第18話 穂羽の名に背いて
虎姫と袮人は全速力で馬を走らせると早々に城下町を抜けた。関所近くの宿場町で馬を売って金に換え、その金で人を雇い九弦城にいる虎姫の家臣に伝言を伝えさせた。
二人は行商人の夫婦になりすまして安宿で一晩を過ごした。翌日の昼には九弦城を抜け出してきた虎姫の家臣四名が宿に到着した。
袮人たちが借りた狭い部屋に六人の人間が肩を並べていた。
「他の者たちはどうした?」
「見張りを撒くのに、別の道から兎流の里に向かっております。大人数では目立ちますから」
「ちょっと待て」袮人が割り込んだ。「兎流の里に向かうのか?」
「今のところ誰が敵で誰が味方か分からぬ。安全な場所は兎流の里しかあるまい」
「兄上に会って事情を説明すれば――」
「じゃから! その兄上がお主を殺そうとしたんじゃろうが!」
何度も何度も繰り返した会話に、虎姫がとうとう癇癪を起こした。しかしそれでも、袮人はその言葉を受け容れられなかった。
「しかし……あの兄上が……私のことを殺すなんて……」
「街道のあちこちに見張りが立てられておるし、奴らは明らかにわしらを探しておる。お主の兄がこれにまったく関わってないと考えるのは少し楽天的すぎる」
幾分かトーンを落として、虎姫が諭すように言った。
「ともかく、わしはお主を見殺しにはできないし、わしにできることはお主を一番安全な場所に連れて行くことじゃ。その後のことは自由にしてくれて構わぬ。ここはまずわしに従って欲しい」
「……分かった」
「よし。ところで、城の動きはどうじゃった。兎流の里に出兵の気配はあるか?」
「軍には待機命令が出ておりましたが、すぐに出陣という雰囲気ではありませんでした。今はまだ、有事に備えて念のため、ということでしょう」
「城にいた者たちは無事脱出できたか?」
「この程度の包囲も抜けられぬ間抜けは兎流にはおりませぬ」
家臣の男は自信満々に答えて口元をつり上げた。頼もしい限りであるが、穂羽の兵士を間抜けと呼ばれたも同じで、袮人は内心複雑な気持ちになった。
「しかし九弦城から出た追っ手が迫ってきております。すぐにでもここを発たなければ危険です」
「ふむ……しかし主な街道は関所で封じられておるしのう。ここはやはり回り道をするしかあるまい」
「しかし遠回りをしていては追いつかれるのではないか?」
「わしが囮になる」
こともなげに虎姫が答えた。
「待て……そんなことはさせられない。元々お前は巻き込まれただけだ。私が捕まればそれで丸く収まる」
「わしも人を斬った。もはやお主とわしは一蓮托生じゃ。それに、わし一人なら捕まる前に逃げ切れる。わしとお主、両方が生き残る唯一の手じゃ。……お主ら、護衛を任せたぞ」
家臣たちが無言で頷く。彼女を引き留める者はいなかった。
「……必ず戻れよ」
「心配なのはお主じゃ。お主の足腰で兎流の山までたどり着けるかの」
カカカ、と虎姫は冗談めかして笑った。
宿で昼食を食べてから、袮人と兎流の護衛は街道を外れて山の中に消えた。虎姫は一人で街道に残り、茶屋で団子と茶を頼んでしばらくのんびりと時間を潰した。
「さて、そろそろ頃合いかの」
九弦城から来た追っ手は、そろそろこのあたりまで来ていることだろう。虎姫は大きく伸びをして、銭を置いて茶屋を出た。
街道を通って関所まで移動する。関所の前には通行人の行列ができていた。虎姫は行列を無視して門のある場所まで歩いた。
「止まれ! そこ、列に並べ!」
櫓の上にいた見張りのひとりが、虎姫に声をかけた。虎姫はそれを見上げると、笑って答えた。
「お主、わしが誰なのか知っておるのか?」
「知らぬ。どこの何様か知らぬが、身分の不確かな者はここを通せぬ。穂羽様からのお達しである」
「お主、わしが誰なのか本当に知らんのか?」
「知らん」
「わしは、虎姫であるぞ!」
叫ぶやいなや、虎姫はダッと駆けだして、門の脇にある森に飛び込んだ。すぐに関所が大騒ぎになり、鐘が鳴らされ、詰め所から槍を持った兵士がわらわらと出てきた。
虎姫はその様子を、森に身を隠して見ていた。
「さて、どうやって遊んでやるかの」
戦いを前に、虎姫の五感が研ぎ澄まされてゆく。
袮人たちは主要な街道を避けて移動し、一度戸賀国に入ってから志陽の反対側から兎流の山に入るという遠回りを経て、虎姫と別れてから七日後にやっと目的地に到着した。
「ここが兎流の里です」
と虎姫の家臣は袮人に語ったが、行けども行けども岩肌しか見えない。山道をいくつも曲がったところで、やっと目の前に開けた場所が現れて、そこには畑と茅葺き屋根の家が広がっていた。なるほど、こんな場所では道案内がなければたどり着くことは難しいだろう。
すでに連絡が行っていたらしく、袮人たちは詮索されることなくすんなりと迎え入れられた。そのまま、盆地の中心にある大きな屋敷に案内される。
「こちらが兎流の里の、いわば城のような場所です」
家臣が説明する。屋敷で袮人たちを出迎えた侍は、顔中に傷のある筋骨隆々の大男だった。
「あなたが穂羽様でいらっしゃいますね。長旅お疲れ様でした。こちらには温泉もありますから、まずはゆっくりと疲れを取っていただきたい」
「そんなことよりも、今すぐに兵を出して欲しい。どれくらい出せるか?」
大男は困惑したように、隣にいる虎姫の家臣たちを見た。
「それは、まあ……今日中に三百は集められますが」
「ではすぐに頼む。虎姫は私の囮になったんだ。すぐに救出に向かわないと」
袮人が早口でまくし立てると、大男はさらに困惑しておろおろとし始めた。
「どうした。何か問題でもあるのか」
「その……虎姫というのは……姫様のことでしょうか……」
「そう言っているだろうが! さっさと兵を集めよ!」
そのとき、屋敷の奥から浴衣を着た女が出てきた。
「なんじゃ、やっと着いたのか。遅かったの」
「と……虎姫……」
それは、金色の髪をほどいた虎姫の姿だった。頬は上気し髪を手ぬぐいで拭いている。どうやら風呂上がりのようだった。
「その……。姫様は、昨日の朝方に到着されまして、ずっとこちらで休んでいらっしゃいます」
申し訳なさそうな声で、大男は分かりきった説明をした。
袮人は体の汚れを落とし、少し休んでから、虎姫と兎流の里の者を集めた。里に匿ってもらう以上、自分の口から事情を説明せねばならないと思っていた。
自分が追われる身であることや、場合によっては穂羽がまたこの山に攻めてくるかもしれない、とも話した。
里の人間は良い顔をしないだろう、と袮人は思っていた。誰が好き好んでこんな厄介ごとに首を突っ込むか。
しかし、袮人が説明を終えた途端に、虎姫が大声で里の者たちに言い放った。
「というわけじゃ、諸君。また穂羽と戦えるぞ。この前の戦いの借りを返すときが来た!」
応!
という、里の者たちの地響きのような声が鳴り響いた。
それを見て、袮人はやっと理解できた。兎流の里が謀反を起こした理由は明白だった。彼らが穂羽の家臣であったことなど一度もないのだ。彼らはどこまでも兎流の民であり、戦争を日常に生きる傭兵集団なのである。
「……で、せっかく皆がやる気を出しておるのに、お主のその体たらくは何じゃ」
兎流の里に到着してから五日後。温泉上がりに畳の上で涼んでいる袮人に、虎姫が苛立ちを隠さずに言った。
袮人の隣に虎姫が腰を下ろす。午後の太陽はまだ高い。
「無駄飯喰らい」
虎姫が小声で毒づいたが、袮人には言い返す言葉もない。
袮人は未だに次の行動を決めあぐねていた。袮人が真っ先にやったことは、兎流の間者を使って穂羽の様子を探らせたことである。特に、軍に動員の命令が出ていないかを注意深く二重三重に探らせた。袮人は穂羽の軍事機密を知り尽くしている。穂羽がすぐに兎流に侵攻してくることはまずない、というのが袮人の結論だった。
それ以来、虎姫に周囲の警戒を任せたまま、袮人はずっと傍観を続けていた。
「ここにおる間は守ってもやれるが、しかしいつまでもこうして時を無駄に使い続けると、いくら何でも後がつらいぞ。孤立無援で戦い続けられるほどお主の兄も甘くはないじゃろう」
「うん……」
しかし袮人は未だに穂羽との関係修復の可能性を捨てきれずにいた。賢義は袮人が虎姫と一緒にいることは知っているはずだし、兎流の家臣たちは勝手に九弦城を退去して兎流に戻っている。それなのに兎流に代官のひとりも寄越さないのは、向こうもこちらの出方を慎重に待っているのではないか。つまりこれは決定的な対立を望んでいないという賢義のメッセージなのではないか。
下手に動けばそれが戦の引き金になる可能性もある。兎流の人間は戦をやる覚悟を見せてくれたが、だからといって戦を避けて穏便に済ませる可能性があるならそれを捨てるのは惜しい。
袮人が自分の頭のうちでぐるぐるとまとまらない思考を回していると、虎姫も何かを察したのか、呆れたようにため息をついて、それ以上の追求はしなかった。
「どうじゃ、将棋でも指すか。少しは気が紛れるぞ」
と、代わりにそんな殊勝なことを言い出した。
袮人が曖昧に頷くのを待たずに虎姫は部屋を出て行くと、少ししてから将棋盤を抱えて戻ってきた。
「お主、将棋は分かるか?」
「まあ、少しくらいなら」
「お主に先手を譲ろう。わしは将棋の方はからっきしじゃがな」
楽しそうに言いながら、虎姫は袮人の分まで駒を盤面に並べ始めた。
「父からは異国の遊びも教えてもらったのじゃが、もうあまり思い出せん。馬の形の駒を動かす遊びじゃったのだが。それが、将棋に似ておっての」
袮人が歩を前に出すと、虎姫も喋りながら歩を前に出す。
定石通り盤面を展開しながら、袮人は頭の中に志陽の地図を思い浮かべていた。
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