第20話 救出
その男は
袮人が九弦城にいたころは、政務に忙殺されて私事をするゆとりがなかった。賢義が政務に復帰してからも市井の人間を城内に招くのがはばかられて会えず終いである。このような状況とはいえ、袮人は昔なじみと顔を合わせたことを嬉しく思った。
「悪いな、こんな山奥まで呼び出して」
「いやいやいや、袮人殿が助けを求めるなど、夏に雪が降るがごとく珍しきこと」
と、相変わらずの大げさな調子で答えた。編笠を頭から下ろして、吹き出す汗を手ぬぐいで拭う。
「約束通り半額は前金で、帰ったら残りを払う」
「いえ、お代は結構」
信じられない言葉を聞いた。袮人が冗談だと思って笑っていると、
「今お代をいただくよりも、袮人殿に貸しを作る方が得になると思いますので」
「買い被りだよ。欲をかくと値崩れを起こして大損する」
「袮人殿が命を賭けた大博打をなさるというのに、私だけが弱腰では男がすたるというもの」
「
「袮人殿が穂羽の大名に返り咲いた日にはどうかご贔屓に」
鵜ノ瀬の指導のもと、衣服を変えて荷車を用意し、翌朝に兎流の山を出発した。虎姫と数名の手練れ、それに袮人と鵜ノ瀬の合わせて八人が、二手に別れて移動する。
山を下りてからは街道に合流して姿を隠すことなく堂々と通行した。袮人の予想通り、領内の街道にはあちこちに見張りが置かれ、通行人の素性や荷物を調べていた。
もちろん袮人たちは武器を携帯していたが、一見してそれと分からないように杖や水筒、荷車の板の中に仕込んでいた。これは兎流の指導による。
また、袮人は顔を知られている危険があるため、笠を深く被り顔には泥を塗って人相を隠して歩いた。
鵜ノ瀬は志陽では名の知れた商人だった。街道に置かれた見張りは雇われた地元の人間のようで、鵜ノ瀬のことを知っている者も少なくなかった。
結局、二日と半日かけて、袮人たちは特に怪しまれることなく城下町まであっさりとたどり着いてしまった。
「少し拍子抜けだな」
と、虎姫は物騒な感想を漏らした。もし城にたどり着く前に問題があれば袮人はすぐに作戦を中止するつもりだった。
「袮人殿、私が手を貸せるのはここまでです」
「分かってる。ここでしばらく待っててくれ。穂羽の者に問いただされても、行商に来ただけだと答えれば問題ないと思う」
「お帰りをお待ちしております、未来の大名様」
「未来のことなど分からないよ」
鵜ノ瀬は袮人たちに一礼して、宿の奥に引っ込んでいった。
現在は昼を過ぎて少しというところ。
「決行は、夜か?」
「そうじゃな。明け方に忍び込み、乙乃を連れて朝に街を発つ。それまでに城の様子を探っておきたい」
「明け方まで待つのか?」
「真夜中にぞろぞろと街を出て行けば怪しまれる。夜に乙乃を城から連れ出して、朝まで宿に隠しておくのも危ないじゃろ」
「なるほど」
「どこから城に入ればいいかは分かっておる。あのころから警備の配置が変わっていないことを願うばかりじゃが……」
「改めて言うが」袮人は虎姫だけでなく、一同を見渡した。「無用な戦いは避けよ。万が一、刀を交えることがあっても、決して殺してはならぬ。良いか?」
何も袮人は博愛主義からこのような命令を出しているわけではない。袮人たちが穂羽の家臣を殺したとなれば、賢義の真意とは無関係に、面目を保つためには兎流を追討するしかなくなる。
夕方まで城の偵察を行い、軽く夕食を食べた後、袮人たちは作戦決行まで仮眠を取ることにした。
明け方近く、袮人は宿の硬い板床の上で、虎姫に肩を揺すられて目を覚ました。
「早う準備せい。皆待っておる」
そう言う虎姫の目は、戦いが待ちきれないとばかりに輝いていた。
袮人は、行商人の服の上から、あらかじめ用意していた黒装束を着て表に出た。兎流の兵士たちも全員が同じ黒装束であり、これではまるで盗賊団だと袮人は思った。街は寝静まっていて物音一つしないが、万が一誰かに姿を見られたら悲鳴を上げられるのは疑いようもなかった。
虎姫は部隊を二手に分けた。一方が乙乃の救出を行う部隊。もう一方が、救出部隊の脱出を助けるために、城に陽動をかける部隊である。
「万が一のためじゃ」と、虎姫は袮人に強調した。「万が一、侵入が敵に見つかったときは外から城に火を放つ。その隙に城から逃げる。見つからなければそのまま静かに逃げ出せば良い。何、ただ念のために用意しておくだけじゃ」
「私はどちらに参加すればいい」
「お主のお守りはわしじゃ。頼むから、下手を打つなよ」
城へ向かう道すがら、袮人は深く深呼吸をして平常心を保つように心がけた。
横手に回り込み、通用門の脇にある低い塀を乗り越えて中に入る。さらにいくつかの遠回りをし、床下を通り抜けて、なんとか本丸の近くまで近づけた。
「では、ご無事で」
陽動部隊とはここで別れる。虎姫の家臣三人は、少し離れると、あっという間に闇に溶け込んで姿が見えなくなった。
「わしらも行こう」
低い声で虎姫が促した。
乙乃の居場所について確信があるわけではなかったが、国衆からの人質を監禁しておける場所がそれほどあるわけではなかった。
まさか有力者の親族を牢に繋いでおくわけにはいかないし、実際に処刑するまでは身の回りの世話もしなければならない。穂羽の体面もある。逃げ出さないように見張りつつも、最低限の礼儀は守らなければならない。というようなことは、大名をやっていたころに袮人自身も頭を悩ませていたことだった。
乙乃が囚われている可能性が一番高いと思われるところから順に回っていく。これは、客人を留めるための部屋を、格の高いところから順に回っていくのと同じである。
途中、提灯を持って歩く見張りの者とすれ違うことがあったが、近くの部屋に身を隠すことで事なきを得た。見張りが通り過ぎる間、袮人は自分の口を手で押さえ、呼吸を静めるのに精一杯だった。
危機が去ったときには額にびっしょりと汗をかいていた。その袮人の様子を見て虎姫が音を立てずに笑っていた。
かつて九弦城で暮らしていたころからは比べようもないのろまな歩みで、暗闇の中を手探りで進む。悠長に城内を歩き回る余裕などないというのに、袮人たちの探索は空振りが続いた。
六番目の心当たりに向かおうとしたところで虎姫が袮人を止めた。
「牢を見よう」
まさか、そんなところには――と答えつつも、もしやと思い、虎姫の提案に従う。幸いにして、牢を徹夜で見張る者はおらず、苦労もなくたどり着くことができた。
果たして牢の中に、束塚乙乃が静かに眠る姿があった。上等な着物姿のまま、粗末なござの上で枕もなく横になる姿が痛々しかった。かつてその牢に囚われていた虎姫の姿が重なったが、目の前の女には虎姫のようなふてぶてしさは欠片もなく、ただただ悲しかった。
「乙乃様。乙乃様――」
牢の外から袮人がささやくような声で呼びかける。その間に虎姫は手下に命じて牢の鍵を破らせた。明かりのない中での手探りの鍵開けに手こずっている様子だったが、それでも熟睡している乙乃が目を覚ますよりも早かった。
袮人が乙乃の肩を揺すって耳元に囁く。
「乙乃様、起きてください。乙乃様――」
乙乃がもごもごと口を動かした。
「わたしは……殿ではございません……殿は袮人様……」
「寝ぼけておるな。ここはひとつ、口づけでもしてやれば良いのではないか」
袮人は虎姫を睨みつけた。袮人からは虎姫の姿は鮮明ではなかったが、彼女の方はしっかりと見えているらしく「何でも良いからさっさと起こせ」と呆れ気味に返された。
乙乃の肩を掴んで体を起こすと、さすがの彼女もそれで目を覚ました。最初は狼狽していたが、袮人の声だと分かると両腕を広げて袮人に抱きついた。
「袮人様っ!」
「静かに!」
怒気を孕んだ虎姫の声に乙乃もさすがに気後れしたようだった。
「お父上から頼まれて助けに来ました。城を出て兎流に向かいます」
「お待ち下さい。城の中にはわたしのように囚われている者が他にもおります。みな国衆の人質として集められた者たちです。どうかあの人たちのことも助けてください」
袮人が答えるより早く虎姫が口を挟んだ。
「悪いが、わしらにそんな余裕はない。人数が増えれば見つかりやすくなるし、国境を超えられん。それに急がねば夜が明ける」
「……どうしても、駄目でしょうか」
「それは――」
「ここでわしらが捕まれば主様もわしもお主も人質も、みな殺される」
さらに、袮人の返事を遮るように虎姫が言った。
「ひょっとしたら全員を連れて行く方法があるのかもしれぬが、全知全能ではないわしらにはそのような方法は見当もつかぬ。そうじゃろ、主様」
「……そうだ」絞り出すように袮人は返事をした。「虎姫の言うとおりです。私たちでは乙乃様お一人を連れて行くので精一杯です。……私たちの無能さをお恨みください」
「ああ――どうかお顔をお上げください。死を覚悟しておりましたが、もう一度袮人様にお会いできただけでも、乙乃は嬉しゅうございます。欲張りな乙乃をお許しください」
そう言って、乙乃は優しく袮人を抱擁した。
袮人たちは牢を離れた。乙乃は袮人が背負った。外を見ればうっすらと東の空が明るみ始めていた。
突然、虎姫は袮人の腕を掴んで木の影に押し込んだ。袮人が顔を上げると、虎姫は声を出さずに、指で道の先を示した。
息を潜めていると話し声が聞こえた。足音が近づいてくる。虎姫は死んだように静かだったが、袮人は自分の呼吸が乱れるのを抑えるのに必死だった。体を寄せた乙乃がごくりと唾を飲み込んだのが分かった。
そのとき、遠くから鐘を激しく鳴らすのが聞こえた。「火事だ!」と遠くで誰かが叫び、兵士たちは慌ただしく離れていった。
「今のうちに出るぞ」
虎姫はさっと立ち上がると、周囲を警戒しながら袮人を先導した。
その後も際どい場面はあったが、何とか無事に城を離れて、城下町の鵜ノ瀬のもとに戻って来られた。すでに城下町では城に火がつけられたという噂が駆け巡っていた。
乙乃の服を着替えさせて、朝食を素早く済ませてすぐに宿を発つ。
町を離れ街道に入ったところで陽動部隊と合流した。
「これで束塚はわしらの味方じゃ。束塚がこちらに付けば心変わりする者も多かろう。まあ、束塚が約束を守れば、じゃが」
虎姫が乙乃の寝顔を見ながら言った。乙乃は、袮人の馬に相乗りして、袮人の腰をしっかり掴んだまま器用に寝息を立てていた。
「なあ、虎姫」
「なんじゃ、主様」
「私は、決めた。兄上と戦う」
「……やっと言うたか。待ちくたびれたわ」
「驚かないんだな」
「驚かんよ。この世にわしを驚かせるようなことはない」
「格好良いな。墓に刻みたい言葉だ」
「格好悪いじゃろ、そりゃ。言い訳してるみたいで」
「私たちは、勝てるか?」
袮人は、そばを歩く虎姫の顔を見る。
「――おう。わしが勝たせてやる」
彼女はいつものように、迷うことなく答えた。
乙乃の救出成功を知らせる密使が束塚を訪れた直後、束塚十三は穂羽賢義と志陽の国衆たちに賢義からの離反と袮人の支持を宣言した。それをきっかけに他の国衆や穂羽の重臣の中からも袮人の側に与するものが徐々に現れ始めた。
束塚の離反から数日後、束塚の使者と、賢義から離反した穂羽の家臣たちが兎流の山に到着した。その中に、砂坂酒子の姿があった。
「……賢義様を止められず、こうして袮人殿に生き恥を晒すことになり、面目次第もございません」
「まさか。砂坂は立派に務めを果たした。誰がそれを疑おうか。それに砂坂が来てくれれば、これほど心強いことはない」
「……今、賢義様のもとを離れて、袮人様のもとで戦えることを、心から嬉しく思ってしまいました。わたしは不忠者です」
「そう自分を責めるな。砂坂の命を預かる以上、私は必ず勝つ」
「もったいなきお言葉」
砂坂が平伏した。
砂坂以外にも諸井田や西宿など袮人政権時代の主だった重臣たちはみな袮人の側についた。
賢義との正面対決を決めた袮人は、未だに離反していない穂羽配下の国衆たちや、賢義配下の重臣たちに書状を出した。内容は、先の天作や三護との戦いの論功行賞の不平等や、家中の統制に失敗し領国が乱れていることを糾弾する内容である。最後に、病弱で政務をしばしば投げ出す賢義には穂羽の頭領としての資格がなく、この袮人が家督を継ぐことこそが真に天下のためになるのだ、という主張で締めくくった。
袮人は書状を右筆の西宿に書かせながら、自分の脳髄が沸騰するほどの嫌悪感に襲われていた。同じ内容の書状を用意するように命じると、袮人はしばらく自室に一人でこもった。
袮人が虎姫と今後の軍事的な計画について話し合っていると、諸井田がいきなり襖を開けて部屋に飛び込んできた。
「袮人様、お耳に入れておきたいことが」
「らしくないな。重大なことか」
諸井田には賢義の家中への調略を任せていた。
「わしはおらん方がよいか?」
「いえ、そのまま……。これは、九弦城にいる旧知の者から聞き出した話なので、まだ裏は取れていない話なので、いたずらに公表するのはまだ早いと存じますが」
「つまり噂だろう?」
「賢義様が天作の使者と会っているそうです」
袮人と虎姫は、しばし無言で互いに顔を見合わせた。それが本当だとすれば、意味することは明らかである。天作との再同盟と援軍要請――ただし、天作が志陽への野心を持っていることは疑いようがない。再同盟の交換条件として領地の割譲だけで済めば御の字だ。
「そうじゃな。賢義に天作の子を養子入りさせるとか、そのあたりかの。あとは騒動が収まったときに理由をつけて賢義を切腹させればよい。いつもの天作のやり口じゃ」
「天作の軍に具体的な動きはあるか」
「いえ、まだ……」
実際に軍が動き始めてからではもはや手遅れだ。ただでさえこちらより大軍の賢義たちに天作からの援軍が加わればもはや勝ち目はない。しかも、袮人たちが負ければ、結果として一番得をするのは志陽への影響力を強める天作だ。
これは、負けるわけにはいかなくなった――。
「虎姫。作戦変更だ。すぐに動員をかけろ。天作に介入される前に決着をつける」
「心得た。くふふ、面白くなるのう」
虎姫が部屋を飛び出した。
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