第九話

 金曜の夜。

 奈津海が悠を買い物に誘ったところ、オーケーをもらった。

 当日になり、この前と同じ集合場所に向かう。すると案の定、花梨も隣にいた。


(あれだけ、二人きりでって念押ししたのに……)


 僅かに抱いていた期待感は、波に打たれた砂の城の如く決壊した。

 だが、予想できていただけに、奈津海の切り替えも早い。


「行き先はビチ子に任せるわ」

「じゃあ、適当にぶらぶらしましょ」 


 奈津海の掛け声で、三人は繫華街に溶け込んだ。


 奈津海と花梨が修羅場になるようなことはなく、平和に時が過ぎる。買い物はもちろん、映画を観たり、ボーリングをしたり、各々遊びを満喫できたようだ。

 百貨店から出た三人は、黒く淀んだ空を不安そうに見上げながら、最寄りの駅に向かって歩いている。三人の手には、買った服や文房具などが入っている袋をぶら下げていた。


「さっきまではあんなに晴れていたのに……」


 奈津海は独り言のように不満を言う。


「傘は買っていかないのビチ子? そこにコンビニがあるけど」

「う~ん、傘が売っているかはっきりとわからないし……それに残り十分くらいだから、降る前に間に合うでしょ」


 しかし、奈津海の予想を裏切り、本降りに。遠くでは雷鳴まで轟いている。


「うわぁぁぁぁ、ほら、言わんこっちゃない~」

「そこの屋根で一時避難するわよ!」


 シャッターの閉まった建物まで、三人は全力疾走した。


 走ったのは短い距離だったが、雨の煩わしさと手に持つ荷物で、余計に疲労を感じていた。


「はあ~。もう天気予報とビチ子は信じないで生きていくことにするわ」

「それが賢明ね――っておい」


 奈津海のツッコミもいつもよりキレがない。

 大通りから外れてしまったせいで、周囲の歩道に人影はない。

 雨が作り出す霧のような灰色、遠くから発する信号機の赤色、道路を行き交う車のヘッドライト。

 どこか幻想的な光景も、今日ばかりは気持ち悪かった。


「悠、大丈夫? ちょっと震えているけど」

「はい、平気です」


 雨に濡れた衣服が素肌にべたついている。それは奈津海と花梨も同じのようだ。


「このままだと風邪ひくし、タクシー呼ぼうか?」


 奈津海がそう提案すると、花梨が別の意見を挙げる。


「ちょうど買ってあるじゃんそこに。替えの服」


 花梨が指差したのは、店名のロゴが入った袋。悠や花梨の脇にも、同じパッケージのものが置いてある。


「あのね、ここで着替えろっていうの?」

「今なら誰もいないし、通ってる車も気に留めないわきっと」

「そういう問題じゃないでしょ。それに、悠がここにいるじゃない」

「お兄ちゃんには一度見られてんじゃん。ほらほら、早くしないと、みんな風邪ひいちゃうよ?」


 手本を振舞うように花梨は、袋の中から買ったばかりのTシャツを取り出した。


「わ、わかったわよ」


 奈津海も周囲を気にしながら、上着に手をかける。

 後一枚脱げば下着というところで、悠と花梨の方を盗み見る。すると、なぜか全く着替えておらず、花梨に至っては、スマホをこちらに向けていた。


「って、あんたね~。なに勝手に動画取ってんのよ!」

「現役JKのストリップ動画~in繫華街~ってタイトルでいいと思う?」

「今すぐ消しなさい!」


 そんなこんなで、柱の陰をうまく利用しながら、新しい服に着替え終えた三人。

 雨の上がる気配は全くないので、奈津海はスマホを取り出し、


「タクシー呼んじゃうわ」

「んで、到着した頃には晴れているパターンね」

「当たりそうだから言わないでよ」


 花梨のした予想に顔をしかめつつ、スマホを操作し、電話番号を入力。


 ――ふと、黒色のミニバンが、目の前の路肩に停車した。


 ひとけのない街並みに這い出るように現れ、不気味さを漂わせる。

 意味ありげに止まった車を不審に思った奈津海は、花梨に声をかけようと横に振り向く。その横顔は、目を大きく開いたまま、くちびるを震わせ固まっていた。


「ちょっと、花梨どうしたの?」


 奈津海が心配して花梨の肩に手を置いたそのとき、運転席の扉が道路側に開き、中から人が降りてきた。

 姿を現したのは、中年くらいのガタイのいい男。フード付きの合羽を着込んでいる。こちらを見ると、不敵に微笑んだ。

 その瞬間、花梨が奈津海に向かって叫んだ。


「ビチ子! 今すぐここから逃げるわよ!」

「え?」


 見たこともない険しい顔つきに圧倒させられ、言われるままに走り出す。しかし、


「お兄ちゃん!」


 悠は、腰を抜かしたように、地べたに座り込んでしまっていた。

 と、ここで、ドスの聞いた低い声が、周囲に反響する。


「おいおい、せっかく会いにきてやったのに、逃げるたぁ〜つれねーなー」

「あんた誰よ」


 奈津海が正面までやってきた男を睨みつける。


「俺か? 俺はそこにいる二人の保護者だ」


 その瞬間、奈津海は戦慄する。先日、花梨に聞いた話が脳裏をよぎったからだ。

 花梨や悠の動揺具合からして、この男の言っていることに間違いはなさそう。

 

(ということは、本当にこの人が、二人に暴力を振るっていた父親?)


「オラッ帰んぞ!」


 座っている悠の腕を引きずり、無理矢理つれて行こうとする。

 なんとか阻止しようと、奈津海は進行方向に回り込む。


「やめなさい! 悠が嫌がってんでしょうが! というか、今あんたに親権はないはずでしょ!」

「ほー、よく知ってんじゃねーか姉ちゃん。でもまあ、そんな些細なことどうだっていいんだよ」

「なにが目的よ!?」

「目的なんてねえ。こいつらは、ただそれだけだ。わかったらそこをどきな」


 そこで花梨が必死な形相で訴えかける。


「ビチ子! あんただけでも逃げて!」

「絶対いやよ、死んでも逃げないわ」

「なんでわかってくれないの!」

「大切な人を見捨てて逃げたら、絶対に後悔する。それだけ」

  

 花梨は奈津海の意志の固さに、説得は不可能だと悟った。


「おい、姉ちゃん、どかねえってんなら、痛い目見んぞ」

「上等よ、返り討ちにしてあげる」


 雨に降られても消えぬ闘志の炎を瞳に灯し、右手に拳を握る。

 びしょ濡れの長髪をかき上げると、ファイティングポーズをとった。

 対する男は、身長差である二十センチ上から見下ろし、拳を構える。

 睨み合いを続ける両者。


「やあああ!」


 最初に動いたのは奈津海だ。

 一気に接近し、脇めがけて右ミドルキックを繰り出す。

 しかし防がれる。

 間髪をいれないまま、左フックを打つ。

 それを首を軽く曲げただけで、躱されてしまう。


「あ~あ、ったく話になんねえ」


 男があくびをしそうな顔で、正面から奈津海に近づいてきた。

 そのがら空きの懐に本気の蹴りを入れる。


(これは効いたはずよ)


 だが、男は表情一つ変えず、隙のできた奈津海の懐に入り込む。

 巨木のような腕が、腹に減り込んだ。


「かはっ」


 全身の力が抜け、よろめく。

 男はとどめといわんばかりに、下から振り上げた拳が、鋭角に奈津海の顎を捉えた。

 声も出せず、宙を浮いて倒れ込む。


「ざまーねえな、がはは」


(ごめん、悠、花梨)


 消えゆく意識の中、その想いだけを残して、奈津海は昏倒した。

 


 

 

 


 


 


 











 


 


 






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