を告げて、また、さじが平らに近い煤竹耳かきで、耳垢を削ぐように剥がした。

 少し剥がれたところで、もうちょっとさじの深い耳かきに変えて、剥がれた部分に耳かきを差し込んで、ぐぐっと前に動かす。

 ぐぽっという音がして、耳垢が大きく動いた。

「取れそうですか?」

「もう少しです」

 柔らかい声で答えつつ、香澄の手つきと目付きは真剣だった。

 耳垢が大きく動いた部分に耳かきのさじを入れ、そこから少しずつ横に耳かきを動かして後ろから耳垢を押していく。

 ガリッ、ゴソッ。

 耳垢が奥から押されて、ゴソッとすごい音がした。

「……取れそうですか?」

「はい」

 もう一度聞かれて、香澄は自信を持って答えた。

 今まで押していた部分とは違う部分を押すために、剥がれていない部分をかいていく。

 カリ……ゴソッ……カリ……。

 耳垢が剥がされて、ゴソッと動き、さらに別の部分が剥がされて、また動く。

 動いた耳垢は徐々に耳の入り口に近づいてきた。

「動かないでくださいね……」

 出てきた耳垢の手前を耳かきが引っ張り、ぐいぐいっと耳の入り口付近まで引っ張り出す。

 そして、見えてきた耳垢の最後尾をさじの深い耳かきで香澄がグッと押した。

 ボロッ。

 そんな音と共に香澄が手の上に用意した黒い紙の上に、石のように固い耳垢が落ちた。

「すごい色してますね……」

 取れた耳垢を見て、お客さんがそんな感想を漏らした。

 耳垢は普通白みがかった色なのに、その耳垢はほとんど茶色になっていた。

 香澄は少し耳壁に残った耳垢を取りながら、耳の中の状況を報告した。

「耳の奥も悪くなってないですし、傷とかも無いので大丈夫ですよ」

「ああ、良かったです」

 耳の中でカリカリ、ぺリ、パリッと耳掃除らしい音が響く。

 上側についた少し黒い耳垢を香澄がカリ、カリと丁寧に剥がしていく。

「まだついてますか?」

「ほんの少しです。……はい。それでは逆のお耳を掃除しますね」

 左の耳はちょっとずつ細かい耳垢がついている状態だった。

「こちらもかいていきますね」

 香澄が耳かきを入れ、カリ、カリ、スーッと耳垢を取り出す。

 それを一回、二回、三回と繰り返していき、薄い耳垢が黒い紙の上に重なっていく。

「……お客様?」

 先程まであれこれ話していたお客さんが急に黙ってしまったので、香澄が声を掛けると、お客さんは寝てしまっていた。

(……ゆっくりお休みください)

 口元を半開きにしながら、目を閉じるお客さんの耳を、香澄が優しくかいていく。

 張り付いた耳垢が取れた後は、細かく粉っぽくなった耳垢も少し深めのさじの耳かきで集め、綺麗にしていく。

 細かな耳掃除も終えて、鼓膜も綺麗に見えるくらい、耳の中は綺麗になった。

「んっ……」

 まどろみの中にいるお客さんが声を上げる。

 あと少ししてから起こしてあげようと思いつつ、香澄は耳掃除道具の片づけを始めたのだった。

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