第8話
「足元、気をつけてください」
「あぁ」
リリアの手を取り、黒々とした岩を乗り越える。
森を出た辺りからうっすらと漂っていた霧はいつしか空を覆い隠し、気がつけば地面以外の全てを白く塗り潰している。いつもは姿の見えない何者かの気配に満ち溢れ、耳をすませば断末魔が響くこの霧の谷も、今日はやけに静かだ。
このような場所では、俺はリリアに頼らざるを得ない。
視力に関しては何も特別な力がなく、探知も苦手な俺は、この谷の中では格好の獲物たり得るからだ。
リリアは俺の何倍も優れた視力を持ち、視界の悪い場所でも跳ね返ってくる音を聞き分けることで地形を把握することが出来るという。視界の開けた場所はもちろん、暗闇や霧の中でも俺の相棒は頼りになる。
とはいえ、視界の悪いこの場所ではいつどこから何が出てきてもおかしくはない。
なにせこの霧に潜むものは多い。ただでさえ視界が悪く、地形は複雑。道は曲がりくねっていて凹凸が激しく、洞窟などもあちこちに口を開けている。身を隠すのにこれほど都合のいい場所はない。当然、良からぬことを企む輩もいる。
何よりも厄介なのが、この霧の谷に住まうという『霧の獣』だ。
霧の獣に襲われたと訴える者は多いが、誰もその姿をはっきりと見たものは居らず、その存在は謎に包まれている。
もし出くわしてしまったら、その時は――――。
「ギルバートさま。これは……」
一歩先をゆくリリアが霧の中に落ちていた何かを拾い上げる。それは、真っ二つになった板のようなもの。身を屈めれば体全体を守ることが出来るような、大型の盾の残骸だ。
小さな板を鱗のように何枚も重ね合わせて補強されたその表面には、竜の横顔が描かれている。俺は頬を掻いた。
「……竜族の戦士が持つ盾だな。どうして、こんなところに」
「竜族が、この谷を通ったんでしょうか」
「そういうことだろうな。奴らは、この霧を嫌っていたはずだが」
竜族は、この谷を抜けた先の山岳地帯に住まう者たち。
空を駆ける強靭な翼と四肢を持ち、その強固な鱗は魔法を弾く。それでいて寿命が長く知性もあり、個体数が少ない代わりに生物の中でも特に強い力を持つ種族だ。
奴らは自らの縄張りたる山頂から降りてくることは滅多になく、ゆえに魔族との交流も殆どないが、かといって人間と争っているという話は聞かない。一体ここで何があったのか、今はまだ何も分からないな。
「しかしまあ、これは一体どういうことだ」
よく見てみれば、あちこちの地面にいくつもの血しぶきと深い傷が残り、そこらじゅうに投げ出された剣や鎧の破片と思わしきものが落ちている。いくつか拾い上げてみると、竜族の武器ではないものも混ざっている。どうやら、ここで激しい戦闘があったようだな。
だが、死体が見当たらない。残っているのは、血の跡と装備の残骸ばかりだ。
「ギルバートさま。あの岩の影に誰かいるみたいです」
「わかった。お前はここにいろ」
不安げに口を結ぶリリアを撫でてやり、俺は素早く駆け寄った岩の陰から様子を伺う。
「……?」
岩陰にあったのは、鉄の檻を積んだ荷車の残骸。無数の切り傷が刻まれた鉄の檻はひしゃげて役目を失い、今にも潰れてしまいそうなほどに歪んでいる。その中には、どこか見覚えのある男が美しい少女に襟首を掴まれているところであった。
「いいから。さっさと助けを呼んできなさい。これは命令よ」
「ひっ、ひいい。か、勘弁してくだせえ。いま出ていったら俺も食われちまうよお」
「だったら大声で喚きながら遠くまで逃げて、死ぬまであがいて、せめてもの時間を稼げばいいわ。そうすればあたしが逃げられるんだから」
「そ、そんな。ここで大人しく助けを待ちましょうや。ここにいればきっとお国の誰かが助けに来てくれますって」
「なんであたしがいつまでもあんたみたいなやつと一緒に居なきゃいけないのよ。何なら、今すぐ放り出してやってもいいのよ」
「か、勘弁してくだせえ……それだけはあ…………ぁ?」
ふと、目が合う。みすぼらしい男の顔が、情けなく歪む。まずい、気づかれた。俺はさっと身を隠すも、時に既に遅し。
「だ、旦那ぁ!た、助けてくれぇ!」
「なに?そこに誰かいるの?」
やれやれ。面倒なことになりそうだが、仕方あるまい。俺は上着を翻し、鉄の檻を覗き込む。
「やあどうも。どうやらのお困りのご様子だが……魔王の手助けは必要かな?」
俺がそう言うと、少女は男の首をパッと離して手を拭い、白く美しい髪を翻してその眼を光らせる。その頭に輝く一対の角と、鱗に覆われた四肢。人間とよく似た、しかし人間とは違う気配を身に纏うその少女が竜族であることはすぐにわかった。
俺の知る竜族の姿とは少し違う。だが、確かに竜族の気配を感じる。その娘はやがてため息をついた。
「そうね。野蛮な魔族の手を借りるのは癪だけど、今は魔王の手も借りたいくらいだわ。役立たずしかいなくて困っていたの」
「ひ、ひでえや。それはそうとして旦那、そこは危険だ。はやく、檻の中に」
「危険、だと?今日は随分と静かなようだが、何かあったのか?」
「ヤツが出たんだ。皆食われちまったんだ」
ヤツ。それが何かを尋ねようとした時。俺の肌は何か大きなものの気配を察知した。
「ギルバートさまっ!何か、来ます!!」
リリアが声を上げて駆け寄ってくる。その体を抱き止めると同時に、霧の中から聞き慣れない音が聞こえてくる。コン、コン。コン、コンと。硬い岩肌を針でつつくような、奇妙な音。一定の間隔を刻むように聞こえてくるその音は、少しずつ大きく、静かな霧の谷に響き渡る。
「ひ、ひいい。ヤツだ!またヤツが来やがったんだ!だ、旦那ぁ。そっちの嬢ちゃんも早く中に。食われちまうよお」
「あ、あぁ」
男に促されるまま、俺もリリアと共にひしゃげた檻の中に身を隠す。
「助けてくれ。ハーキュリーズさまあ。俺ぁまだ死にたくねえよお」
「おい、やつとは何だ。一体何が来るっていうんだ」
「お、俺だって分からねえよお!何も分からねえうちに、皆死んじまったんだ!」
「静かにして。もうすぐそこまで来てるわよ」
少女の声に、その場の全員が口を閉じる。その瞬間、檻の天井に触れた何かがコンと音を立てた。
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