第十話 後編

 奈津海と花梨は柱の拘束から抜け出して、廊下に出る。明かりはほとんどなく、半ば手探り状態。


「それじゃあ行ってくる」


 最小限の声で花梨はそう呟くと、慎重に鍵を外し玄関扉を開いた。

 月光とともに扉から入り込んだ外気が、廊下の向こう側まで届く。

 花梨は静かに扉を閉めると、闇の中へ駆け出した。


 リビングに戻ってきた奈津海は、柱に背を預け腕を組む。手持ち無沙汰のように目を瞑り、外に出る前に言っていた花梨の言葉を思い返す。

 身の安全が第一。いざとなったら見捨てる覚悟も必要。まず自分が助からなきゃ、誰も助けられない。

 

(確かにその通りだけど……)

 

 自分はそこまで冷酷な決断は下せるだろうか?


 そんなことを考えていると、廊下に気配を感じた。

 足音はトイレの前で止まり、扉の開閉音が後に続く。


(こっちに来たりしないわよね……)


 心臓が動悸を繰り返し、耳障りなほど危険を主張する。

 用を足し終え、廊下に出た。

 そのまま寝室の方に引き返す――足音は鳴り止んだかと思いきや、


「えっ?」


 再び床を踏みしめる振動が耳朶を打つ。


(まずい! 近づいてくる!)


 咄嗟に周囲を見渡した。廊下からリビングに繋がる扉は、ソファーやテレビが置かれている居間側に一つ、キッチン側に一つ。

 おそらく足音の正体――一馬は、居間側から顔を出すだろう。

 キッチン側には裏口もあり、そっちに逃げ込めば脱出の手段も取れる。

 しかし、奈津海は直前で躊躇した。やはり悠のことを見捨てる覚悟が、勇気が出なかった。

 

 カチッという音とともに、リビングに明かりが灯った。


「おーい姉ちゃん元気にしてっか――って、おい! 花梨はどこ行った!」


(もう言い逃れは出来なさそうね)


「あら、一足遅かったわね~。花梨なら助けを呼びに出て行ったわ。もうじき来る頃合いね」


 あくまでこちらが優位に立っていると思い込んで、平常心を保つ。


「くそ、やるじゃねえか」

「あんたも終わりね、潔く自主しなさい」

「あ〜、そうだな。こりゃ詰みだ。その代わり、最後にいい思いしておくぜぇ」

「な!?」


 体格に似合わず俊敏な動きに、奈津海は接近を許してしまう。

 後ろに下がろうとしたとき、最悪なことに足を捻ってしまった。

 床に倒れこむ隙を突かれ、奈津海はマウントポジションを取られる。


「姉ちゃんいい身体してんじゃねーか、ひひ」

「あたしからっ、離れろ、このっ」


 腕から逃れようと身をそらすが、それも悪あがき。

 服を強引に引き剥がされ、ブラが露出する。

 奈津海の胸に二本の腕が伸びた。


「や、やめ……なさい!」


 最後の力を振り絞って、奈津海は自身の腕でガードする。

 だが、一馬の力には敵わず、指先が胸に触れた――その瞬間、


「やめろぉおおおおおお」


 絶叫に近い声が、リビング内にけたたましく轟いた。


「奈津海さんから離れろ!」


 馬乗りになった一馬を横合いから吹き飛ばしたのは、なんと悠だった。


「悠!?」

「奈津海さん、遅くなってすみません」

「もしかして、妄想癖が治ったの!?」

「はい。やっと夢から覚めました。奈津海さんや花梨のおかげです」


 今までとは打って変わり、確固たる意志が悠から感じられる。


「おいおい、父親に反感するってーのはどういうことか、わかっているよなあ!」

「あんたなんかもう僕の父親なんかじゃない! 恥を知れ!」

「上等じゃゴラッ」


 一馬が振り上げた鋼のような拳が、悠の顔面に突き刺さる。

 真後ろにのけぞり、態勢を崩す。

 苦痛に顔を歪めるが、決意のこもった目は、変わらず一馬を射抜き続ける。


「そうやって暴力で押し通そうするところ、変わってないね、父さん。天国の母さんが見たら悲しむよ」

「うるせえええええええ!」


 悠の腹部を目掛け、一馬は正面から足を突き出す。

 鉄球のような重さの蹴りによって、悠は壁に叩き付けられる。

 頭を打ち付け、意識が飛びそうになるが、どうにか持ちこたえられた。


「ぐ、いい加減に目を覚ませば? 母さんは死んだんだ。そろそろ現実に目を向けなよ……って僕が言えたセリフじゃないな」


 悠はふっ、と苦笑いを浮かべた。


「死ねクソがああああ」


 座り込んでいる悠に向かって何度も何度も、蹴りをかます一馬。

 悠はとっくに意識が持ってかれ、サンドバッグ状態だ。


「もうやめて! 悠が死んじゃう!」


 奈津海は後ろから一馬を引き離そうとするが、蹴りの連打は止まらない。

 ――と、そのとき、玄関扉が開いた。


「ちっ、ここまでか」


 一馬はキッチンの方に走り、裏口から外に逃げ去った。

 

 駆け付けた大人の男性数人は、一馬の後を追った。

 花梨はボロボロになった悠を見て、思わず口を押える。


「花梨、すぐに救急車を呼んで!」

「もう呼んだわ! とにかく、応急処置をしないと」


 呼吸はあるようなので、寝室から布団を持ってきて、その上に昏睡体位で寝かせる。幸いショック症状は起こしていない。痣ができているところだけ水に濡らしたタオルを当てる。

 しばらくして、呼吸も落ち着いてきたようだ。そんな悠を、奈津海と花梨は慈しむように見下ろしていた。


「花梨、あたしが危うく犯されそうになったとき、悠は必死に守ってくれたわ」

「もしかして、お兄ちゃんは克服できたの!?」

「うん。見たことないほど男らしかった」


 顔を上気させ、うっとりする奈津海に、花梨はジト目を送る。

 

「お兄ちゃんに告白なんてさせないわよ、ビチ子」


 思わぬ牽制に、動揺を隠せない様子の奈津海。


「す、するわけないでしょ」


(そう、告白なんてしてあげない。だって、あたしは絶対あいつを振り向かせるんだから)




 

 







 


 


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