作者からの注釈
穂羽袮人といえば講談や軍記物では謀略家として描かれることが多い。中でも有名なのが、作中でも描かれた「加倉の戦い」における天作との諜報戦であろう。
この時期に穂羽袮人と天作が接触したこと、それによって天作が穂羽への侵攻を延期したことは事実であると考えられている。
しかし袮人が龍頼を騙したというのは結果としてそうなっただけあっただけで、実のところ袮人は本気で謀反を起こすつもりだったのが、失敗してなし崩し的に天作と戦うことになっただけであるという説もある。この説の根拠となるのが、袮人の側近衆と譜代家臣の間での政治闘争である。この、側近衆の代表格が諸井田春治であった。
諸井田ら側近衆は袮人を後ろ盾に家中で大きな力を持つようになっていたが、彼らにとっての最大の危惧は、袮人はあくまで賢義の代理人であって、賢義が復権すれば袮人という権力基盤を失うことであった。ただ、このあたりの事情は決定的な証拠がないため、未だに想像の域を超えるものではない。
作中では国衆として、束塚、大室、鎌坪の名前が出た。この中では束塚だけが特殊な位置付けで、国衆でありながらもこの頃からは穂羽家の重臣たちと同列の扱いがされているのが書状の書式から読み取れる(「大月家所蔵文書」『戦国遺文志陽穂羽氏編』二五五号)。以前から束塚は最大勢力の国衆であったが、穂羽勝昌の戦死後に国内が動揺する中にあっていち早く穂羽賢義支持を表明したことで家中での発言力はますます大きくなった。というよりも、他の国衆が穂羽家から距離を置いたので、相対的に穂羽家の束塚氏への依存度が大きくなった、と評価すべきだろうか。この時点では大名の代理人でしかない袮人がそれなりに国政を行えたのは、束塚氏の支援によるものが大きかった。
余談であるが、筆頭国衆である束塚が「大物崩れ」の戦に参加せず戦禍を逃れたことから「勝昌が戦死したのは束塚氏の陰謀である」という俗説があるが、これは誤りである。戦の前、勝昌は息子の成親に送った書状の中で束塚氏について触れており「束塚より、家中に不安があるためこのたびの出陣は見合わせたいという申し出があったため、兎流との戦で功績を立てたことを考慮して参戦は免除した」、という旨のことが書かれている(「大月家所蔵文書」『戦国遺文志陽穂羽氏編』二三一号)。どうもこの時期、束塚氏の家中でお家騒動があったようで、これは束塚の叔父である清政の隠居によって戦に発展することなく決着した。
逆に、大物崩れの勝利者である三護氏は、穂羽に勝ったことで大きな利益を得たかというと実はそうではない。そもそも穂羽と三護の戦争自体が穂羽から仕掛けたものであり、三護はこの時代、砺岐方面は「放置」が基本的な外交方針であった。
この時点の三護は、砺岐を穂羽や天作に対する緩衝地帯と考えている節があり、実際に砺岐は穂羽に攻め込もうと再三に渡り三護に援軍の要請をしているが、三護はそれを何だかんだと理由をつけて断っている。
天作との同盟についても、天作龍頼からの提案に対して三護がさんざん条件を積み上げた挙句に天作が折れたことで結ばれたというのが実態である。天作にとって三護は対穂羽包囲網を形成する上では欠かせぬ相手であったが、三護は厄介な志陽の情勢に巻き込まれるのを鬱陶しいとさえ思っていたのではないだろうか。
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