02:Hanako in the Restrooms

 鷹野がそれに気づいたのは、遥か幼い時分だった。住んでいた田舎の、旧校舎が取り壊される時、俄に聞こえた呻き声に、鷹野は驚いて足を止めた。


 木造で、歩けば床がギイギイと軋む古い学び舎は、一昔前の映画に出てくるような懐かしさと、同時に少々の薄気味悪さを兼ね備えていて、生徒全員がプレハブの仮設校舎に移った後は、一層にその不気味さを増していた。だから好んで近づく者は誰もおらず、それは鷹野とて例外ではなかった。


「たすけて……たす……けて……」


 だが確かに、声は聞こえた。唸りを上げるショベルカーの金切り声に混じって、か細く助けを求める、何人とも知れぬ声が、何処からか。


「誰?」

 

 そう返すや、鷹野は駆け出した事を覚えている。折しも一学期の終業式と同時に始まった解体工事。まさか生徒が紛れ込むなどと予想だにしていない大人たちの監視の目を掻い潜り、鷹野の身体は気がつけば女子トイレの前にいた。


「けて……たすけて……」


 外では相変わらずの重機の音に混じって、遠くでひぐらしが鳴いている。だが全校生徒が下校した今、それも旧校舎の女子トイレに人が残っている訳はない。――にも関わらず、か細く泣くような声が、ドアの奥から聞こえ続ける。


「誰か……いるの?」


 鷹野は恐る恐るドアを開ける。ギイと響く木の軋む音の後に、じっとりと湿った、盛夏らしからぬ空気が肌を撫でる。今日日めったに見ない和式の便器が並ぶ個室を、横目に見ながら鷹野は歩を進めた。


「ねえ……いるんなら返事してよ……」

 

 声色は確かに女の子の声だし、かと言って悪戯にしては手が込みすぎている。もしかすると仮校舎のトイレに間に合わず、気分の悪くなった女子が助けを求めているのかも知れない。一つ目、二つ目、開いたままのドアが続く中、真ん中の三つ目だけが、中に誰かがいる事を示すように、固く閉ざされていた。


「たすけて……お願い……誰か……」


 ここだ。と鷹野は直感する。そして同時に、思い出しもした。旧校舎にまつわる、怪談の一つを。


「花子……さん?」


 ぼそりと口をついて出たのは、旧校舎の三階、女子トイレの三番目の個室に出るとされる、女の子のお化け。どうしてそれを今更になって思い出したかと言えば、数年前の怪談ブームはとっくに過ぎて、皆が仮校舎に移ってからは、誰も花子さんの話をしなくなったからだ。


「私のこと……覚えてくれてるの?」


 助けを呼ぶ声はふと声色を変え、親しみを込めて返事をする。しくじったかと鷹野が後退りする頃には、もう全ては遅かった。音も無く開く扉の奥から、ちょこんとしたおかっぱ頭の女の子が姿を現していた。


「え……ええ……??」


 鷹野が戸惑うのも無理はない。なにせこんなにもくっきりと、お化けなる存在を目の当たりにするのは初めてだったからだ。


「――こんにちは。助けてくれて……ありがとう、お兄ちゃん」

 

 にこりと微笑む女の子は、なるほど確かに、噂通りの白いワイシャツに、赤い吊りスカートを纏っている。ああどうやら本当に花子さんだと、鷹野は諦めるように得心し、そして頷いた。


「あ……ああ……でも助けたって……だ、大丈夫なの?」


 鷹野自身も何を言っているか分からなかったが、このあっけらかんとした少女は、確かに助けを求めていて、鷹野がここに来た事で救われたらしい。だが前後の因果がまったく判然としないまま、鷹野は目を点にしながら言葉を紡ぐ他できない。


「うん、もう大丈夫。だって私は、これからお兄ちゃんに憑いていくから。――良かったあ……校舎が壊される前に、私のこと見える人に見つけてもらえて」


 憑いていく? 今さらっと物騒な事を言わなかったかと鷹野が口に出すまでも無く、すっと少女は姿を消したかと思うと、次の瞬間には、ずっしりと肩が重くなるのを、鷹野は感じた。


「は……??」

「しばらくお兄ちゃんちのトイレに住む事にするから、よろしくね?」


 ――それが鷹野ロアの、悲しいかな都市伝説フォークロアに振り回される日常の始まりだった。




*          *




 少女――、もとい花子さん・・は、どうやらトイレでしか実体化できないらしい。だから本来、余人の多くにとって安寧の場であるべき筈のトイレは、それからの鷹野にとっては、日常で最も騒々しい場所に姿を変えてしまった。


「お兄ちゃん」

「……なんだ」


「私のこと、花子って呼ぶのやめてよ」

「花子って……君は花子だろう?」


「花子って言ったって、日本中に沢山いるの。私は確かに花子だけど、呼ぶ時は何か、別の名前で呼んでちょうだい」


 ご覧の通り、鷹野にしか認知されない花子は、こうして事ある毎に鷹野に絡んでは、鷹野のことを困らせていた。


「はあ……じゃあ姫乃でどうだ? 厠神かわやかみなんだろ、確か神道でそんな呼び方があったろう。土の神ハニヤマヒメノカミ


「あっ……かわいいかも。ねえねえお兄ちゃん、花子のこと、姫乃って呼んで? ねえねえ」

「はいはい……姫乃姫乃」


「ちょっと感情こもってないんですけどー?」

「篭ってますよ。姫乃ちゃんかわいー。お兄ちゃん超嬉しい」


 ――ドンドン! 早く出てきなさい? ロア、あなたまた独り言言ってるの? お父さんうんち漏れちゃうって?! 


「あーはい。出ます。出ますよ! すみませんね! 毎度! ほんとに!」


 とまあ、花子との出会いをきっかけに、鷹野の日常は周囲から心配される程度には、風変わりなものへと成り果てていった。なにせ学校のトイレにも顔を出す花子――、もとい姫乃の事だ。呼ばれる度に顔を出せば、必然的に昼は便所飯。友達なんぞ作る間もなく、気がつけば「トイレの鷹野君」などと、うっかり自分が都市伝説になりかねない青春を、鷹野は沈痛な面持ちで乗り切ったのだった。 




*          *




「ねえねえお兄ちゃん」

「なんだヒメ」


 かくて今日も今日とて和式の便器にまたがり、情けない姿を晒しながら鷹野は返す。姫乃と出会ったのが小六の夏だから、かれこれ十年以上を、取り憑かれた都市伝説と暮らしている事になる。


「メリーちゃん、助かったんだって?」

「ああ助かったよ。ええ、助けましたとも」


 あれから辛うじて大学までを出た鷹野は、さりとてまともな職に就ける訳もなく都内のボロアパートを借り、よろず屋の真似事をして日々を凌いでいる。だが勘違いしないで欲しいのは、好き好んで和式便器の物件を選んだ訳ではないということだ。


「へっ、格好つけちゃってさ。何が『世界中の誰しもがキミの事を忘れたとしても、僕だけはキミの事を覚えていよう』よ。こんな格好で言われたって、説得力全然ないよ、お兄ちゃん」


「それはお前がここで話したいってゴネるからだろう? だいたいウンチングスタイルで誰が、そんなこと、言うか!!」


 そう、わざわざ鷹野が和式便器の物件を選んだのは、単に姫乃の居心地がいいからという一点に尽きる。おまけに幾つものお化けに取り憑かれて、今じゃあ鷹野の身の回りは、ちょっとした雑貨屋を営める程度には雑然としている。


「えー、お兄ちゃん、私にも言ってよう。『姫乃……好きだ、愛してる。お兄ちゃんと結婚しよう』って」


「元のセリフ全然残ってねーじゃねえか……それこそこんな格好で言うセリフかよ」

 

 ぶつくさと愚痴りながらケツを拭き、立ち上がって水を流す鷹野。だいたいそもそも、別に今じゃあ、姫乃はトイレ以外にだって顔を出せるようになっているのだ。それをわざわざ、敢えてこんな場所で。


 トイレを出た鷹野は、四畳半の狭い部屋にため息を漏らすと、机の上の人形――、もといメリーが寝息を立てているのに安堵しながら、PCのスリープを解く。


 もう相当に時代遅れのディスプレイがチカチカと点灯し、その画面の中には、トイレに座ってこちらを見上げる、もう見慣れた姫乃の姿があった。


「やっほーい、お兄ちゃん。うんちご苦労様」

「お前な……こっちで喋れんのに、なんでわざわざ便所なんだよ」


「だってえ……ナマ姫乃のほうが、VR姫乃より可愛いでしょ? お兄ちゃん」

「あー……」


 和式便器の上で踏ん張った所為で、一層に疲れを滲ませて鷹野は返す。――そう、トイレであればどこにでも顔を出せる姫乃は、VR上のトイレに、3Dのアバターで以て姿を現す事に成功していた。……というか、こいつは今流行りのVtuberだとかで、界隈ではそこそこの人気を博しているらしい。実際、動画再生からなる広告収入のお陰様で、鷹野の生活は首の皮一枚で維持されていると言っても過言ではなかった。


「ま、でもぉ? VRなら、お兄ちゃんとあんな事やこんな事が出来るしい……?」

 

 だが。だがしかしだ。ネットの海を縦横無尽に駆け回られた結果、要らぬ知識ばかり身につけてきた姫乃は、こうして知識だけはビッチ化して鷹野に困惑を齎す。都市伝説としての年齢は鷹野より上の姫乃だが、見た目は相変わらず少女のまま。いい加減勘弁して欲しいとかぶりを振りながら、鷹野はあるであろう本題に話を切り替える。


「なあヒメ。本題があるんだろ? 今日はなんの遺聞奇譚ロストロアを助けに行けばいいんだ?」

「あ、分かっちゃう? お兄ちゃん。えへへ……じゃあ行こっか。今日はね……」


 何の因果か、鷹野が迷い込んだのは消えていく物語ロストロアの救済業務。もっともこれも純然たる慈善事業の類いではなく、後日「Vtuber、トイレの姫乃の恐怖スポット実況!!!!!!!」としてWebにUPされる訳だから、要するに仕事の一環である。はあとため息を吐く鷹野が家を出る時、周囲は既に薄暮がかっていた。

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