第16話 恐れ




 襖の向こうに気配がしたので袮人はにわかに緊張した。声がかけられることもなく急に襖が開けられた。そこに立っていたのが虎姫であるのを確認して力が抜けた。虎姫は無遠慮に部屋の中に入ってくると、自分の部屋のようにくつろいだ様子で腰を下ろした。

「主様、大室のことは上手くやったようじゃの」

「……あれは事故だ。私が殺したわけじゃない」

 袮人は腰を上げると、虎姫が開け放った襖を閉めた。

「ふふふ、そうじゃったの。分かっておる。そういうことになっておるんじゃろ?」

「あのなあ……」

「またまた謙遜を。ああも見事な殺し技、兎流の者でもそう簡単にはいかぬよ」

 大室は穂羽の七将と讃えられた重臣であり、家中には彼に目をかけられた者も多い。そういった者たちがいつ自分のところに報復にくるかもしれぬと、事件以来袮人は戦々恐々とした日々を過ごしていた。

「家中は主様の噂で持ちきりじゃぞ。下克上して家を乗っ取るというのは本気か?」

「そんなわけないだろうが」

「ふふふ、そういうことにしておくんじゃな。大丈夫、わかっておるぞ。蜂起するときはわしにも声をかけるんじゃぞ」

「分かってない……」

 虎姫はケタケタと笑ったが、袮人をからかっているのか、本気で袮人が謀反を起こすことを期待しているのか分からない。

 先日、穂羽家によって兎流氏の復興が認められた。虎姫は兎流の里を取り返した。今は賢義に従う地方領主という立場である。

「まあ主様がどのように弁解したところで信じぬ者は信じぬだろう」

「その主様というのをやめろ。今お前が仕えているのは兄上だ」

「大室の家臣なぞ、敵討ちだと息巻いておるそうじゃぞ」

「兄上が止めてくださる」

「その兄上だってお主が殺したと思っておるのではないか? もしお主が追われるようなことがあればわしが面倒を見てもいい。お主を家臣に欲しい」

「そして私を守るために穂羽と戦うというのか? そんな馬鹿な話があるか」

 袮人は本日何度目か分からないため息をついた。

 自分自身が潔白であることは誰よりも知っていたが、大室の死が事故死というには不自然であることは袮人も認めるところだった。馬術に長けていた大室が落馬などするだろうか。しかも、袮人が志陽を離れようとしたちょうどこの時期に。

 まるで遠ざかろうとしている袮人を、見えざる何者かの手が強引に引き寄せているかのような……。

「良いではないか。それほどお主の知略が高く評価されておるということだ。天作と三護を手玉に取ったお主の策略は見事じゃったぞ」

「あんなこと、やりたくてやったわけじゃない」

「凡庸な者ではやりたくてもやれないのさ。ふっふっふ。お主がわしを高く買ってくれておるのと同じくらいには、わしはお主を買っておるぞ。仕えるならお主のような主がいいとな」

「やめろ。そんなことを誰かに聞かれでもしたら――」

「いっそ噂を本当にしてしまうというのはどうじゃ? ……なんじゃその顔は。無論、冗談に決まっておろう。しかしいざというときは遠慮なくわしに頼ればよい」

 そのとき、襖の向こうで袮人を呼ぶ声が聞こえた。口を閉ざすように虎姫に仕草で示して誰何する。

「どなたですか?」

「砂坂です」

 袮人は襖を開けた。片膝をついて頭を垂れた砂坂がいた。

「顔をお上げください。いかがされましたか?」

「……袮人様のお知恵をお借りしたく」

「とりあえず中へ」

 砂坂を部屋に招き入れる。砂坂が虎姫の姿を見つけてぎょっとした。虎姫は禅僧のようにあぐらをかいた姿勢で、無言のまま片手を挙げて挨拶をした。

「それで、ご用向きは?」

「実はこのたび、亡くなられた大室殿に代わってお役目を承ることになりまして」

「なんと。それはめでたい――」

 言ってから、これは失言だったと袮人は気づいた。しかし砂坂は気にすることなく続ける。

「さしあたって大室殿が引き受けていた訴訟から手をつけようとしたのですが――」

「ちょ、ちょっと待っていただきたい。それは兄上に相談するのが筋なのでは?」

「その賢義様の裁定に不満の声が多いのです。……正直、困っております。賢義様は無視せよとおっしゃられておりますが……あまり無碍にするのも……」

「……分かりました。しかしあくまでこれは助言であるということを忘れずに」

 そう前置きして、袮人は砂坂から訴訟の詳細を聞き取り始めた。

 その様子を虎姫がニヤニヤしながら見ていた。袮人はもちろん虎姫の表情の意味に気づいていた。大室の後釜についたのが砂坂であることがますます袮人の疑いを濃くしているのである。

 砂坂自身はあくまで穂羽に忠義を尽くし公正に振る舞っているつもりだったが、彼女は穂羽家中においては袮人派の中核だと見なされていた。

「おやおや……懐かしい顔が」そうこうしているうちに、もうひとりの中核である諸井田がやってきた。「昔話でもしますかな」

「砂坂殿は政務についての話をしに来たのですよ」

「おや。それは失礼。暇な爺の話に付き合わせるのは酷でしたな」

 袮人が退いて以来、諸井田は閑職に飛ばされ暇な日々を過ごしていた。ときどき袮人のもとへ雑談をしに来るほどである。

「くっくっく……この様子では、嵐が来るのも遠くなさそうじゃ」

 特にやることもなさそうなくせに、虎姫はいつまでも袮人の部屋から動かなかった。




 賢義は評定の場で、家中の風向きが変わったのを肌で感じた。

 重臣たちが自分を見つめる視線。これまでの評定でも薄々と感じていたが、ここに来て閾値を越えた変化があった。それは憐憫か、侮蔑か、見限りか……。

 発言しているのは砂坂だった。大室の政務を引き継いだこの小娘は、滞っていた訴訟を手際よく処理していった。砂坂がことさら優秀な行政官であったこともあるだろう。しかし賢義は、砂坂の背後に袮人が動いていることを知っていた。

 重臣たちも、そのことを知っていた。だから、彼らが感嘆しているのは、砂坂の優秀さにではなく、ましてや賢義の決断にではなく――ここに姿のない、袮人の差配に対して、である。

 一鉄斎のこともあり、袮人には見張りを付けてあった。袮人が虎姫ら穂羽の家臣たちと頻繁に会っていることは掴んでいた。大室が主張していたような、袮人の謀反の証拠だとは思わなかったが。あくまでそれは、家臣たちが袮人を頼って集まっているにすぎない。

 賢義ではなく、袮人を頼って――。

 賢義は家督を継いでから家中の改革に手をつけた。それらは、ずっと昔、父と兄に何度も進言していたことだった。しかしそのたびに賢義の進言は退けられた。

 お前の言っていることは理想論だ――、床にばかりいるお前には現実が分からんのだ――、政はお前が思っているほど簡単には動かないのだ――。兄や父から散々聞かされた拒絶の言葉。

 賢義は自分の体が弱いことで兄たちに引け目を感じたことはなかった。戦場では大名の個人の武勇ではなく長としての差配が勝敗を分ける。平時では知恵によって民を治める。弓術や馬術に精を出す兄を横目で見ながら、賢義は兄弟の中で誰よりも勉学に励んだ。

 そしてとうとう、父も兄もみな死んだ。もはや自分のやりたいことを邪魔する者は誰もいない――!

 賢義の改革は、当初は順調だった。家臣たちは新しい当主を皆で支えようと団結していたから、賢義のやり方に異を唱える声は小さかった。

 賢義はそれまでの古いやり方を改めた。行政官の裁量と慣習によって政治を行うのではなく、大名に権力を集中させて、法度による統治を目指した。実際に賢義は、私腹を肥やした行政官を数多く追放することができた。

 賢義の理想とする清廉な政が現実のものになろうとしていた。

 しかし、そんなとき――。

 あの弟が、袮人がそれを邪魔したのだ。

 家臣たちは袮人の時代を懐かしがっている。どいつもこいつも自分のことばかりだ。穂羽のことを本当に思っているなら私の改革に協力するはずだ。袮人のようなその場しのぎではなく抜本的な変化が必要なのに、どうしてわたしの考えが分からないのだ、どうしてわたしのやり方の素晴らしさが理解できない、どうして、どうして、どうして――。

 「ずっと病に伏せっておれば良かったのに」という声が聞こえた。

 「あの弟君に兄を打倒する気概さえあれば」という声も聞こえた。

「あの……賢義様、どうなされましたか?」

 ふと顔を上げると、砂坂が不思議そうに賢義のことを見ていた。他の家臣たちも同様である。この者たちも内心では自分のことを疎ましく思っているに違いない。

 誰が裏切る。

 誰が謀反する。

 誰がわたしを殺そうとする。大室のように、わたしを事故に見せかけて殺すのか。そうすれば次の当主は袮人だ。

 その日の評定は早々に切り上げると、賢義は自室に下がって人を遠ざけた。しばらく一人で自問を繰り返していたところに、宮上昌盛が訪ねてきた。

「賢義様、ご内密のお話が――」

「すまないが、今は疲れている。後にできないか」

「火急の用にて」

「……分かった。聞こう」

「さきほど、天作の使者が参りましたのでその相手をしておりました」

「梶邦一鉄斎か……。それで、天作が何と?」

「大室殿の件、天作の耳にも入ったようです。袮人様が虎姫を使って大室殿を暗殺したという噂が流れていることも」

「くだらない中傷だ」

「たとえそうだとしても」宮上が語気を強めて言った。「そのような噂が流れること自体、賢義様が家中を統制できていないことのあらわれであると。であれば、天作は賢義様と袮人様、どちらと手を組むべきか今一度立ち止まって考える必要があると」

「馬鹿な。袮人と手を組むだと? それは袮人をそそのかして穂羽を乗っ取るということではないか! 天作はこの世の道理すら忘れたか!」

「これは私ではなく、一鉄斎の言ったことにございます」

「天作とは手切れになったと考えればよいのか」

「いえ、まだそこまでは……。天作は暗に、袮人様と虎姫を処分なさることを求めています」

「要求を飲めば手を組んでやるということか。どこまでも足下を見る……」

「天作は先の戦いで袮人様と虎姫にさんざん煮え湯を飲まされましたから、そうでもしなければ体面が保てぬということなのでしょう。……私は、悪くない提案と思いますが」

「……くどい! 袮人を天作に売るような真似はできぬ! もう下がれ!」

 賢義が怒鳴ると、宮上はぴくりとも顔を変えぬまま退室した。ひとりになってから、賢義は自分の言葉を何度も心の内で繰り返した。

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