第15話 亀裂の始まり


 袮人は出国の準備を進めていた。元々袮人の本分は行商人であり、たまたま志陽に立ち寄ったところ穂羽のごたごたに巻き込まれたに過ぎない。賢義に家督が戻った以上、いずれは行商の旅に戻るつもりでいたのだが、しかしその機会はさらに遠のくこととなった。

 雁門の一件を聞きつけた穂羽の家臣たちが、袮人に談判を持ち込み始めたのである。

 持ち込まれる相談は恩賞に関するものが多かった。天作との戦いの前後に袮人が約束していた恩賞のいくつかが、賢義に反故にされたのである。

 もちろん最初は「自分はすでに穂羽家の政に関わる立場ではない」と言ってその談判を断ろうとした。しかし袮人が穂羽の名の下に約束したことである以上、このまま踏み倒してしまっては穂羽の名を傷つけることになる。

 しぶしぶ賢義に取りなすが、そのたびに賢義から嫌みを言われることになる。穂羽の財政が苦しいのは袮人も十分理解している。それでも粘り強く交渉して、家臣たちと賢義の間になんとか妥協点を見つけるのだ。

 ――と、一息ついたと思えばまたすぐに次の相談が持ち込まれる。

 恩賞に関するもの以外にも、家督争いについての公正な裁定を求める相談もあった。賢義は国衆の家督争いに積極的に介入して穂羽の領内を安定させようとしていた。しかしそれゆえに国衆の中での軋轢も大きく、政争に敗れた者が袮人に助けを求めてきた。

 さらに、賢義は一連の戦いにおいて穂羽への協力を惜しんだ国衆たちへの粛清も行った。そういった国衆たちも、お家存続のために一縷の望みをかけて袮人に取りなしを頼んでくるのである。

 いずれの談判者たちも、袮人が一度断れば絶望的な表情を見せる。ある者は皮肉を漏らし、ある者は怒りを露わにし、ある者は泣きながら袮人の足下にすがりつく。

 さらに二度、三度と断るのだが、最後は結局袮人の方が折れて、

「……分かった。兄上に話してみます」

 と答えることになる。

 こんな調子で人の相談を引き受けてばかりいるのだから、袮人はいつまでたっても志陽を出発できずにいた。

 何件目かの相談を賢義に持ち込んだとき、賢義はうんざりした表情を隠さずに言った。

「袮人、お前は家臣たちに対して少し優しすぎる。お前は穂羽の人間だ。穂羽の存続を第一に考えねばならない立場だ」

「しかし、穂羽家の銭も兵も、みな人々から集めたものです。穂羽に従う者たちの支持を失っては穂羽は――」

「それが甘いと言うのだ」賢義は袮人の言葉を遮った。「彼らはみな自分のことしか考えておらん。穂羽が沈むとなれば我先へと逃げ出すだろう。穂羽の利益のことをわたしたちが考えなくてどうする」

「それは……そうですが……」

「私はね、袮人。父上の頃のように、もういちど穂羽をひとつにまとめ上げたいのだ。天作や三護と互角に戦うには、大名の意のもとにひとつとなって動く強力な国を作らなければならない」

 賢義は袮人ではなく、遠くを見つめてそう語った。

「しかし、今は父上が治めていたときとは状況が違います」畳に手を突いたまま、賢義の顔をしっかりと見つめて袮人は進言した。「家臣たちの心が離れれば、穂羽はあっという間に滅びます。……天作らとの戦いを通して私はそれを実感しました。穂羽は、彼らが命を預けるような存在であらねばならないのです」

 そのとき、賢義が視線を袮人に戻した。兄の顔に血が上る瞬間を確かに見た。

「――わきまえよ袮人! お前は何だ! まだ大名のつもりか!」

「し、失礼しました。お許しください、兄上」

「穂羽の家督はこのわたしだ。ここに残るつもりがないならあまり深入りするな。家臣たちのためにもならん」

「……承知しました」

 一旦、その場は引き下がった。

 賢義の屋敷を出てから、振り返る。前はここを訪ねるのがあんなに楽しみだったのに、今は訪ねるときよりも離れるときの方がほっとするのはどういうことだろうか。

 確かに、兄の言うことはもっともだった。商人風情が、生粋の大名である賢義に意見するなどおこがましい。ましてや、自分の正しささえ確信を持てないこの自分が。

「……兄上が間違っていたことなんて、これまでなかったじゃないか。考えすぎだよ」

 独り言はむなしく響いた。




 その日、天作から書状を携えた使者が来て、賢義への目通りを求めた。

 敵対する大国、天作からの使者である。賢義は一も二もなくそれを承諾し、使者を広間に通した。会談には、今や筆頭家臣となった大室と、新しく天作への取次となった宮上昌盛みやがみまさもりが同席した。

 その使者を見て、賢義はしばし言葉を失った。大室が腰を浮かしたのを片手で制する。

「梶邦一鉄斎……あなたが天作の……」

「賢義様、ご無沙汰しております。ご健勝で何よりです。本日は我が殿より書状を預かって参りました」

 梶邦は、かつて穂羽に仕えていたときと同じように、賢義に恭しく頭を垂れた。

 大室が梶邦から書状を受け取り、それを賢義に渡す。書状の中身に一通り目を通したが、形式張った割に中身のない挨拶の言葉だけが並んでいた。最後に、今後は穂羽とのやりとりは、この梶邦一鉄斎に任せるという一言と、天作龍頼の花押が書かれていた。

 書状自体に内容はなかったが、天作が穂羽との交渉担当を改めて用意したという事実そのものが、天作は穂羽との決定的な対立は望んでいないというメッセージだと解釈することができた。

「よく分かった。今は我らと天作の間にはいくつかの問題があるが、いずれ二つの国が手を取り合う時代もやってこよう。梶邦殿にはぜひそのためのお力添えを」

「微力ながらお手伝いさせていただきます」

 梶邦は涼しい顔で一礼する。それを見ていた大室の顔は今にも飛びかからんというばかりに真っ赤になっていた。宮上は不機嫌な仏頂面だったが、これはいつものことである。

「ところで」と、梶邦は世間話をするかのように話題を切り出した。「賢義様は色々と気苦労が多いことでしょう。特に弟君の件では……」

「……何か?」

「どうやらご存じないようで」

「何のことか?」

「いえ、ご存じないのであれば良いのです」

「袮人のことで何か?」

「お忘れください」

「一度聞いたことをそう簡単に忘れられるものではない」

「人の誹謗はしない主義でございます」

「ええいまどろっこしい!」大室が立ち上がった。「さっさと言わぬか、この裏切り者め!」

「裏切り者とは失敬な。勝昌様より所領を没収され、他にすべがなかったのです」

 梶邦はわざとらしく驚いた顔を作って見せた。

「大室、控えよ」

「……失礼」

「梶邦殿、言いかけたものは最後まで言っていただきたい」

「はい。袮人様が賢義様の代理として穂羽を仕切っていた折に、『我が』天作に対して袮人様より申し出があったのです」

「ほう。申し出とは?」

「……私が言ったということはぜひご内密に」

「分かったから、その先を」

「袮人様は我が天作に、謀反を起こすから手を組まないかと、密かに申し入れてきたのです」

 さすがにそれは、賢義も予想していないことだった。

「無論、龍頼様はそのような道理に反する申し入れは受け容れませんでした。……賢義様も、弟がそのような企みをしているとなれば、心安らかにはいられますまい」

「嘘を申すな!」

 大室がいきり立つ。しかし梶邦は賢義を見たまま、そちらには一瞥もくれなかった。

「……実は、龍頼様も心配しておられるのです。天作が同盟するは道理と、力の二つを備えた者でなければならぬと。賢義様には先代から志陽を受け継いだという道理がおられる。では力の方はいかばかりか……と。穂羽が安泰となれば、龍頼様も賢義様の話をそう無碍には扱わぬでしょうな。……と、要らぬ忠告でございましたな。ははははっ」

 わざとらしい笑い声が不気味に響いた。

 梶邦を帰してから、賢義は大室に当時のことを問いただした。

「私は天作との交渉については詳しくは聞かされておりませぬ……。しかしそういえば、袮人殿は天作との戦いの前に、一日中城を空けていたことがありました。戦のため、いずこかへ用があるとかで……」

「そのときに直接天作へ行って密談をしたということか? まさか、信じられぬ。袮人とは長い付き合いだが、家族を裏切るような男ではない」

「そうでしょうか」大室は声を低くした。「先ほどは裏切り者の戯れ言と思いましたが、よくよく考えてみればうなずけるところもあります。特にあの虎姫という女が気にかかります。あのような、穂羽に弓を引いた者に軍のすべてを任せるなど、尋常ではありませぬ。譜代の家臣では裏切らぬと踏んで自分の手駒になる者を穂羽に引き入れたのではありませぬか? まさにそれこそ袮人様の逆心の表れでは」

「虎姫の重用は軍事的な理由であると聞いているが」

「果たしてそうでしょうか。穂羽には私や砂坂殿や束塚殿もおりましょう、あのような小娘に頼るなど――」

「宮上はどう思う」

 大室を遮って、賢義はずっと黙っていた宮上に尋ねた。大室が虎姫に遺恨があるのは賢義も知っていた。宮上は慎重に言葉を選んで答える。

「袮人様に逆心がおありかどうか、それは分かりませぬ。しかし天作が暗に袮人様の件を持ち出してきたということは、たとえ無実であろうと何もせぬわけにはいかぬでしょう」

「お前は無実の弟を処罰せよと言うのか」

 驚いて聞き返すと、宮上は冷酷に答えた。

「たとえ賢義様が袮人様の潔白を確信なされても、それでは天作は納得しないでしょう。穂羽の未来を、袮人様おひとりのお命には代えられませぬ」

「……もういい。分かった。いずれにせよ、袮人を罰しても天作が戦を仕掛けてこない保証は何もない。この件はこれまでとする」

「承知いたしました」

 特にこだわることなく賢義の決定を受け容れた宮上に対して、大室はなおも袮人への処罰を主張した。

「賢義様! 袮人様をこのまま野放しになさるのは危険です! 聞けば、袮人様は私的な知人の訴訟を特別に賢義様に仲介されているとか。これは穂羽当主の威信を大きく傷つける行為ですぞ!」

「……その点は袮人にも言ってある。お前が心配するようなことはない」

「しかし!」

「袮人はもはや政務から退いた、ただのわたしの弟でしかない。弟に叛意があったところで、わたし抜きに何ができるか。袮人のことを気にするあまり、わたしたちが浮き足立てば、それこそ天作の思う壺……そうではないか?」

「…………大変失礼しました」

 大室は頭を下げたが、本心から納得したようには到底見えない。

 このままでは大室が暴発するのではないか? 賢義がそう思うのも無理からぬことだった。




 その日が皇歴一二四〇年十月三日であったことは、様々な史料によって確実視されている。

 賢義の使いが袮人のもとにやってきて、袮人は昼過ぎに賢義の屋敷に呼び出された。

 賢義の待つ座敷へ入り、袮人があえて丁寧な挨拶の言葉を述べると、賢義はそれを鬱陶しそうに片手で遮った。

「それで……あの……何のご用ですか? 私に何か落ち度が?」

「そう警戒しなくてもいい」賢義は笑って答えたが、そこから次の問いまでしばらく間があった。「……袮人は、大室のことを、どう思う?」

「どう、とは? あの、勇猛で、武勇に優れた武士もののふであると思います」

「不仲なのか?」

 聞きたかったのはそのことか、と袮人は腹落ちした。

「不仲というわけでは……。意見が食い違うこともありましたが、大室様も穂羽のためを思ってのことです」

「お前はそう思っているかもしれないが、大室の方はどうかな」

「……大室様が何か?」

「なに、大した話ではない。大室は、袮人のことを誤解しているんだ」

「……事情はよく分かりませんが、そう言っていただけることに感謝します」

「しかし誤解とはいえ、それが何かの火種になることがある」

「はあ……」

「大室は傷がまだ痛むそうだ。そこでわたしは大室に湯治を命じた。卯立(うだち)山の温泉は傷によく効くというし」

「それは良いことだと思います」

「袮人も大室の湯治に同行せよ」

「は? ……しかし、私は怪我などしておりませんが」

「話を聞いていなかったのか。お前と大室がゆっくり話す機会を作ろうということだ。二人で裸になって同じ湯に浸かれば、互いの誤解も解けよう」

「そう……ですか」

 袮人はどのような表情を作っていいのか分からなくなった。結局、愛想笑いを浮かべるしかなかった。

「それは良いお考えだと思います」

 賢義によれば、大室は明日には政務を離れて湯治に向かうということだった。おまけに、細かい話は大室と直接するように、と丸投げされてしまった。

 命じられた以上他に仕様もないと、袮人はすぐに大室の部屋を訪ねた。

「あの、大室様、お話が――」

 大室は袮人の方を見た途端、不機嫌な表情を隠そうともしなかった。

「まったく、賢義様にも困ったものだ」いきなり憤慨し始めた。「今はやることが山のようにあるというのに、呑気に湯治などしていられるか」

「しかし、こういうときだからこそ、兄上は大室様のお体を気遣って――」

「そんなことは分かっておる!」

 分かっているならこんなことを言わせるな、と言いたくなるのを我慢した。

「そもそも、湯治に行くにしても、なぜ袮人殿が同行なさるのか」

「兄上からは大室様が不便に思うことのないように計らえと言われております」

「わしに子守など必要ないわ!」

「しかし兄上のご命令ですぞ!」

 つられて袮人の方も大声になった。

「……ふん。明日からここを空けるので今日は政務で忙しいのです。旅の支度もまだできそうにありませぬ。わしは明日の朝も仕事があるので、先に一人で麓の宿場で待っていていただきたい。馬を飛ばして昼までには追いつきますので」

「……分かりました。明日、お待ちしております」

 袮人は一礼してから、さっさと大室の前から立ち去った。背後で「まったく……この忙しいときに……」というぼやきが聞こえた。

 翌朝、袮人は徒歩で山の麓へ向かい、そこにあった宿場街で茶を飲みながら昼が来るの待っていた。しかし日が高くなっても大室は一向にやってこない。

 ははあ、政務が思ったよりも長引いているのだな、と思って気長に待っていたのだが、とうとう日暮れになっても大室の姿は現れなかった。

 これはひょっとして約束をすっぽかされたか、あるいは袮人に気づかずに一人で先に温泉に向かったのか……。

 どちらなのか判断がつかず、仕方なく袮人は宿に伝言を残して一人山中の温泉へと向かった。

 温泉に着いたころには夜もすっかり更けていた。

 温泉宿に大室の姿を探したがそこにも見当たらない。今から下山するわけにもいかないので、不安を覚えつつも袮人は一人で温泉に入って一泊した。

 翌日、とうとう大室と会えず仕舞いのまま、下山して九弦城に戻った。

 城が何やら騒々しい雰囲気となっていたので、通りかかった者を捕まえて事情を聞いた。そこで袮人は、大室が待ち合わせの場所に現れなかった理由を知った。

 大室慶長は昨日のうちに落馬によって死亡したとのことであった。

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