第十話 前編

 また帰ってきてしまった――断ち切ったはずの家に。

 

 花梨は後ろ手に縛られており、柱に括りつけられ固定されている。

 その隣では、気絶した奈津海が同じような状況だ。


(冷静になればいくらでも対処できたのに、なんてバカなのビチ子は)


 あそこで逃げていれば警察に連絡もできたし、車のナンバーをメモしておけば追跡にも繋がった。


(でも、花梨たちのために身を挺して抗ってくれたのは嬉しかった)


 本当は誰よりも恐ろしいはずなのに。

 だから、そんな彼女に報いるために、まずはこの状況から脱しないといけない。

 


――…



(どこ……ここ)


 吐き気と顎の痛みで奈津海は目が覚めた。

 視界に入ってきたのは見たことのない部屋。ぼんやりと、テーブルやキッチンが見える。

 無音が辺り一帯を占め、自分の呼吸音だけが耳に伝わる。

 床には脱ぎ捨てられた衣服やカップ麺の容器で散らかり放題。

 と、ここにきて、自分が拘束されていることに気がつく。


「あれ? 動けない」

「案外お寝坊さんね、ビチ子は」


 声がしたすぐ左に顔を向けると、そこに花梨がいた。奈津海と同様、身動きが取れないようだ。


「花梨、ここはどこ? なんで縛り付けられてんの?」

「それを説明するには少し遡る必要があるわね」


 花梨の回想を聞いているうちに、忌々しい記憶が蘇る。

 悠と花梨の保護者を名乗る男に気絶させられた奈津海は、二人と一緒に車に乗せられた。

 そのまま誘拐のような形で長時間、どこかに向かって走り続ける。

 道中、雨に濡れたままの服を着ている奈津海を心配し、彼女を着換えさせてほしいと花梨は懇願した。


「それでさっきと着ている服が違うんだ」

「感謝しなさいよビチ子。そのまま放置してたら低体温症になってたんだからね」

「ありがとね花梨」


 お礼を言われて、花梨は顔を赤らめながら続きを話す。

 父に連れてこられた先は、悠と花梨が生まれ育った湖月宅だった。

 父は、奈津海と花梨を柱に縛りつけた後、悠を伴って外に出て行ってしまった。

 これが今に至る経緯――監禁までの一部始終である。


「今この家にいないのなら、大声で叫べば人を呼べるんじゃないの?」


 奈津海がそう提案するも、花梨は首を横に振る。


「この家って、団地から離れてて、高台にあるの。たまたま散歩で通る人や、配達員などが来ないと厳しいわ」

「限りなく低い望みでもやってみる価値はあるんじゃないかしら?」

「お父さんにばれるリスクを考えると微妙ね。また殴られたい願望があるなら止めないけど」

「もう手詰まりだっていうの……」


 希望を失ったように、目線を下に落とす奈津海。

 

「泣き言を言うなんてビチ子らしくないわね。顎と腹に食らったせいでこたえたかしら」


 おどけた調子なのも束の間、スーッと目を細めると、冷静な口調で、


「つけ入る隙はいくらでもあるわ」

「なにを根拠にそんな自信が湧いてくるのよ」

「花梨はね、ただお兄ちゃんに守られていたわけじゃない。お兄ちゃんがストレス捌け口役なら、花梨はご機嫌取り役。心理誘導なんてお手の物」


 花梨は可愛らしい顔を邪悪に歪めた。奈津海に激辛クッキーを食べさせたときと同じ表情をしている。


「お兄ちゃんが小間使いになっている以上、三人で逃げ出すのは厳しい。手段としては助けを呼ぶ一択になる。そのためにまずは、拘束している紐をどうにかしないとだけど、それは時間をかければ可能よ」

「どうすればいいの?」

「チャンスが訪れるのはトイレとお風呂。どちらかで刃物等を見つけ出して、紐を千切るのよ」


 刃物さえ見つけ出せれば、後はずっと隠し持っていればいい。寝静まったら、その隙に紐を切って助けを呼ぶ、と花梨は言う。


「さっきスマホは取られたし、電話機も見当たらなかった。直接助けを呼びに行くしかなさそう」

「あたしが行くわ」

「ビチ子より花梨の方が周辺事情に詳しいから、花梨に任せて」


 その後も二人が脱出方法について意見交換した。とにかく一人で突っ走らないで、と花梨に釘を刺される奈津海。

 ある程度方針が固まったところで、玄関扉の鍵が解錠される音が響き渡る。

 二人分の足跡は廊下からリビングへと近づいてきた。


「花梨、今帰ったぞう。っと、姉ちゃんも起きてんじゃねーか」


 悠と花梨のかつて父だった男――湖月一馬こづきかずまが姿を現す。頭は金髪に染め上げ、髭を蓄えている。タンクトップから伸びる太い腕には刺青が描かれていた。

 彼のすぐ後ろには悠がいて、膨らみきったビニール袋を両手いっぱいに下げている。


「あたしたちをここから解放しなさい!」

「やなこった。お前らは俺を楽しませる物なんだ」


(この男、本気で言っているの?)


「今は親ではないにしろ、かつての息子と娘にこんなことして、胸が痛まないの?」


 奈津海の問いに鼻の先で一笑に付すと、


「おいおい、笑わせないでくれ。俺はこいつらに与える愛情なんて、元から持ち合わせちゃいねーんだわ」

「なんですって!?」


 非道なことを平気で言ってのける一馬。彼の理解を越えた思考に、驚愕を禁じ得ない。


「それとな、自分の今の立場をわきまえて発言したほうがいいぞ。手綱を握っているのはどっちか、わかるよな?」

「くっ」


 悔しいそうに奈津海は歯噛みする。

 つと、一馬は、ビニール袋を床に置いて立ち尽くす悠に向かって、


「おい! てめえ、ボーっと突っ立ってねえで、冷蔵庫にしまえボケ!」


 と荒げた声で言った。

 悠は、怯えた顔をすると、すぐに冷蔵庫の前に飛んで行った。


(胸糞悪いわね)


 自分がどうこうできる立場でないことがわかっているため、余計に腹が立った。


 一馬がソファーにごろ寝しながらテレビを見てくつろいでいると、箱から煙草を取り出し口に咥えた。


「火、さっさと点けろタコ!」


 思い切ッきり悠の頭をぶったたく一馬。

 奈津海は暴力を目の当たりにする度に、下唇を噛む力が強まる。

 

「あ、いいこと思いついたぜ」


 煙草を吹かせながら、薄笑いを浮かべると、


「おい悠、上着脱いで裸になれ」

「あんたなに命令してんの!?」


 奈津海の言葉を無視し、早くしろと催促する。

 上半身裸になった悠に背中を向かせると、火のついた煙草をそこに押し付けた。


「あっつ」

「んだよ、こんくらいで根をあげんな情けねえ」


 ついに奈津海は、歯が下唇に食い込み、出血した。


「やめろぉおおおおお!!!」


 腹の底から全力で声を出し、激情を露わにした。


「あんたそれでも血が繋がった親!? どうして息子にそんなひどいことできるの!? 幸せな思い出だって過去にはあるんでしょ!?」

「さっきからギャーギャーうるせーな!」


 ソファーから立ち上がった一馬は、柱に縛られた奈津海の目の前にやってくると、彼女の顔の位置まで腰を落とす。

 そして髪を掴んで強引に上へ引っ張る。


「いい加減にしねーと、服ひん剥いてヤッちまうかんな」

「上等よ! やれるもんならやってみなさい!」


 髪を引っ張られて目に涙を浮かべながらも、好戦的な目つきで挑発し続ける。

 

「お父さん、最近また腕の筋肉が逞しくなったね。まだ筋トレ欠かさずやってるんだ?」


 突然、花梨が口を開いた。


「ん、ああ、もちろんだ。喧嘩で若い奴らには負けてらんねーからな」

「ケガとかしてない? 大丈夫?」

「五人相手にしたときはやばかったな~。肋骨と頬骨持っていかれたかんな」


 一馬は花梨と何回か会話を交わした後、ソファーに戻った。

 

「ビチ子、怒り任せにならないでって言わなかった?」


 花梨は奈津海を小声で非難した。


「ゴメン花梨」

「本当に気をつけてよ。脱出できる可能性を狭めるんだから」




 花梨は、トイレに行きたいと一馬に提案したところ、了承を得た。

 一時的に紐を取り外し、トイレに向かう。

 トイレの外では、見張り役として悠がいる。

 花梨はぐるっと室内を注意深く観察するが、刃物になりそうなものはなく、そのままリビングに帰還した。

 すぐに手を縛られる。


「どうだった」


 奈津海の問いに花梨は無言で首を振る。

 次に、奈津海もトイレに行ったが成果はなかった。


 そして、肝心のお風呂の時間になった。

 奈津海と花梨は、なにも持たず手ぶらでやってくる。


「タオルも用意されてないなんて、不親切なものね」


 奈津海は冷めた目で愚痴を呟く。

 

「あんまり入るのを手こずっていると怪しまれるわ。探すのは少しにして、すぐに入りましょ」


 浴室前の扉には、悠が立っている。異変があればすぐに悠が一馬に伝達する仕組みになっている。

 今の悠には、まるで意思というものがない。


 浴室に入った二人は、身体をざっと洗い流して湯船に浸かる。

 周囲を見渡すが当然、紐を切るのに使えそうなものはない。


「あ~あ、こんな状況じゃなきゃ、もっとリラックスできたのに」

「悪かったわね、ビチ子を巻き込んで」


 奈津海は花梨の謝罪に意外そうに驚く。


「花梨が謝ることはないわ。悪いのはあいつでしょ?」

「それもそうね。悪いのはビチ子よね」

「っておい、なんであたしなのよ」

「ビチ子がお兄ちゃんを好きにならなければ、こんなことにならなかったじゃない」

「そ、それは……いや、それちょっとおかしいと思うわ」


 途中で理不尽さに気づき、思わずツッコミを入れる。


「でも、ビチ子がお兄ちゃんのそばにいてくれた方が、花梨は安心できる。悔しいけどね」

「え?」

「花梨じゃお兄ちゃんを変えられなかった。ううん、変えようとしなかった。昔ならこんなこと考えられなかったもの……ほら、これ見てビチ子」


 花梨は拳を開くと、その中から折り畳まれたレシートを取り出す。その裏面には【ひもをゆるめておくからにげて】と、走り書きされていた。


「嘘……悠が私たちのことを心配してくれてる」

「こんなにカッコイイお兄ちゃん久しぶりに見たよ。だけど、心苦しいわ。お兄ちゃんのことを裏切らないといけないのは」

「そうね。悠も含めて三人で逃げ出さないと」


 早々に湯船から出て、ドライヤーで髪と身体を乾かした。

 リビングまで戻ってくると、悠は宣言通り紐を緩めて縛ってくれた。


 そして、時間は一馬が寝静まった深夜に差し掛かる。

 

 

 

 


 


 

 

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