第七話
放課後。
肩を並べて歩道を歩く二人の側を、自転車通学の学生らが追い越して行く。
昼の一件があったため、どうにも気まずい――と奈津海は勝手に思っている。
だが、奈津海はある一大決心をしていた。
「あのさ悠。今日悠の家に遊びに行ったらダメかな?」
「……構いませんけど」
「よかったー」
第一関門を難なくクリア。
続く第二関門であり最終関門はそう簡単にはいかなさそう。
電車で一駅分揺られ、到着した駅のホームを出る。
駅前から住宅街の区間に二人は移動した。
ほどなくして、中規模マンションのエントランスが目前に迫ってきた。
「あれ!? 悠ってマンション暮らしなの?」
「はい、そうです」
亜里沙からは、伯母の家で暮らしているという話を聞いていたので、てっきり一軒家を想像していた。
悠の後ろをついていきながらエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。
上昇するエレベーターは七階で止まり、そのまま通路を進んで七〇五と表記された扉の前に辿り着く。
鍵を回して開くのを待っていると、扉奥から床を駆ける音が響いてきた。
玄関に足を踏み入れて、悠の肩越しに見た光景は、花梨がちょうど両腕を広げて浮遊しているモーションだった。
「お兄ちゃんお帰り~~~!」
「ただいま、花梨」
「……ぷっ」
満面の笑顔を振りまく花梨。その普段とのギャップにこらえきれず、吹き出す。
「な、なんでビチ子がいんのよ!」
「お兄ちゃんお帰り~~~!」
「い、いやーーー」
馬鹿にするように真似をされた花梨は、羞床にうずくまって羞恥に悶絶する。
「安心して花梨。ショーコと、珊瑚と、亜里沙以外には口外しないわ」
「言いふらす気満々じゃないの!」
花梨は気持ちを切り替えるように溜め息を一つすると、攻守交代と言わんばかりに凄みを利かせてきた。
「おい、ビチ子、おととい言ったわよね。お兄ちゃんから離れてって」
「あんな御託を並べられても説得力なんてないわ。あたしを納得させたいのなら、過去に受けた悠のトラウマを教えなさい!」
「なるほど、それがビチ子がここにきた真の目的ってわけ」
花梨は不敵な笑みを浮かべると、蔑んだ目つきで奈津海を見下ろした。
「誰が教え――」
花梨が力いっぱい否定しようとした言葉に、被せるように――
「――花梨お願い! 頼れるのは花梨だけしかいないの! このままじゃ悠から離れることさえできない!」
奈津海は花梨の手を両手でギュッと握りしめ、頭を下げた。
「な、なんなのよ〜。かえって頭下げられるとムズムズするから、もうやめてって」
頭を上げた奈津海は変わらず真剣な眼差しだった。
花梨の後ろに並んで廊下の先にある扉に入る。すると小奇麗な部屋が視界いっぱいに広がった。
入ってすぐ手前にキッチン、奥がリビングになっている。部屋数からして2LDKくらいだろうか。
奈津海はリビング中央のテーブルに促された。
「そういえば、伯母と暮らしてるって聞いたけど、今は不在かしら?」
「いいえ、この家には花梨とお兄ちゃんだけ。その辺もひっくるめて順々に話すわ」
花梨はキッチンで作業をしながらそう答える。
待っている間、奈津海は部屋の中を見渡してみることにした。
フィギュアが陳列されたショーケースや、本棚の他には、ソファーとテレビがある。棚になっているテレビ台の下にあるゲーム機やソフトの奥まった陰に、写真立てを発見した。
その写真立てには、笑顔の四人が、遊園地のマスコットキャラクターとともに写っていた。
キッチンでの作業を終えた花梨は、麻婆白菜などが乗ったお盆を悠に手渡す。
それを持った悠は、自室と思しき部屋へ入っていった。
花梨は、テーブルを挟んだ奈津海の正面の椅子に着席する。
「それじゃあ、話すわ。花梨たち兄妹の、苦悩に満ちた過去を……」
奈津海は唾を飲み込んで、ゆっくり首を縦に振った。
「今から六年前。花梨とお兄ちゃんは温かい両親の下で暮らしていた。おっとりとして優しいお母さん。やんちゃだけど頼れるお父さん。そんな幸せな家庭も、四つある柱のどれかが抜ければ、いとも簡単に崩れ去る」
(それがお母さんってわけね……)
「事実だけが花梨の耳にそっと入ってきた。童話の結末だけを先に知ったようで、涙は流れなかった。そのうち、享受できるのが当然と思っていた幸せが消失していることに気がついて、滂沱の涙とともにお母さんの死を受け入れるようになる。どうせ帰ってこないなら、交通事故であろうと他の死因であろうとどうでもよかった。花梨のメンタルが強いのか、心が冷たいのかはわからないけど」
花梨は膝に置いていた手のひらを握りこぶしにして、すぐに元の形に戻した。
「でも花梨以外の二人はそんな単純に割り切れないみたい。お兄ちゃんは、見るからにやつれ、笑顔が減った。そして、お父さんは…………」
伏せていた目を上げ、奈津海の視線と交差した。
「虐待をし始めた……ストッパーが外れたみたいに」
衝撃的な事実を突きつけられた奈津海は、絶句する。
花梨は、女だからということと、悠が守ってくれていたこともあって、あまり暴力は振るわなかったらしい。
それに対し悠は、耳を塞ぎたくなるくらいの仕打ちだった。
「仕事から帰ってきたら最低一回、機嫌の悪い日は複数回。家事、炊事、洗濯などの身の回りの世話はもちろん、酒を飲まされることもあった」
「ひどい……」
奈津海は、同情するような声を漏らした。
「そんな暴力に耐えられなくなった花梨とお兄ちゃんは、小学六年のときに、母方の伯母宅を訪ねて事情を話した。裁判所に申し立てをしてもらった結果、お父さんには親権停止が言い渡され、伯母が後見人となった」
それから悠と花梨は、伯母の家で生活を始める。
「県外の中学に進学してからは平穏な日々を享受するようになった。そんなときお兄ちゃんに異変が起こる。極端に口数が減って、上の空でいることが増えた」
「それが今に結びつく妄想癖の原点てわけね」
「そう。精神科医に診断したところ、精神破壊されないための無意識的な防御機構が働いていると言っていた。無理に治そうとすればパラノイア等になってしまうこともあるらしい」
花梨は一度テーブルに置いてあるグラスで喉を潤す。
「だから花梨は、中学卒業と同時に伯母の家を出て、ここでお兄ちゃんと暮らすことに決めたの。お兄ちゃんの過去を唯一知ってる花梨なら、どんなことでも肯定してあげられるから、外的ストレスも最小限にできる」
全てを言い終えたのか、花梨はソファーに背を預ける。
「これでわかったでしょビチ子。あなたはお兄ちゃんにとって害でしかないってことが」
「そうね……」
奈津海は、どこか諦観したような表情を浮かべたのも束の間、
「これではっきりしたわ! 悠を変える必要があるってことに!」
そう自信満々に高々と宣言した。
「はあ? 話聞いてたのビチ子? 無理に手を加えれば悪化して取り返しがつかなくなるんだって!」
「じゃあ今のまま、いつまでもぬるま湯に浸かってるのが正しいと言えるの? あたしはそうは思わない」
「ビチ子は当事者じゃないからそんな軽はずみなことを言えるんだ。母親の死と父親からの虐待、その両方を受けた苦しみを、ビチ子には一生理解できない」
激しい言い争いによる声が、リビング内を幾度となく反響させる。
奈津海は一切折れる気がないのか、さらに口論は続く。
「なら聞くけど、どうして高校に通わせようと思ったの? そんなに大事なら家に隔離すればよかったじゃない。実際問題、悠はいじめを受けてケガまでしてる。あたしがかばってなきゃ、それこそトラウマを再発させていたかもよ?」
「そ、それは……」
ここにきて、初めて花梨は言い淀む。
「花梨だって、心のどこかでは悠に変わってほしいって思ってるんじゃないの?」
「ゔ~」
急所を突かれたときのような唸り声を上げる。
「あたしにはないけど、花梨なら思い出の片隅にも形としても残ってるはずよ! あたしたちで戻してあげようよ、悠に笑顔をさ!」
奈津海はソファーから立ち上がると、花梨を見下ろしサムズアップした。
花梨は観念したかのように嘆息すると、
「わかったわよ。でも具体的にどうするの?」
「妄想をするのを忘れるくらい、
「でも、お兄ちゃんの二次元愛は筋金入りよ」
「妄想空間にいるのが心地いいなら、それを上回る楽しい思い出で、脳内を埋め尽くしちゃえばいいのよ」
「そんな簡単にいくかしら?」
その後、何度か意見を交わしたが、良い解決案は結局出ず。
帰宅時間となってしまった奈津海は、湖月宅のマンションを出ると、そのまま帰路についた。
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