第9話
「……タ、ベ……タベナイ、デ……イタ、イ……イ、タイ……」
霧の中からボソボソと聞こえてくるその声に、息を呑む。何かがいる。この霧の中に、何かが。すると霧の中から黒い針のようなものがすっと現れ、硬い地面に触れてコンと音を立てる。模様も飾りもなければ歪みすらない、ただ真っ直ぐな黒い針。それが見える範囲のあちこちに現れて同じ音を響かせ、檻のすぐ横にも突き立てられた。
「……っ」
――コン。コン。
檻の天井ごしに、また同じ音が響く。まるで、ドアをノックするかのように。
「おい、本当に大丈夫なのか。勘付かれてるぞ、これは」
出来る限り声を押さえてそう尋ねると、竜族の少女は慌てる様子もなく息を吐き、みすぼらしい男はどこか怯えた表情を浮かべたままながらもその欠けた歯を覗かせる。
「へ、へへ。だ、大丈夫だぜ旦那。ヤツは、それほど頭がよくねえんだ。俺たちが、生きた獲物がこの辺りに居るってことは分かっても、この鉄板の下に居るってことまではわからねえのさ。この中で大人しくじっとしてれば、そのうち諦めて通り過ぎるってワケよ。さっきもそうしてやり過ごしたんだ。なぁ?カルラ様」
「気安く名前を呼ばないで」
「……やり過ごしたのなら、どうしてその時逃げなかったんだ」
「逃げようとはしたわよ。ねえ?役立たずの奴隷さん?」
カルラと呼ばれた少女の冷たく突き刺すような瞳が、奴隷の男をじろりと睨む。男は縮こまって手を合わせた。
「す、すまねえ……お、俺のせいなんだ」
「何かやらかしたのか。お前」
「じ、実はよぉ……逃げようとした時、ちょうど、手をついた岩にでけえサソリがいてよぉ。お、俺、つい大声を上げちまったんだ。そしたらヤツが物凄ぇ勢いでこっちに戻ってきやがってよ。それからずっと、ヤツはこの辺りをウロウロしてやがるんだ」
「それで、身動きが取れなくなったというわけか」
俺は檻の中であぐらをかいて座り、ため息をつく。カルラはもはや虫けらを見るよりも冷たい目で男を睨み、リリアもどこか呆れた様子だ。男は縋るような目で俺を見るも、俺も彼女らと同じ目を向けざるを得ない。
しかし、それはそれとして。
「……中々離れようとしないな。こいつ」
天井を睨む。檻の天井に触れたそれは、未だにコンコン、コンコンと、一定の間隔を刻むように音を鳴らし続けている。早く出てこいと、催促しているかのようだ。
「……貫いてきたりしないだろうな」
「その心配はないわ。見えるでしょ?この子の足は、とっても細くて鋭くて、折れやすいの。鉄板を踏み抜くような真似はしないはずよ」
「で、でも。それじゃあ私達、このまま身動きが取れないんじゃ……」
「……」
沈黙。やがてカルラがため息をつく。
「あなたたちは、何をしにこの谷へ来たの?この谷が危険だってことくらいは、あなたたち魔族も知っているはずだけど」
「ちょいと探しものがあってな。だが詳しい話はあとだ。まずは、こいつを何とかしないとな」
「出来るの?」
「この霧の谷に得体の知れない化け物が居るって話は、魔族の間でもよく聞く話だ。そいつは大きな音に反応して襲ってくるという話も聞いたことがある。恐らくは間違いない、こいつがその化け物だろう。音に反応するなら、これが役に立つはずだ」
俺は上着のポケットに手を突っ込み、あらかじめ用意しておいたそれを手のひらに広げる。丸々と膨らんだ木の実だ。
「……なに?それ。ただの木の実じゃない」
「そ、そんなモンが何の役に立つんだよ。旦那ァ」
「そう、木の実だ。だが、ただの木の実じゃあない。ガランの実さ。こいつは、衝撃を与えると破裂して種を撒き散らす。こいつを叩きつければ、やつの気を引くことが出来るはずだ」
奴隷の男とリリアは俺の手のひらを覗き込んで目を輝かせるも、カルラはどこか呆れたような、侮蔑するような顔で冷ややかに俺を見つめる。
「……なんだよ、その顔は」
「べつに。それじゃあさっそく、あなたのとっておきを試してみたら?」
「よし。やってやろうじゃねーか。お前たち、奥に詰めろ」
俺はガランの実を握りしめ、檻の中で大きく振りかぶる。狙うは谷の彼方。万全の姿勢とは言えないが、小さな木の実を投げるくらいならこの程度でも十分だ。
「――――ッ、らァ」
力を込めたそれを、解き放つ。
丸々と膨らんだ木の実は勢い良く虚空を貫き、狙った通りの角度で飛んでゆく。やがて霧の中に乾いた破裂音が鳴り響き、俺は口を緩める。完璧だ。かなり遠くまで飛んでいったぞ。これなら――――。
――――コン、コン。
「!」
なおも天井をつつくその音に、俺は顔をしかめる。成功を確信したであろう奴隷の男とリリアも顔を歪め、カルラだけはその表情を変えずにため息をつく。
「ど、どういうことだ。何故動かない。音が小さすぎたか?」
「違うわ。音だけじゃダメなのよ」
「……何だと?」
カルラは白く透き通る髪をさらりと翻し、どこか得意げな顔でふうと息を吐く。
「この子は、盲目なわけじゃないのよ。この子は、生き物の体温を探知する目を持っているの。大きな音を鳴らせば確かに気を引くことは出来るけど、それだけ。いくら頭が良くないからって、転がり落ちてきた岩に食らいついたりはしないのよ」
「……どうしてそれを先に言わない」
「言えば、何かが変わったのかしら?」
言葉を詰まらせる。誤算だった。これは俺のミスだ。なにせ、情報が少なすぎた。音に反応するという情報しかなかったのだ。熱を探知するなんて、そんな話は聞いていない。俺は膝を叩いた。
「ど、どうするんだよぉ。こいつ、俺たちが出てくるまでここを動かねえつもりなんじゃねえか?」
「ギルバートさま……」
「わかっている。今、新しい策を――」
ふと、カルラが手を挙げて俺たちの言葉を制止する。全員の視線が集まった。
「誰かが囮になればいいのよ。この中で一番、命が軽いのは誰?」
カルラはそう言ってため息をつき、ちらりと隣に目を向ける。奴隷の男が青ざめた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよぉ。お、おお俺は死にたくねえよぉ。勘弁してくれよぉ」
「そ、そうですよ。囮だなんて……」
「まあ待て。何か、他に方法があるはずだ。死なないならともかく、奴隷だからって――」
その時であった。
「――――その役目、俺が引き受けよう」
聞き覚えのある声に、ハッと顔を上げる。そこに居たのは、バラムスだった。
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