第13話 忠義



 穂羽軍は次の行動の前に回復の時間を必要とした。虎姫は強行軍の天作本隊が回復する前に叩いておきたかったが、穂羽軍の方も連戦による兵士の疲弊が大きく速攻は断念せざるを得なかった。

 明けて八月二十九日、兎流衆の偵察によって天作本隊の位置が判明し、穂羽軍は移動を開始した。天作軍は志陽に入った後、開けた場所に陣を構えてその場を動かずにいた。

 朝のうちに穂羽軍は天作軍の陣を目視できる距離に到達した。平原に陣を構えた天作に対して、そこから五百メートルほど離れた森の中で、穂羽軍は行軍を停止した。

 天作の家紋の旗を立てた軍団が、平原の端から端まで伸びている。ところどころで白い煙が登っているのは炊き出しだろうか。向こうもこちらの存在に気づいたようで、怒声と共に槍を構えた足軽たちが右へ左へ走っていくのが見えた。

 虎姫が木の上から天作の布陣を見ていると、永玄が音もなく木のそばにやってきた。

「どうじゃった?」

「敵の数は一万ほど……後から合流する隊も合わせればさらに二千ほど増えるかと」

「敵の布陣は分かったか? 総大将の居場所は?」

「無論にございます」

 虎姫と一緒に木に登っていた阿木楽が、望遠鏡を覗きながら言葉を漏らす。

「一万ですか……。幅もあれば厚みもある。あれでは回り込むことも難しい。撤退しましょう。あれは突破できません」

「撤退か……。阿木楽よ、わしにもそれを貸してくれ」

 阿木楽が木の上の虎姫に望遠鏡を投げた。

「勝機があるとすれば敵の本陣をまっすぐに突き、総大将を殺すか、せめて撤退させるしかない。が、あまりに数が違う、もはや戦術でどうこうできる状況ではありません。完璧な奇襲ができたとしても、敵の本陣にたどり着く前に取り囲まれて殲滅させられる。穂羽の命運もここまでです。私たちは手を引きましょう」

「……姫様?」

 永玄が怪訝に呼びかけた。虎姫は望遠鏡を覗き込んだまま沈黙していた。やがて彼女の口から出てきたものは、声ではなく笑い声だった。

「くふ……くふふ……どこまで見ても敵だらけじゃ……どこまで駆けても敵がおる……くふ……くふふ……あれだけいれば、どれだけ斬ってもなくならない……ふふ……ふふふ……」

 阿木楽も永玄も、しばらく虎姫に声をかけられなかった。

 やがて虎姫は望遠鏡から目を離した。阿木楽に投げ返す。阿木楽は危うく望遠鏡を取り損ねるところだった。

「決めたぞ。撤退はせぬ。今から敵の総大将目がけて突撃する」

「姫様!」

「敵もまさかわしらが正面から突撃するとは思うておらぬ。ここから敵の顔を覗いてみろ、どいつも緩みきった顔だ。くふふふ、わしらの恐ろしさを見せてやろうではないか。わしらの槍で、盾で、雄叫びで、奴らの目を覚ましてやろうではないか」

「無謀です!」

「臆病風に吹かれたか、阿木楽! お主が行かずともわしは行くぞ。くふふ、せっかくたくさん戦えるのにお主は仲間はずれじゃ。お主には一人も分けてやらぬぞ、みんなわしが殺す! わしの獲物じゃ! ふふふふ!」

「姫様、どうか落ち着いて」

「わしは落ち着いておる!」虎姫は笑顔で答えた。「昂ぶっておるだけじゃ。喜んでおるだけじゃ。おぬしらだけでなく、兎流衆全員に問うてこい。わしと共に死ぬか、一人で生きるか!」

 虎姫の決断は、兎流衆だけでなく、やがて穂羽軍全体に伝えられた。

「そんな馬鹿な!」

 というのが、大方の武将の反応であった。

 袮人は急遽、大将たちを集めて軍議を開いた。なるべく中立でいようとした袮人を除いて、虎姫以外は全員が突撃に反対だった。

「無謀すぎます!」これまで虎姫との直接的な対立を避けてきた砂坂でさえ声を荒げた。「貴様、ここで穂羽を終わらせるつもりか!」

「ではここで戦わなかったとして、穂羽はいつまで続く? 明日か? 来月か? 来年か? ここで戦わずにいつ戦うつもりじゃ?」

「九弦城に戻り籠城するというのはどうですか?」

 鎌坪の提案を虎姫は一蹴した。

「それでひと月やふた月持ったところでどうなるんじゃ。餓死者が出るまで戦って、最後は降伏した後に首を刎ねられるだけじゃ」

 虎姫は立ち上がると、一堂の真ん中に出て、周囲の家臣たちを見渡しながら訴えた。

「お主ら、よく考えよ。時間が流れてゆくのは止められぬ。過去には戻れぬ。敵は刻々と有利を重ねておる。今行かねば、明日は今よりも勝てぬ戦いをすることになるぞ。……今日の夜まで生きていたいだけならば、たしかに戦う必要はあるまい。しかし穂羽の名を永遠に残したいというのであれば、今戦うしかない。この戦いに穂羽のすべてを賭けよ!」

 虎姫の熱の籠もった言葉を、袮人は冷めた頭で咀嚼していた。軍略の素人から見ても虎姫の作戦は無謀に思えた。

 とはいえ、袮人には他に有効な策は思いつかないし、あの大軍を前にして、救援のない籠城をしようとは思わなかった。九弦城に敵が到達した時点で穂羽家の威信は地に落ち、今まで穂羽家に力を貸してくれていた諸将も穂羽を見限るだろう。穂羽にはもはや反撃の機会を待つだけの体力も残されていないのだ。

 やがて虎姫と家臣たちの議論は空転し始めた。虎姫の策が無謀であることは分かっていても、家臣たちは天作に勝つための有効な代案を出せないのだ。最終的に袮人は軍議を中断し、虎姫に作戦を実行する許可を出した。

 大将たちがそれぞれの部隊に戻っていく中、虎姫が袮人のところに寄ってきた。

「すまぬな。もっと良い手があれば良いのだが」

「これが今できるもっとも『良い手』なのだから仕方ない。……それにしても、今日のお前は変だ」

「そうか? わしはいつも通りじゃよ。普段は猫を被っていただけじゃよ」

 虎姫はニッと笑い、拳を高く挙げて袮人と別れた。

 天作軍の朝食が終わるより早く、穂羽軍は縦長の鋒矢ほうし陣形を作って突撃を決行した。天作軍は穂羽の方から戦端を開くことは想定していなかったのか、突撃する穂羽軍の叫び声は彼らをにわかに混乱させた。

 このときの穂羽軍の勢いは、後の天作軍の言葉を借りるならば「熱病に冒されたかのような」、理外の勢いがあった。

 虎姫率いる兎流の部隊は穂羽軍の最前列にあって敵中に切り込んだ。

「進め! 進め! 進め! 存分に戦え存分に殺せ存分に打ち砕け!」

 檄を飛ばしながら、そう命じる虎姫自身が誰よりも先に進み、多くの敵を殺してゆく。

 兎流衆の中にあって虎姫はひときわ小柄だった。敵の間に素早く潜り込むと、目で捉えるのが困難な速度で槍を振るい、喉を、足を、手を、脇を、目を、最短かつ効率的に破壊してゆく。数で圧倒的に勝る天作軍が、虎姫一人をどうしても止められない。

 虎姫はかつてない高揚感に胸を躍らせていた。血の匂いに酔っていた。未だに自分の限界は見えていない。どこまでも進めそうな気がした。いつまでも戦っていられる気がした。

 もっと速く。もっと速く。もっと速く。もっと――。

 しかし後に続く兎流衆は、虎姫の高揚感とはほど遠い、死にものぐるいの進軍を続けていた。いくら虎姫が暴れたとはいえ敵の陣が深すぎる。百戦錬磨の兎流の兵たちは、どこまで進んでもまったく立ち止まる気配のない虎姫の背中を、絶望的な気持ちで追いかけた。

 岩のように強固な敵の陣に、虎姫が穴を穿ち、ひびを作る。その小さなひびが塞がる前に後続の部隊が体をねじ込んでゆく。

 しかしどれだけ虎姫が傑出した戦士であろうと、穂羽軍の攻勢は限界に達していた。

 天作軍の反撃によって、とうとう穂羽軍が前後で二つに寸断された。

「姫様! 後方と寸断されました! ここまでです! これ以上進めば敵中に孤立します!」

 阿木楽が叫ぶ。ひょっとすると、彼女に自分たちの声は届かないかもしれないと思った。数百、数千の兵士が止められなかった虎姫を、自分の言葉ひとつで止められるとは思わなかった。

 しかし意外なことに、虎姫は振り返って阿木楽の方を見た。

「――引き返す! 背後の敵を突破して味方と合流する!」

 虎姫の黒衣は返り血で、雨に濡れたように彼女の体に張り付いていた。

 結論からいえば天作軍は撤退する穂羽軍を取り逃がした。すでに穂羽軍には包囲を突破する余力はほとんどなかったが、本陣付近まで攻め込まれた天作軍は敵の包囲や追撃よりも総大将の周囲を固めることを優先したのである。

 穂羽軍は森に逃げ込み、追撃を警戒してさらに移動した。

 落ち着いたところで虎姫は大将たちの所在を確認した。

「皆、無事か」

「生きてはいますが」砂坂がため息交じりに答える。「わたしの部隊は半数を失いました」

「こちらは人数が分からん。今部隊を再編しているところだ」

「同じく」

 大室と鎌坪の顔には疲労が色濃く出ていた。束塚は表情こそ変わらなかったが、腕に刀傷を受けて小姓に布を巻かせていた。

 あれだけたくさん殺したと思った天作軍は、未だに一万を越える兵力が健在だった。一方で穂羽軍は残り兵力が千五百を割り、鎌坪と大室の部隊はほぼ壊滅、本隊と束塚隊の消耗も激しかった。

「……これからどうする?」

 袮人が感情のない声で虎姫に問うた。疲労で頭が回っていなかった。

「……さて、どうしたものかの」

 森の奥、敵がいる方を見つめながら、虎姫が小さくつぶやいた。

 虎姫は自分の手を見つめた。指が槍に張り付いて、言うことを聞かなくなっていた。

「もう一度突撃する。今度こそ総大将の首を取る」

 今度は誰も何も言わなかった。一同は冷ややかに虎姫を見つめていた。その命令がただの自殺であることを、当の虎姫が分からぬはずがない。

 そのとき、伝令が評定の場に飛び込んできた。

「失礼します! 偵察の浮田様より伝令にございます!」

 一礼して、袮人のそばに寄って耳打ちした。しばらく無表情のまま聞いていた袮人だったが、報告の途中に笑みをこぼしたので家臣たちが訝しんだ。

「……何か、起きたのですか?」

 砂坂がおずおずと尋ねる。袮人の顔には感情が戻り、喜びと安堵の混ざった声で答えた。

「天作が兵を退いたぞ!」



 天作は未だに戦力を十分に残していたが、本国から届いた報せが龍頼に撤退を決断させた。

 天作に従属していた深見が、周辺の国衆を巻き込んで一斉蜂起したのである。現在、戸賀にはまとまった軍事力がなく、これは明らかに天作軍の留守を狙っての策略であった。

 この戦いで得たものもあった。穂羽が共通の敵となったことで三護と天作の間に軍事同盟が結ばれることになったのである。

「これでよい。今はまだ……」

 穂羽にはまだ利用価値がある。龍頼は、穂羽を滅ぼしたその先を見据えていた。穂羽はいつでも落とせる。しかし今は、刈り入れにはまだ早い。




 九弦城に凱旋した袮人は真っ先に賢義と面会し勝利を報告した。戦勝の報告だったというのもあるだろうが、賢義の顔色はずいぶんと良くなっているように見えた。

「袮人、よく穂羽を守ってくれた……よく志陽を守ってくれた……」

 賢義が袮人の手を握りながら言った。その手に、かつての賢義の力が戻っているように感じて袮人は安堵した。

「穂羽に仕える方々の賜です」

「謙遜はよせ」

「本当ですよ。砂坂に諸井田に……特に虎姫がいなければ、どうなっていたか」

「虎姫、か……」

「虎姫とは、勝利と引き替えに兎流の里を返すことを約束しております。どうかその点については――」

「ああ、分かっている。……最近、体の調子が戻ってきている。この調子なら政務に戻れる日も近いと医者が言っていた」

「それは良い報せです」

「お前には迷惑をかけた……」

「そんな、滅相もない」

 そのとき、襖が元気よく開け放たれて、賢義の娘、雫姫が飛び込んできた。

「袮人兄様! ご無事でしたのね!」

 飛び込むようにして袮人に抱きついてきた。袮人はそれを受けきれずに、雫を抱き留めたまま後ろにぶっ倒れた。

「わたし、兄様の無事を祈るために毎日お参りしてたんですよ!」

「雫姫……それは、ありがとうございます。あと、心配をおかけしてすみません」

「もうほんとに……心配させないでください……」

 袮人の目の前に雫の顔があった。目に涙を浮かべた彼女の顔にどきりとする。雫は今年で十五になる。嫁いでもおかしくない年頃だ。

「こらこら、袮人が困っているじゃないか。はしたないぞ」

 あっ、と声を漏らして、雫は袮人の上から飛び退いた。

「し、失礼しました……わたしったら……」

 顔を赤くしてうつむく。

「あ、そうだった。お父様の体が良くなってるんだってお医者様が!」

「伺いました」

「これでもう袮人兄様は戦に出なくてもいいんですよね!」

「おいおい、わたしが戦に出るのはいいのか」

「お父様は戦に出るくらいでちょうど良いんです」

「大丈夫ですよ、雫姫。これからは賢義様の時代です」

 娘の頭を撫でる賢義を見ながら、袮人は本心からそう答えた。

 その夜、城下では戦勝の宴が盛大に開かれた。

 堅物の砂坂もこの夜ばかりは家臣と酒を酌み交わして、控えめな笑い声を上げていた。束塚十三は娘を連れてあちこちに酌をして回っていたし、大室慶長は呂律の回らない口で歌いながら踊っていた。

 そんな宴の中にあって、虎姫だけがどこか静かだった。今夜の主役であるべき彼女は、隅の方にちょこんと座って冷めた目で宴を眺めていた。

「虎姫、浮かない顔だね」

 袮人は酒を持って彼女の横に腰を下ろした。空になっていた彼女の杯に酒を注ぐ。虎姫は憑き物が落ちたような表情でそれを見つめた。

「勝利の味はいつ味わっても良いものじゃの」

「そんな顔じゃなかったが」

 虎姫は袮人に杯を掲げた。袮人もそれに答える。虎姫は一口で酒を飲み干した。

「主様は戦は嫌いか?」

 唐突に虎姫が尋ねた。袮人は少し考えてから、

「ああ。嫌いだ」

「そうか」

「お前は戦が好きなのか?」

「どうだろうな。戦場で高揚するのは本当じゃが」

「……最後まで戦ってくれてありがとう」

「なんじゃ突然、気味が悪い」

「天作に転向しなかった」

 沈黙。虎姫がどんな表情をしているのか、横を向きたい衝動をこらえる。

「……知っておって、なぜ」

「信じてた」

「わしは嘘は好きじゃが、見え見えの嘘は嫌いじゃ」

「ここで兎流衆を粛正したら穂羽は勝てない。だから賭けるしかなかった」

「くふふ……お主も相当な勝負師じゃな」

「どうして裏切らなかった?」

「わしは優しいからな」皮肉っぽく答える。「それに、奴らは兎流の里を渡すのを渋りおった。どっちにしろわしらに選択の余地はなかった。……主様は、わしらのことを疑ってたのか?」

「素性の分からない人間に軍を任せるはずがないだろう。諸井田にずっと見張らせていた」

「わしらは主様の手のひらの上か」

「諸井田はお前を誅殺しようと提案していたぞ」

 カカカカっと笑う。虎姫に、いつもの獣らしい獰猛な雰囲気が戻ってきた。

「では、わしは主様に命の借りができたということか。高くつきそうじゃな」

「働いて返してくれればそれでいい」

「くふふっ。裏切っておけば良かったかの」

「……それじゃあ、これからも一緒ということで」

 横を見ると、虎姫も袮人の方を見ていた。

 青い目が、篝火の明かりに揺れていた。虎が牙を見せるように彼女は笑った。



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