第10話
「バラムス!お前」
「おおっと、賛美と礼はあとで聞くぜ。ここはひとます、俺に任せな」
霧の獣の股下で、大顎を鳴らす蟲の王。もとい、魔王バラムス。しっかりと大地を踏みしめる四本の脚と、ぬらりと光り輝く甲殻。磨き抜かれたその爪は鋭く、大きく弧を描く触覚は山羊角の如し。堂々としたその立ち姿に、怖気づく気配はない。
「だ、旦那の知り合いか?な、なんで、平気で立っていられるんだ?ヤツが、すぐそこに居るってのに!」
「……体温が低いのね」
そうか、あいつは虫型。俺たちのような人型とは、体の作りが根本的に違う。あいつの体は冷たいんだ。
「喋る石ころだとでも思われているのかしら」
「なに?俺の甲殻はまるで宝石のように美しいって?おいおいよせよ、あとにしろって言ったじゃねえか。だがまあ、その気持ちはよぉくわかるぜ。ダメだって言われても、つい口にしちまうんだよな。あぁ分かるとも。だが今はそれどころじゃあない。そうだろう?白竜のお嬢ちゃん?」
カルラが何故か俺を睨む。すまない、彼はああいうやつなんだ。
「おいおい、お前らいつまで俺に見とれてるつもりだ?気持ちは分からんでもないが、俺に見とれて良いのは、今はこのデカブツだけだぜ」
その言葉に、俺はハッとする。気がつけば、天井をつついていた音がぴたりと止まっている。やつは、霧の獣は、バラムスをじっと見ているのだ。
「まァいい。その潰れかけの特等席で俺の勇姿を眺めたいってんなら、無理にとは言わないぜ。くれぐれも、観客席から身を乗り出さないように気をつけてくれよな」
「ちょっと、何してるの。入り口を塞がないで」
「痛っ、け、蹴らないでくれよぉ!よ、よせ!うわぁ」
カルラによって檻から蹴り出された奴隷の男が、霧の獣の股下に転がり出る。途端に、黒い針が動いた。
「ひぃ、ひいいぃっ!!」
男の悲鳴ごと踏み潰すような、鋭い脚。リリアが息を呑む。しかしその瞬間、音もなくその無防備な頭を刺し貫かんとしたその針のような爪先は、地を蹴ったバラムスの大顎に噛み砕かれた。
「――目を逸らすな。お前の相手はこの俺だ」
砕け散る脚。響き渡る悲鳴。吹き出す体液が男の顔を汚し、カルラがその襟首を掴んで飛び去る。今しかない。俺はリリアを服に潜らせ、カルラを追う形で檻を後にする。
「っ」
霧の中から降り注ぐ針。新鮮な獲物を串刺しにせんとする、無言の殺意。しかしそれらを迎え撃つ間もなく、その爪先は砕け散ってゆく。止まない悲鳴を背に砂を巻き上げたバラムスがその翅を閉じた。
「相変わらず速いな。お前は!全く目で追えないぜ」
「そうかい?そいつは残念だ。この俺の姿が見えないなんてなァ」
霧の獣は喧しい声を上げながら、バラムスの近くをがむしゃらに突き刺し始める。
恐らくやつの頭は、遥か上空の霧の中。地上の様子など、はっきりと見えているはずもない。この深い霧の中、音と熱を頼りに獲物を探知するそのすべは大いに役立つだろう。だが、バラムスが相手ではそれが仇となる。やつは、バラムスがどこに居るのかよく分かっていないのだ。
「どうしたデカブツ!俺はここにいるぜ。そのご自慢の脚で俺を蹴飛ばしてみろ!出来るモンならな!ハハハハハ」
何本もの針が絶えず降り注ぐ中、バラムスはわざと大声を上げる。あいつはいつもそうだ。黙っていれば楽に済むのに、わざと自らの居場所を誇示するような真似をする。あくまでも堂々と、正面からやり合おうとするのだ。
俺は少し離れた岩陰に潜り込み、ふうと息を吐く。カルラと奴隷の男は、もう少し先の洞窟に入っていったようだ。ここからなら、走ればすぐに飛び込める。
「バラムス!時間稼ぎはもう十分だ。さっさと片付けろ!」
「おぉ。そうか。それじゃ――――」
振り返ったバラムスの頭が、針の一本に貫かれる。そのままバラムスは地面に縫い付けられ、放射状に体液を散らした。
「……っ」
悲鳴とは違う鳴き声が響き渡る。恐らくは、明らかな獲物の手応えに対する勝利の雄叫びであろう。体温を探知できずとも、確かにそこに居た何かを仕留めたのだと。偶然刺さったまぐれの一撃を喜ぶ声だ。だが、やつは知らない。知る由もない。あんな細い針のような脚で、バラムスを貫けるはずがない。
「おォ……やれば出来るじゃねーか」
刺し貫かれたまま、バラムスは身を起こす。
「だが残念。ハズレだ」
その鋭い爪によって、いともたやすく打ち砕かれる脚。再び響き渡る悲鳴。降り注ぐ体液を浴びながら、バラムスは自らの頭に刺さったそれを引き抜いたかと思うと、その切っ先を虚空に向けて振りかぶる。
「そら、返すぜ」
その手から放たれた黒い針が、虚空を貫いて霧を押しのける。ひときわ大きな悲鳴が霧の中に響き渡った。
「っ」
地面に突き立てられていた数本の脚が、みしりと折れ曲がる。
遙か頭上から響く耳障りな悲鳴は少しづつ弱まり、やがてそれが聞こえなくなると同時に、霧の彼方から巨大な影が落ちてくる。
扁平な胴体に連なる細い脚と、禍々しい模様を背負った巨大な腹部。黒い針が突き刺さった頭部にずらりと並んだ眼の光が、消えてゆく。霧の獣の正体は、巨大な蜘蛛であった。
「バラムス!」
「バラムスさま」
「おぉギルバート。ギョロ目も。あれ?何だよ、見ててくれたのはお前らだけか。あの白竜のカワイコちゃんに見せつけてやりたかったんだが」
「やつらは向こうの洞窟に入っていったようだ。それにしても、蜘蛛だったとはな」
大岩と見紛うほどの巨大な腹部と、俺の身長ほどもある胴体と頭。その腹を蹴飛ばしてみると、脇に開いた穴から白い煙が勢い良く吹き出した。
「……っ」
一瞬身構えるも、毒の類ではない。これは、霧だ。
「謎が一つ明らかになったな。この谷は、こいつの巣だったんだ」
「おいギルバート、さっさと行こうぜ。そいつがドタバタ暴れたせいで、何だか霧が騒がしくなってきやがった。恐らくだが、同じやつが何体かいやがるな。集まってくるかもしれねーぞ」
「そうだな。ひとまず、先に行ったあの二人と合流しよう。それよりバラムス、頭の傷どうにかしろ。服が汚れる」
「っと、すまねえ。だがまあ、この程度なら捨てる必要はねえな。脱皮で治る」
べたべたに汚れた甲殻を内側から割って脱ぎ捨て、新たな美しい甲殻を露わにするバラムス。刺し貫かれたその頭に傷はなく、殻を破ったその体は前よりも一回り大きく刺々しく変質している。立派な触覚は相変わらずだ。
「……ったく、羨ましいぜ」
「あん?なんだ、俺の甲殻が欲しいのか?ほら、やるよ脱皮殻」
「いらねーよ」
俺はため息を付き、洞窟に足を踏み入れた。
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