琥珀のかげろう

Enbos

第1話

 バーテンダーという職業は難儀だと私は常々思う。特に開店準備を終え、身支度を整える段階に入るとそれは顕著になった。

(……上達しないな)

 常々そう思う。艶やかに光る左手の指先に、私はふっと息をかけた。我々バーテンダーは男性だろうが女性だろうが、近頃は身だしなみの一環として透明、あるいは薄い色のマニキュアを塗るのが常識になってきている。マニキュア特有の香りが一瞬だけ鼻をつき、それと同時に午後六時を告げる振り子時計の音が響いた。

(さて……いつも通り、頑張りますか)

 そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えると、私は入り口の照明をつけ、看板を出した。

 ——だが、いつもと同じように始まった今日という日は、少しだけいつもと違っていた。


    ※


「エドシックっていうシャンパンはあるかな」.

 ドアのカウベルをころんと鳴らしてやって来たのは、中年ほどの優男だった。身なりはしっかりとしていて、スーツこそ着てはいないが、かっちりとした黒いポロシャツと腕時計は、ある程度上等のものだと判る。カウンターの上に組んで置かれた手はよく手入れされていて、人と合う仕事をしているのだろうと予測できた。

「申し訳ありません、シャンパンはメニューにあるものしか……」

 私は頭を下げ、カウンターの上にあるコルクでできたメニューボードを彼に促した。

 彼の頼んだエドシックというシャンパンは、比較的高級品だ。マリーアントワネットに献上された歴史もあるそうで、もちろん味はすばらしい。だが、それ故にとても私のバーに常備できる代物ではなかった。

「そうか……それじゃあ、アードベッグを」

「かしこまりました。飲み方はどうされます?」

「ロックで、チェイサーにビールを」

 彼のそれは、お酒が好きな人間の飲み方だ。私は返事の代わりに微笑みながら会釈を返すと、戸棚のオールドファッショングラスを手に取った。淡く流れるジャズのスウィングが流れる店内で、グラスと氷の触れる音が響く。そこにはただ贅沢な時間だけが横たわっていた。


「……実はさ、失恋しちゃって」

 ひと口グラスを傾けてから、彼は苦笑いを浮かべて言った。

 思いがけない言葉だった。ほんの短い時間の邂逅だったが、彼に失恋という言葉は似つかわしくないように思う。どちらかと言えば、(言葉は悪いが)遊んでいる印象の方が強かった。

「それは……なんと言って良いか――」

 苦笑いを浮かべながら、私はそう彼に返す。

 実のところ、恋愛の話は苦手だった。それが顔にも出ていたのか、彼は私を見るなりふっと笑い、グラスをもう一度傾ける。

「誰かに、聞いて欲しくてさ」

「――ええ、もちろん」

 その言葉は本心からだった。

 空になったグラスの中、橙色の明かりを反射する丸い氷を見つめながら、彼は少しずつ、思い出すように、ぽつぽつと話し始めた。



     ※


 彼の話によれば、今回の失恋はここ最近では三度目の出来事であるらしい。全部で何件なのか? という点については無粋なため聞かなかったが、最初の失恋はおよそ4年前に遡る。


 彼の住む家のすぐそばに、小さなパン屋があった。近所ではそこそこ有名な店であるらしく、朝の通勤時間帯にはいつもお客であふれていた。そう広くない店内でせわしく選ぶパンの味を、今でも鮮明に思い出せると彼は言う。

「ベーコンエピっていう、フランスパンにベーコン入れたようなパンが大好物でね」

 どこか遠くを見ながら言う彼の言葉は、抑えきれない懐かしさがあふれていた。

 閑話休題。彼の恋物語に戻ろう。

 毎朝の買い物で顔を覚えられたのか、ある朝彼はとある店員に声をかけられた。

「今日はいつものパンじゃないんですね」

 その一言は彼の気持ちに小さな火をつけたようだった。毎朝の邂逅は互いの気持ちを確認する作業のひとつとなり、お互いにそれ以外の時間を作ることが多くなった。

 彼は彼女の手と髪に惹かれていた。仕事がどれだけ忙しかろうと彼女の手はいつも美しく整えられていて、爪にはいつも薄色のマニキュアが控えめに塗られていた。胸くらいまである髪はきっちりとしたストレート。身だしなみに手をかけているのが一見してわかる、清潔感のある良い娘だったと彼は言う。

 丁度干支が一回りするほど年の離れていた彼らだったが、それなりに愛を育んでいた。短いながらも半同棲のような生活をしたこともあったようで、その頃を彼はこう語る。

「多分、あれを「幸せ」っていうんだろうな、って思ったよ。俺も年甲斐もなく夢中になっちゃってさ……でもまあ、最初と同じような感じで、あっという間に終わっちゃったよ」

 彼が言うには、彼女はベーカリーショップを営むのが夢だったそうだ。そのために海外へと修行をしに行ってしまい、いつの間にか二人の関係は終わってしまったそうだ。



     ※



 スムース・ジャズの流れる店内で、彼はひとつ小さなため息をついた。話し終えた喉を潤すようにアードベッグを飲み干すと、正面に立つ私の頭の上にあるオレンジの照明をじっと見つめた。

「まあ、いい思い出のひとつだよね」

「……そうですね。これは私の主観でしかないのですが、ご経験は豊富なのではありませんか?」

 私は彼に笑いかける。彼はそれに苦笑いを返した。

「豊富、っていうほど豊富じゃないよ。うまくいかない事ばっかりさ」

「ぜひ、後学のためにお聞きしたいです。私そもそもきっかけがありませんし」

「そうなの? ……あ、同じものいただけるかな」

「かしこまりました」


 グラスが控えめに響き、氷球が琥珀色の海に半身を浸す。

 彼はそれをそっと手で包み込んでから、もう一度ぽつぽつと話しはじめた。



     ※



 時は二年前ほどに遡る。

 薬品会社の営業として忙しく走り回っていたそうだ。ちなみに前職は医療品メーカーの営業であったそうで、彼がその業界に長くいるということが察せられた。

「当時は大阪に住んでてさ。……知ってる? やっぱりあっちはご飯が美味しくて。5キロくらい太っちゃったよ」

 とは彼の談。確かに粉物が多くいろんな意味で身につきそうな街ではあるが、まあそれは良い。


 閑話休題、彼の恋の話に戻ろう。

 やはり薬品会社のクライアントといえば病院、そして医者になる。当時の彼は多少恰幅がよく、そこを気に入った女医と時折食事に行く仲になったそうだ。

 互いにそこそこの収入があり、食の好みも合ったことから、二人で連れ立って食べ歩くことが多くなっていたとのこと。

 しかしそれが明るみに出たのがまずかった。

「二人で上手くやって行けていたんだけどね。……あれが唯一の失敗だったと思う」

 クライアントと関係を持つというのは、商売上やはり好ましいことではない。そして不幸中の幸いというべきか、彼も彼女も有能であったし、体の関係を持つことはなかった。

 事故が起きる前に会社と病院は対策をとった。彼は大阪から東京へと転勤となり、彼女は別の大学病院へと紹介された。


「……今考えると、少し神経質な対応だったように思う。けど、アレでよかったんだ」

 彼は思い出すように少し残ったウィスキーを眺めながら言う。水で薄まったその液体は、時間で薄れていった彼の気持ちを表しているようだった。


 この話には続きがある。やはり同種業者ということで、ふとしたタイミングで彼らは再会したそうだ。

 その時、女医の左手薬指にはシンプルなリングがあったという。喫茶店でお互いの状況を報告しながら、彼らは昔のことを話したとのことだった。

「あの時、お互いに気持ちが通じあっていた、って確認できたんだ。……ふたりともお互いのことを大事にしすぎてた気がするよ」


 こうして、臆病な大人の恋は終わりを告げたのだった。



     ※



「なるほど、相手はお医者様だったんですね」

「まあ非日常、っていう感じではあったなぁ……今でも夢だったんじゃないかと思う時があるよ」

 彼の言葉はほんの少しの自嘲を含んでいた。遠い思い出を手繰るようにグラスを手に取ると、それを飲み干してからほんの少し間の目を閉じた。

「んでさ、まあここからが本題なんだけど……今日失恋した話ね」

「ですね、ぜひお聞きしたいです」

 恋愛の話は苦手だったが、彼の話は非常に面白いし興味深い。

 後学のため、と前置きをして、私は彼に話を促した。



     ※



 三人目の女性は、再び年の離れた大学生だったらしい。彼の会社へインターンで来た彼女に仕事を教えるうちに、少しずつではあるが彼は惹かれていったそうだ。

「最初に話したあのパン屋の子。……あの子を思い出しちゃってね」

 懐かしいような、少し寂しいような思いを、彼女は持ち前の元気で癒してくれたそうだ。どこに行くにもついてくる、子犬のような女性で、バイタリティのある積極的な性格をした彼女は、そのアプローチでさえ力強いものだったと彼は語る。

 そう、今回は彼が告白をされる側だったそうだ。

 仕事の他にも様々なことを教え、いつかはこのバーにでも連れてこようと思ったらしい。嬉しい言葉ではあるが、どうやらそれは失敗に終わったようだ。

「僕がさ、ついていけなくなっちゃったんだよ」

 積極的で、アクティブな彼女のバイタリティは、もう既に彼にはないものだった。一度は付き合うことにオーケーした彼であったが、少しずつ彼は彼女のことを疎ましく感じ、連絡を取らなくなっていったらしい。

 インターンが終わり、いつしか街で見かけた彼女は、歳相応の元気の良い彼氏を連れていたとのこと。

 その時、彼は失って初めて本当に好きだったことを悟ったという。



     ※



 寄る年波には勝てないと彼は笑うと、もう一度同じウィスキーを注文した。

 私は淀みなくそれを用意すると、素早く彼の前へと供する。

「はは……なんだかキレがいいね、やっぱりすごいなぁバーテンダーは」

 単純に続きが気になって仕方なかったというものもある。だが、私は他のとあることにも気を取られていて、上の空だったのだ。

「いえ、そんなことは」

 私はそう言って、にっこりと笑った。



     ※



 ころん、とカウベルが鳴り、扉が閉まる。

 先ほどの一杯が最後の注文で、それを飲み干すと静かに彼は店を後にした。

 再び店内は私一人の静かな空間になる。スムース・ジャズが満たすこの場所で、私はこっそり煙草に火をつけた。


 さて、先ほどの話を反芻していこう。私は気になる所がいくつかあった。

 

 果たして、パン屋の店員――それもパン職人を目指すような人間が、マニキュアをして胸まで髪を垂らすであろうか。バーテンダーという私の職業は少し特殊であるが、それらの化粧や身だしなみを自ら進んでしている飲食店の店員など聞いたことが無い。


 それに、女医と製薬会社の営業が関係を持てるだろううか。基本的に医薬品の仕入れそのものは医局、あるいは医事の範疇であるし、(これは私の私見であるが)何らかの可能性があったにせよ、営業など医師連中は歯牙にもかけないイメージがある。


 最後のインターンの女性だが、こちらも少し疑問である。どこに行くにもずっと後をついてくるほどに彼に惚れていた女性――それもかなりのバイタリティと行動力がある女性が、連絡を取らなくなる程度で諦めるだろうか。


 ……とはいえ、真実は闇の中。言葉はもう、全て通りすぎてしまった。

 

 煙草をもみ消し、私は彼の座っていた席を見る。彼は今日、一人で飲みに来た。もし彼が今も恋愛を続けていて、誰かパートナーを連れてきていたなら、今日の話は聞けなかっただろう。


 そうしているうちに、ころん、とひとつカウベルが鳴った。


 一人のお客が店内を見回している。私は席を促し、メニューをそっと置いた。


 二人ではなく、一人と一人。

 贅沢な時間が始まる。

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