第三部

第14話 復帰



 皇歴一二四〇年九月の終わりに、穂羽賢義は政務に復帰したことを内外に宣言した。

 賢義の復帰に際して、九弦城の大広間に家臣たちが集められた。大広間に入りきらない家臣が、廊下や庭にも溢れていた。奥から賢義が現れると一同が平伏する。袮人もその家臣の列の中にあって、賢義の復帰を見届けた。

「袮人……苦しい状況の中で、よく穂羽家を守ってくれた。穂羽家すべてを代表して礼を言う」

「……もったいないお言葉です」

「今日からわたしは政務に復帰するが、しばらくは志陽に残ってわたしの力になって欲しい。どうだ?」

「私ごときで力になれるのであれば喜んで」

 袮人は、あくまで家臣として賢義の要請に応えた。

 この日の評定からしばらく、志陽の国衆たちや近隣大名の使者の訪問が相次ぎ、賢義はしばらくその対応に追われていた。もちろん、現在交戦中の天作や三護からは何もなかったが。

 賢義が政務に手を付け始めたのは九月も半ばにさしかかってからだった。手始めに賢義は領内で大規模な検地を実施した。

 検地とは、領内の田畑の面積と収穫量を調査することである。課税額や賦役が土地の収穫量によって決められるため、検地とはそれらの量を現実に即したものに更新するために行われる。しかし田畑面積や収穫量は、普通は開墾や技術向上によって年々増えていくものであるため、検地を行うと、たとえ税率が同じでも、課税額は以前よりも増えるのが一般的であった。

 つまり検地を行うということは課税額を増やすということである。

 賢義は度重なる戦費によって破綻寸前だった穂羽家の財政を立て直すことを最優先に考えていた。

 また、天作との関係を修復するための交渉も始めた。深見の反乱はすぐに鎮圧されたものの領内の情勢は未だに不安定で、天作は軽々に軍を国内から動かせる状況になかった。

 軍を動かせない今なら天作も和睦にも応じると賢義は考えていたのだが、しかし天作は和睦の条件として穂羽が天作に臣従することを譲らず、交渉は進展せずに頓挫した。その間にも天作は三護や砺岐との結びつきを強化し、穂羽包囲網を日に日に強固なものにしていた。




 袮人は数日をかけて賢義に引き継ぎを済ませたが、それから賢義に何かの仕事を命じられることはなかった。袮人は元当主代理で現当主の血縁でありながら、立場としては穂羽家の外側に置かれるという、中途半端な位置づけのまま九弦城に留まり続けた。

 日がな一日やることもないので、袮人に宛がわれた狭い部屋で孤独に物書きをして時間を潰していた。

「袮人様、少しよろしいでしょうか」

 役目を退いてから、袮人の元を客が尋ねてくるのは珍しかった。やって来たのは、かつて袮人の右筆を努めていた西宿天恒にしやどあまつねだった。

「これは西宿殿。お久しぶりです」

「袮人様は……退屈なさっているようですね」

「良いことです。本来、私のような者に穂羽の命運を賭けるようなことがあってはならない。……それで、突然どうしたんです? 西宿殿は今はお忙しいのでは?」

 何せ穂羽家は連戦続きで外交も内政もガタガタだ。この時期、右筆の仕事がなくなることはないだろう。

 しかし西宿は嘆くように首を横に振った。

「私はもはや右筆ではありません」

「え。では、今は何のお役目を?」

「今は何も。無役です。袮人様と同じく、毎日暇をもてあましております」

 冗談めかして答えたが、袮人は混乱していた。西宿天恒は袮人が雇った人間だが、右筆の仕事は申し分なくこなしてくれた。そのことは賢義にも伝えてあるはずなのだが。

 もっとも、袮人とは違って賢義には賢義の家臣団がある。そちらを優先した人事と考えれば仕方がないという気もしてきた。

 賢義の人事に思いを巡らせていると、西宿が手を突いて頭を下げた。

「ところで、本日は袮人様に折り入ってお願いがございます」

「何でしょうか。と言ってももう私には何の権限もありませんが……」

「袮人様に会っていただきたい者がおるのです」

 西宿が廊下に声をかけると、痩せぎすの気弱そうな顔の男が入ってきた。恐れるように袮人を上目遣いに見ながら深く頭を下げる。

 男は雁門頼長かりかどよりながと名乗った。袮人は雁門という名前に心当たりがあった。雁門は穂羽に従う小さな国衆であり、かつて雁門家の家督争いを袮人が調停したことがあった。

 頼長の父は勝昌の出兵に参加して戦死した。その後、天作の侵攻が目前に迫る中で、頼長と叔父の辰頼が家督を争って家中が分裂したため、袮人が間に入り、頼長が家督を継ぐということで落着となったはずであった。叔父の辰頼は目付役として政務に関わるように下知を下していた。

 ところがここに至って、辰頼は賢義と結託して頼長を隠居に追い込んだ。戦場で頼長に不調法がありその責任を取るという形であった。

「待て、私はそのような話は聞いてないぞ。一体何をした?」

「何もしておりませぬ! これは、何かの間違いなのです」

 頼長は甲高い声で訴えた。雁門頼長は天作との激戦を生き残り最後まで穂羽軍を支えた武士のひとりである。褒美を与えこそすれ、証拠もなく無理やり家督を奪うなどということがあって良いはずもない。

「それに……袮人様がくださった加増の話も、このたびの一件でなかったことにされてしまいました」

「なるほど。それは道理に合わない。……つまり、私にそのことを兄上に掛け合って欲しいということだな?」

 袮人の言葉に、頼長と西宿が深く頭を下げた。

「分かった。……ごほん。分かりました。これは私が蒔いた種です。本来は私のような者が出しゃばるべきではありませんが、芽が出るまでは責任を持って面倒を見ましょう。この一件、私に預けていただけますか?」

「ぜひ……ぜひとも、袮人様にはご寛大な処置をお願い申しまする!」

「最後に決めるのは兄上です。誤解なさらぬよう」

 この時点で袮人は、何かの行き違いだろうと軽く考えていた。賢義と話せば、自分と賢義のどちらも納得できる結論があるはずだと無邪気に信じていた。




 さっそく袮人は、賢義と話そうと兄の姿を探して九弦城の中を歩き回った。しかし館にも大広間にも見つからず途方に暮れていると、廊下で家臣を引き連れて歩いている大室慶長と出くわした。

「袮人殿、ここで何をしておられる。あまり御殿の中をうろつかないでいただきたい」

「兄上を探しています。どこにおられるかご存じありませんか」

「御用向きは私が伺います」

「いえ、直接お話ししたく存じます」

「賢義様はご多忙ゆえ私が」

「どこにいるか教えていただければ――」

「袮人殿はすでに政から退いた身。いつまでも大名気分では困りますな」

 大室が袮人を得意げに見下ろした。

 賢義の人事により、大室慶長は砂坂を退けて軍役衆の奉行となっていた。袮人が軍役衆奉行として砂坂を用いたのは砺岐衆との戦いのときに大室が怪我で参加できなかったからだ。それ以来、砂坂を奉行から外す理由もなかったのでそのままにしていたが、本来であれば年功序列で大室が奉行になっていたはずだ。

 つまり賢義の人事は本来のあるべき状態に戻しただけだと言えるが……。

「それで、一体どんなご用件ですかな?」

 大室のサディスティックな表情を見る限り、賢義に用件を取り次いでくれそうには見えない。

 仕方なく袮人は大室には何も頼まずにその場は退散した。

 あまり気は進まなかったが、束塚乙乃に頼んで、父の十三経由で賢義に面会を申し込むことを考えた。

 乙乃は城内にある屋敷に住まわされていた。その屋敷には束塚氏だけでなく、穂羽に従属する他の国衆たちの身内も住まわされて不自由のない生活を送っていた。

 屋敷を訪ねると、袮人を見つけた乙乃は、まるで犬が飼い主に飛びつくように袮人の前に飛び出した。

「袮人様! 袮人様の方からこちらにいらっしゃるなんて珍しい。あ、でも乙乃は嬉しいです! どうなさったんですか? 所帯を持ちたくなりましたか?」

「乙乃様にお願いがあって参りました」

「分かりました。結納はいつにしますか?」

「父上の十三殿に話を通して欲しいのです」

「父もきっと喜びます」

「実は兄上と話したいことがあるのですが、なかなかそれが叶わず、十三殿に後押しいただければと」

「ふむふむ。つまり、袮人様は兄上様から疎んじられているので父に間を取り持って欲しいと」

「別に疎んじられてるわけでは……」

「お安いご用です! あんな父で良ければ好きに使ってください! 一緒に乗り越えていきましょうね!」

 乙乃は袮人の手を取って顔をぐいと近づけた。袮人がたまらずに目をそらすも、乙乃は楽しそうに笑って手を離さなかった。

 とにかく、乙乃の後押しによって、翌日の午後には賢義の使いの小姓が袮人を訪ねてきて、賢義の屋敷に来るように伝えられた。

 畳の部屋で、賢義と二人きりだった。賢義は多忙を極めているはずだが、最後に見たときよりもずいぶんと顔色が良くなったように見えた。

「袮人、色々手間をかけさせて悪かったね。わたしが忙しいからと家臣たちが余計な気を回したんだよ。次からはちゃんとわたしに取り次ぐように大室にも言っておく」

「滅相もございません。それより兄上、お体の具合が良さそうで何よりです」

「ああ。さすがに朝から晩まで役目が続くと少し堪えるが、病で動けないよりはずっと良い。最近は弓をまたやり始めたんだよ。病で鈍った体を鍛え直さないとね。ところで」

 世間話も早々に、賢義が袮人に本題を促した。

 袮人は雁門頼長の事情を説明した。もちろん、頼長のことは説明するまでもなく賢義も承知していることである。じれた賢義が袮人に先を促す。

「頼長殿に対する仕打ちは、穂羽に命を預けてくれた家臣に対してずいぶんと理不尽で、公正さを欠くのではないかと思います。今の穂羽には家臣たちの協力が必要です。したがって、家臣たちの心証を損ねるような裁定はどうかお考え直しいただきたいのです」

「袮人が、その雁門に肩入れするのは、一体どういう事情があるのかな?」

「何もございません。私はただ、物事の道理を申し上げているだけです」

 賢義の目をまっすぐに見つめて答えた。賢義は腕を組み、居心地が悪そうに唸る。

「……分かった」

 やっと賢義が頷いたので、袮人は胸をなで下ろした。

「かたじけなく存じます」

「しかしもとはと言えばお前が悪いのだぞ、袮人」と、賢義はふてくされたように続ける。「兵と銭が必要なのは分かるが、だからと言ってあちこちで勝手な約束をされては困る。雁門に対しても、兵を出す引き替えに加増するという証文を出しただろう」

「それは……天作と戦うために少しでも多くの兵士が必要だったので……」

「それで天作を退けたところで穂羽が借金で滅べば元も子もあるまい。お前は戦場のことばかり見て帳面の方はからっきしだ。金をばらまいて兵を集めるのは赤子にもできる、そこをばらまかずに集めるのが大名というものだ」

「すみません。考えが至りませんでした……」

「今回のことも、少しでも穂羽の借金を減らすためには仕方なかったことなんだ。……とはいえ、お前の言う通り、あまり強引なことをしては家臣たちの反感を買うというのももっともな話。雁門の件は考え直す。それでよいな?」

「寛大なご処置、感謝いたします」

 袮人は恐縮して、手を突いて頭を下げた。

 まさか、賢義が袮人をそのように評価しているとは思いもしなかった。賢義に直接的に非難されたのはこれが初めてだった。上目で兄の表情を伺うと、言い過ぎたと思ったのか、ばつの悪そうな顔でこちらを見ていた。


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