第19話 恐怖
夜、虎姫は自室の外に気配を感じて声をかけた。常人には分からないわずかな音や振動でも、兎流の武者には十分すぎる手がかりである。
廊下がキィと鳴って、阿木楽が中に入ってきた。廊下が鳴ったのは古びているのではなく、侵入者が無音で廊下を歩けないようにするための仕掛けである。虎姫が阿木楽の気配に気づいたのは、阿木楽がわざと気配を虎姫に晒したからだ。
「てっきり浮かれているのかと思いましたよ」
「なんじゃ。もしわしがお主の気配に気づかなかったらわしを殺すつもりだったのか?」
ふふふ、と二人して笑った。しかし阿木楽はすぐに真顔に戻る。
「そんなことよりも、姫――」
「袮人のことじゃろ」
阿木楽は頷いた。洞察力などではない。ここ数日の阿木楽の苛立ちを見ればどんな間抜けにだって分かる。
「賭けから降りるなら早いほうがいい。今なら身ぐるみ剥がされる前に家に帰れます」
「わしらに帰る家があるんじゃろうか」
とぼけた返事を返したが、阿木楽はいつものように冗談には乗ってこなかった。
「あの男の身柄を材料にして穂羽と交渉をするというのは。賢義は領土欲の少ない男です。謀反の芽を刈り取れるなら、一も二もなく応じるでしょう」
「そうかもしれんな」
「では」
「しかしわしらは明日の食事のことだけを考えれば良いというわけにはいかぬ。それではかつての無能どもと変わらぬ。種籾を食べてしまえば一晩の満腹と引き換えに来年は飢えに苦しむことになる」
「その種籾も腐ってしまえば同じこと」
阿木楽はまっすぐな瞳で虎姫を見つめている。その影が時折、蝋燭の揺らぎに合わせて波打っていた。
「もともと分の悪い賭けなんじゃ。小金を稼いだところで今日の飲み代に消えるだけ。賭けるならでっかく賭ける。そうでなければ賭場に来た意味はない。……いつか滅びるにしても、どうせなら派手に滅びたいものじゃ」
「見苦しく生き延びるよりは、ですか?」
「わしとて正解を知っているわけではないが、だからこそ納得した上で滅びたいのじゃ。それにせっかくここまで来たのだし、ここで降りてしまっては勿体ない」
「それはあの男を――」
阿木楽は何かを言いかけたが、途中で口をつぐんだ。
「なあ阿木楽、どうせ滅びるならせめてわしらが選び取った滅びであって欲しくはないか?」
穏やかな声で、虎姫がそう締めくくった。
兎流の山にいる袮人から見て穂羽宗家は不気味なほど静かであったが、九弦城の中にいる者たちにとっては必ずしもそうではなかった。かつて穂羽当主として天作と対等に渡り合ったあの袮人が虎姫を伴って山に篭もっているという事実は穂羽家中をにわかに動揺させた。賢義が袮人の謀反について公式な見解を出さなかったこともさらに憶測を呼ぶことになった。
賢義は動揺する家中の引き締めを行った。謀反の疑いのある者、忠義に疑いのある者を叱責し、時には領地を召し上げた。
当然、賢義に対する家中の反発はあった。
袮人が姿を消してから十日が経ったころ、砂坂が賢義のもとを訪ねた。賢義は大広間に砂坂を二時間も待たせていたが、彼女は微動だにせず、まるで瞑想をするかのようにひとりで静かに待っていた。
「すまない。それで、話とは?」
「……家臣共々、一つになって賢義様をお支えする覚悟です」
「何だ、藪から棒に」
砂坂は言葉を切った。ややあって、覚悟を決めた顔で、真正面から打ち返した。
「賢義様がお疑いになるのも無理ないことと思いますが、どうか、私たち家臣どもを信じて、寛大なご処置をお願い申し上げます」
「そのことか」
「家中の動揺を抑えることも大事。しかしあまり厳しくされては逆に人臣を遠ざけることになります」
「……砂坂」
「はい」
「誰に頼まれた?」
砂坂は一瞬、気が抜けたような顔を賢義に見せた。
「私の意思でここにおります」
「そうか……」
「あの、何か」
「兎流は、何も言ってきておらぬ」
賢義がぽつりと漏らす。砂坂はじっと次の言葉を待っていた。
「兎流は兵力の上では穂羽に対して極めて劣勢だ、袮人もそのことは分かっているはず……。それにもかかわらず兎流から何の交渉もないということは、兎流には私たちに勝つ目算が立っているということなのではないか」
「……というと」
「袮人は、穂羽の家臣たちを調略しているのではないか。戦力を調達する目処が立っているから、こちらの出方を待っているのではないか」
「まさか。一体どのような根拠があって」
「袮人であれば私たちに見つかるような下手は打たないだろう」
「考えすぎでは」
「だったらなぜ兎流から使者のひとりも寄越さないのだ。宣戦布告も無実の訴えも何もない。あの袮人が、ただ時を無駄にするはずがない……きっと、何かあるはずなのだ……何か……こちらも手を打たなければ……」
途中から、賢義は砂坂にではなく、まるで自分自身に問いかけるように同じことを繰り返した。
「とはいえ、無実を訴える者を詮議も不十分に処罰するのはあまりにもご無体な所業」
「そのように悠長なことを言っていられる状況か!」賢義が声を荒げる。「真に穂羽のことを思う者であれば分かってくれるはずだ」
「穂羽を思う者は大勢おります! しかしながら皆それぞれに思う方法は違いましょう。道は違えど穂羽を思う心に嘘偽りはございませぬ」
「お前こそ、我が身可愛さに反対しているだけではないのか!」
「それは、そのお言葉はあまりに――」
賢義はさらに砂坂に詰め寄った。
「密かに袮人と通じてわたしを手にかけようとしているのではないか? どうだ、何とか申してみよ!」
「我ら砂坂のこれまでの忠節をお忘れになったか!」
「では身の潔白をこの場で証明してみせよ! できぬであろう。できぬであろうな!」
「賢義様こそ、そのような子供の理屈で家臣を粛正するなど、自ら穂羽を滅ぼすも同じ!」
「もしお前が無実であっても、砂坂を罰したことが他の家臣たちへの戒めとなろう。真に穂羽への忠義があるのなら、ここで処罰されることこそ誉れと心得よ」
「乱心されたか!」
「貴様、無礼であるぞ!」
とうとう賢義は立ち上がって、砂坂を指差した。
結局、賢義は砂坂に蟄居を命じて九弦城から退去させた。怒り狂いながらも賢義がその場で切腹を申しつけなかったのはわずかに残った理性がそれを押し留めたからだった。兎流との戦争になれば、いかに兵力の上では優勢であれど、兵を率いる者が必要だ。穂羽の七将のうち生きているのはもはや砂坂を残すのみである。
砂坂を蟄居させた影響で政務を行う人手が足りなくなった。仕方なく、賢義は謹慎中の宮上を復帰させて、引き続き家中の統制を強化するように命じた。
「このような仕事は、お前の得意とするところだろう」
賢義は皮肉のつもりで言ったが、宮上は相変わらずぴくりとも表情を動かさずに平伏して拝命した。
ところで、賢義は家中の者を疑っていたが、この時点で袮人への支持を明確にした者は少なかった。無論これは、正当性の上で言えば正式に家督を継いだ賢義の方に分があるということもあったが、最大勢力を持つ国衆である束塚氏が未だに穂羽宗家を支持していることが大きかった。
ところが、砂坂の蟄居と同じころ、その束塚氏より兎流の袮人宛に突然密書が届けられた。
袮人は急遽、虎姫を含む兎流の重鎮たちを集めて評定を開いた。
「して、密書にはなんと書いてあったんじゃ?」
一同が揃うやいなや、虎姫が待ちきれないとばかりに口を開いた。
袮人は黙って虎姫に密書を投げて寄越した。虎姫はそれを床に広げて読み始める。年老いた家臣が「姫様、みっとものうございます」と妙に常識的な小言を言った。
「……これは本当の話なんじゃろうか。罠ということは?」
「束塚十三の人となりを考えれば、それはないだろう」
密書は、袮人に助けを求めるものであった。束塚は穂羽への不義を疑われ、九弦城に置かれている娘の乙乃が処刑の危機にあるという。十三は賢義に何度も弁解の機会を求めたが、それも叶わず、もはや袮人に頼るしかない、ということであった。
「束塚殿は、私たちが乙乃を取り返すのと引き換えに、私たちの側についても良いと申し出ている」
「もし本当ならわしらにとっては美味い話じゃな。束塚がこちら側に来れば、様子見している国衆たちも動くじゃろ」
虎姫は呑気な調子で言った。しかしその隣にいた阿木楽は、渋い顔で唸った。
「……しかし、どうやって助けるのです。九弦城にいる娘を助け出すには、まずそのために穂羽の軍を突破せねばなりませぬ。それができるのであればとうの昔にやっています」
「難しいからこそ束塚殿は破格の条件を出してきたんだろう」
「しかし正面から九弦城を占拠するよりは娘ひとりを連れ出す方がまだ幾分か楽というものじゃ。悪くない話じゃないか」
とはいえ、それは「まったく不可能」だったものが「少しは可能性がある」に変わったという程度であって、実行が困難なことには変わりない。むしろ決戦中の事故に期待する方がまだ勝ちの目が高そうだ。
袮人がそのように言うと、虎姫は首を横に振った。
「この先も生きていくというのなら兄を倒したその先のことまで考えねばならぬ。志陽をどうやって治める。国衆たちはお主に従うか? 天作や三護とどうやって戦う? ということを考えれば、束塚を味方に引き入れるのは絶対に外せない条件じゃと思う」
そもそも私は兄と戦うと決めたわけではない、という言葉が喉から出かかったが、虎姫以外の家臣たちの目を気にして言わなかった。
「……しかし、下手に動けば藪蛇となって、穂羽の全面攻勢を誘うことになるのではないか。乙乃殿が処刑されるというのも、束塚殿が大げさに言っているだけかもしれない」
「ふむ。誰か、穂羽の様子を報告せよ」
「はっ」兎流の若衆のひとりが返事をした。「穂羽殿――失礼、賢義殿は砂坂酒子に無作法があったと蟄居を命じ、代わりに宮上昌盛の謹慎を解いて政務に復帰させております。宮上は賢義殿の特命を受けて、家中の統制強化を行っておりまして、すでにいくつかの国衆が領地没収と改易を受けています。束塚殿の件も宮上の差配ではないかと」
「砂坂殿は無事なのか?」
「処刑されたという話は聞いておりませぬ」
物騒なことを平気で言う。
「それは何より。それにしても……そうか、宮上殿が……」
袮人は兎流の家臣たちを前に腕を組んで押し黙った。
宮上が袮人たちを抹殺しようと画策したのは間違いない。問題は賢義の立場である。賢義が真っ先に宮上を蟄居させたということは、賢義は宮上の行為を承認しておらず、あくまで宮上の独断であるという、少なくとも建前はそうであるはずだ。しかし賢義が宮上を政務に復帰させたとなれば、それは賢義が宮上の行為、ひいては袮人の抹殺を追認したという事なのではないのか……。
賢義は未だに公式な声明を出していない。というか、出すとしたら袮人を追討すると決めたときだけだろう。「家臣の暴走によって大名の血族が暗殺されそうになり、しかもそれに失敗して逃げられました」とあっては賢義の権威は失墜する。もし賢義が袮人との和解を望んでいるにしても、もう少し穏当な着地を考えるはずだ。
宮上を政務に復帰させたのであれば袮人を追討するために布告のひとつも出してよいはずだがその気配はない。それとも、こちらが穂羽の出方を待っていて動かないことを見越して有利な状況を作ろうとしているのだろうか。穂羽との兵力差を考えれば、戦をせずに落着できる可能性がまだ残っている現在の状況を、あえて兎流の側から壊すことは考えにくいというのは道理だが――。
「袮人様、どうなさいますか?」
阿木楽が袮人の決断を催促した。
一方の虎姫は涼しい顔をして、評定の間に流れる沈黙を楽しんでいるように見えた。
やや間をおいてから、それでもまだ考えを続けながら、袮人はゆっくりと口を開いた。
「……軍は動かさない。今の時点で戦を起こすのは、大義の上でも兵力の上でも私たちが著しく不利だからだ」
「では見殺しにするということですね」
阿木楽が確認した。反射的に、袮人は否と答えてしまった。
「……見殺しにはしない」
「ではどうするのです」
「それは――」
「少数のみの部隊を編成して、密かに九弦城に忍び込んで乙乃を救出する、というのはどうじゃ?」虎姫が二人の間に割って入った。「兎流が動いたと気づかせなければ良いのじゃろう?」
「この時期に九弦城で何かあればわたしたちが疑われるに決まってるだろう」
「疑われるころにはわしらは乙乃を救出して束塚が味方についておる。それから疑う分には一向に構わんじゃろう」
「……しかし、万が一侵入に気づかれて、しかも乙乃殿の救出に失敗したら踏んだり蹴ったりだぞ。そうなれば束塚の支援なしに穂羽の全面攻勢をどうにかしなくちゃならなくなる」
「……ま、そこはわしを信じてもらうしかない」
「まさか、お前が行くつもりか?」
「仕方ないじゃろ。わしが一番腕が立つんじゃから」
当然、という顔で虎姫が胸を張った。
「では私も同行するということで良いですよね」阿木楽が周囲の家臣を見渡しながら言った。「この中なら姫に続いて腕が立つ」
「阿呆。わしが死んだら誰が兎流を率いるんじゃ」
「私では皆が着いてきませんよ」
「では皆が着いてくる者をお前が選べ。ともかく、お主は留守番じゃ」
阿木楽は気障ったらしく肩をすくめて引き下がった。
「待て待て」袮人は慌てて虎姫を遮った。「お前が参加するにしても、確かな勝算がないのであれば認めるわけにはいかない」
「確かな勝算などというものを待っていては、勝負なぞいつまで経ってもできはせん」
「しかしこれは自殺行為だ。九弦城の中を気づかれずに探すというのもそうだが、そもそもどうやって穂羽の領内に入る? 今は志陽全体がピリピリしているし、九弦城に近づくだけでもかなり危険だろう」
「行商人にでも化ければ良いじゃろ。いつもの手じゃ」
「そう簡単に行くか。素性の知れないよそ者が城下町に入れば真っ先に目を付けられるに決まってる」
「城下町に出入りしている本物の行商人に金を握らせて、わしらはそこに紛れ込む。誰か、そのような者に伝手はないか?」
虎姫が家臣たちの顔を見た。家臣たちの何人かがひそひそと話をし始めたが、しばらく待っていても「我こそは」という者は名乗り出なかった。
「行商人か……」
そう呟いたのは袮人だった。
「なんじゃ。お主には心当たりがあるのか」
「忘れているのかもしれないが、私は元々行商の身だよ」
どころか穂羽に出入りしている行商人はほとんどが袮人の顔見知りである。
「……心当たりはある。口が硬くて貸しのある奴を何人か」
「頼めそうか?」
「それでも釣りが返ってくるほどだよ」
「では、九弦城までの案内はそれで解決ということじゃな。あとは城の中じゃが、それは任せておれ。九弦城にいたころに城内の見取り図を作っておる」
虎姫はしれっと言った。その行為は叛意としか言いようのないものだったが、今さら言っても仕方がないので袮人は何も言わなかった。
代わりに、別のことを命令した。
「虎姫、その部隊に私も同行する」
「なんじゃと? 何を聞いておったんじゃ、わしらは物見遊山に行くのとは違うぞ」
「だからこそ、私も行く。九弦城では何が起きるか分からない。……いざとなれば直接兄上と交渉する」
「お主に万が一のことがあれば兎流はどうなる!」
「ついさっき、お前は『わしを信じろ』と言ったばかりじゃないか」
虎姫は、深い息を吐いた。
「……どうなっても知らんぞ」
と、諦めたように言う。さすが名将、見切りが異様に早かった。兎流の家臣たちのどよめきがにわかにうるさくなった。
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