第11話 加倉の戦い(前編)
穂羽が砺岐へ進軍したとの情報はすぐに天作の知るところとなった。
「……龍頼様、いかがなさいますか?」
「大勢に影響はない。企てが嘘であれば、予定通り進軍するのみ」
「承知しました」
「……曲淵、そう気落ちするでない。わしらは一兵も失っておらぬ」
「しかし時を稼がれてしまいました。敵の狙いはこちらの先制攻撃を封じること。まんまと乗せられてしまいました」
「まあ、よい。どのような小細工を弄したところで、兵力の差は埋められまい。……では、お前は手はず通り志陽に侵攻せよ」
「はっ。必ずや勝ってご覧に入れます!」
天作の軍は、曲淵が率いる先鋒部隊、そのあとに天作龍頼が自ら率いる一万を超える本体が続く。曲淵の役割は本隊が安全に志陽に入るための橋頭堡を確保することである。一度に全軍を動かさないのは、国境の山道で襲撃されたときに大軍では身動きがとれなくなるためである。
砺岐での戦闘の翌朝、諸井田の遠聞より天作軍の情報がもたらされたため、その場で緊急の評定が開かれた。その時点で穂羽全軍は国境までわずかの位置に到着していた。
「……うむ。わしが思っていたよりも敵の動きが早い」
曲淵率いる天作の先鋒部隊はすでに天作の領内に侵入しているらしい。
「できれば国境の山で迎え撃ちたかったが……」
狭隘な山道は天作の大軍を迎え撃つにはうってつけの場所だった。しかも兎流衆には勝手知ったる山道である。
「……兎流の山は大丈夫か?」
袮人が小声で尋ねた。
「里に残った者たちには、穂羽よりも天作の到着が早ければ抵抗はせず通行を許せと命じてある。天作がわざわざ兎流の山に構う理由はない。……まあそんなことは良い。問題は奴らをどこで迎え撃つか――。誰か! 志陽の地図を持て!」
虎姫は地図を広げて、敵の進軍速度と、こちらの進軍速度から、戦線をどこに定めるかを思案した。家臣一同が地図を覗き込んだ。
「……ここの、加倉(かくら)の砦に入る。この砦で守りを固めて敵を迎え撃つ」
「加倉……でございますか?」
砂坂の家臣、真申秋吉(まさるあきよし)が不思議そうに言った。
加倉の砦は山の麓に作られた小さな砦だ。砦と言っても立派な壁や堀があるわけではなく、周囲を柵で囲っているだけの兵士の駐屯地でしかない。
「加倉の砦の備えではとても敵の攻勢に耐えられんぞ! もう少し下がって、荒松城で籠城すべきだ!」
異論を唱えたのはやはり大室である。しかし虎姫は首を横に振った。
「敵は山を越えてきたばかりじゃ。あまり時間を与えたくない。それにこちらが下がれば、敵の先鋒は本隊と合流して大軍になるじゃろう。そうなる前に先鋒だけでも撃破しておきたい」
「しかし……加倉には何もない。せめてもう少し守りに適した土地の方が……」
「それじゃ。敵も加倉にはそれほど警戒しておらぬ。であれば、ここで迎え撃てば、敵の虚を突けるのではないかの?」
砦の北東には加倉山があり、砦のそばを南北に街道が通っている。天作の先鋒が街道沿いに進軍しているのであれば、砦の北側から敵が現れるはずである。
「敵の本隊は一万以上、こちらは三千しかおらん。ここは何としても、敵の本隊が追いつく前に、敵の先鋒を潰さねばならぬ。不意を突いて一気に突き崩す。おのおの方、よいな?」
深見氏と交渉している諸井田からは未だに続報が来ない。もはや深見の動きに期待することはできず、一万人の敵軍を戦場で追い返す策を考えなくてはならない。
穂羽軍は一時間後には予定通り加倉の砦に入り、急いで敵に対する防御の用意を始めた。
虎姫は兵士たちに命じて砦の周りに堀を作らせ、柵を強化した。敵との接触まで時間がなかったため、砦の北側の防備だけを強化させた。
昼近くになって雨が降り出した。その後、雨は霧に変わって、遠くの景色を覆い隠した。
「……奇襲にはもってこいの天気だな」
袮人が空を見ながら漏らした。
それを聞いていた砂坂が付け加える。
「しかし、こちらからも敵の姿が見えなくなります」
「最初の奇襲でかたがつけば心配いらないだろう」
「……そうですね」
しかし、砂坂の不安は的中することになる。
加倉の戦いに参加した兵力は、開戦時点で穂羽軍がおよそ三千五百、天作軍がおよそ三千とほぼ互角であった。
戦いは、天作軍が砦に陣取る穂羽軍を攻撃して始まった。開戦の直後、山陰に伏せていた鎌坪隊と束塚隊が天作軍の側面を直撃した。虎姫の予備兵力は二隊の後方にあり、大室隊と本隊は砦の中で天作軍を待ち受け、南と東から挟撃するのが当初の狙いであった。
開戦後しばらく山陰から戦場の様子を探っていた虎姫だったが、すぐに敵方の異常に気づいた。
「姫様。敵の様子が奇妙です」
同時に阿木楽も気づいた。
「うむ……こちらの側面攻撃にも足並を揃えてすぐに対応してきおった。砦の方には見向きもしない」
「砦の部隊に出撃を命じますか?」
「……いや、正面から当たればこちらの消耗は避けられないじゃろ。このあとわしらは一万二千の部隊と戦わねばならぬのじゃから」
「本気で勝てるとお思いですか?」
「みすみす投了になる手は打ちたくないだけじゃ。――鎌坪隊と束塚隊に撤退を命じよ! 山を迂回して砦の東側から帰還せよ!」
虎姫が看破した通り、天作の大将、曲淵は穂羽の挟撃を完全に読んでいた。霧が出ていたことで奇襲をことさら警戒して行軍していたのも幸いした。
「姫様。味方の撤退を援護しますか」
「そうじゃな。皆、見学ばかりでは退屈じゃろう。準備運動といこうか」
虎姫は短槍と盾を持ってこさせた。
虎姫率いる兎流衆は、移動は馬でも戦いは歩行(かち)で行うのが常であった。これは、山の中にある兎流の里では騎馬隊を維持するのが難しかったことによる。
鎌坪隊と束塚隊を追撃していた天作軍は霧の向こうに黒い影を見た。
「あれは何だ……?」
天作の兵士がつぶやいた。一糸乱れぬ隊列で前進する兎流の一団は、まるでひとつの巨大な生き物のように見えた。すぐにそれが人の塊であると気づいて声を上げた。
「右翼より敵襲!」
一方の兎流衆は静かだった。天作から放たれた弓を盾で防ぎつつ、無言のまま距離を詰めて、とうとう二つの軍団が衝突した。
兎流衆は隊列を維持しつつ、盾の壁で天作の部隊を押し込んだ。
虎姫は隊列の最前列の中にあって、近づく天作の兵士たちを次々と屠った。敵の兵士はろくに切り結ぶことなく虎姫の槍捌きによって速やかに命を失っていった。虎姫を止めようと敵兵が殺到するも、左右の仲間が虎姫を素早く盾で守る。
短時間の戦いであったが、兎流衆はその強さを天作の兵士たちに存分に見せつけた。
「そろそろいいじゃろ。全軍、いったん下がるぞ!」
その後も虎姫の部隊は突撃と撤退を繰り返して敵の前進を阻み、味方が離脱したのを確認してから自分たちも難なく敵の追撃を振り切ってほぼ無傷で撤退に成功してしまった。
虎姫たちが砦に戻るころには霧も晴れ、空は雲間から強い日差しが覗いていた。
帰還した虎姫を袮人が迎えた。
「すべてが上手くはいかんもんじゃな」
「次はどうなる?」
「敵は攻勢に出るじゃろう。ここを何とかこらえて反撃するぞ」
虎姫は兵士たちに守備を固めさせつつ、大将たちを集めて軍議を開いた。
「このあと敵は何としてでもこの砦を落とそうとしてくるじゃろう。そこをなんとかこらえつつ、敵の攻勢が限界になったところで反撃に出る。……さしあたって、敵がどのように攻めてくるか、であるが。敵は北からの攻撃を囮にしつつ、本命は山を迂回して砦の東側から来るとわしは読む。そこで、最小限の兵士を北側に残しつつ、主力は東側に置いて守りを固める」
「東から来るという根拠は何ですか?」
砂坂が質問した。
「わしらが砦の北側だけを重点的に固めておるのは向こうも気づいておるだろう。であれば北側以外の方向から迂回して攻めてくるはずじゃ。迂回すれば奴らの行軍は山に隠れてわしらからは見えなくなるじゃろ? 敵が力押しだけの猪武者ではないことはさっきの戦いで分かった。ここは必ず地形を利用してくるはずじゃ」
「しかし東側に部隊を置いて、もし西から来たらどうする? あるいは損害を承知で北から全軍で攻撃してきたら? 貴様、ついさっきも奇襲に失敗しておきながら、よくもそんなことをぬけぬけと言えるものだ!」
虎姫の策にもっとも強固に反対したのはやはり大室だった。
「東側が危険だとしても、もう少し他の可能性も考えて陣形を作りませんか?」
大室に同調して鎌坪も穏当に反対を示した。
しかし虎姫はどちらの進言も退けた。二人が言うことは虎姫も承知していたが、どこかで勝負をしなければ寡兵ではとても最後まで戦い抜けないことを知っていたからだ。
午後二時になって第二回戦が始まった。まずは予想通り、天作は北側正面から砦を攻撃した。
穂羽軍は知るよしもなかったが、この戦いの直前に、別ルートで進軍していた天作軍が続々と曲淵の部隊に合流しており、開戦した時点で敵の全軍は五千にまで膨れあがっていた。
虎姫は北側の守りを砂坂率いる本隊に任せ、残りの四隊はすべて東側に配置した。
戦端が開かれてから、しばらく四隊は敵と交戦することもなく、北側からもたらされる戦況報告だけを耳にしていた。
しびれを切らした大室たちが虎姫に直訴した。
「虎姫、敵の数に対して本隊は千にも満たないが、本隊だけに任せて本当に大丈夫か」
「北側は守りの用意はしてあるし、あそこには砂坂もおる。心配ないじゃろう」
「もしこのまま東側から敵が来なければどうなる。我らはただの遊兵となるぞ」
「敵は必ず来る!」
鎌坪の不安に、虎姫は断言して答えた。しかし大室はなおも引き下がらない。鎌坪を押しのけて虎姫に詰め寄る。
「もし敵が来る前に本隊が敗走すればどうなる!」
「本隊は必ず持ちこたえる」
「もし袮人殿が討ち死になされたら」大室の目がぎらりと輝いた。「大言を弄したのだ、そのときは貴様、責任を取ってもらうぞ」
「ほう、わしにどう責任を取れと言うんじゃ」
「貴様の首を刎ねる。この大室慶長、喜んで介錯いたそう」
虎姫が口を出すか手を出すか、一瞬迷っていたところで、束塚が仲裁に入った。
「まあまあ、おのおの方。大将が命を賭けるとまで言っておるのだ、であれば従うしかあるまい」
「しかし束塚殿――」
「虎姫を選んだのは他ならぬ袮人様ではないか。袮人様が御家の命運を預けるに相応しいと判断したのだ、家臣としてそれに従う他はあるまい」
「……うむ。束塚の言うとおりじゃ。主様はわしに命を預けてくださった。わしも一命にかけてそれに応えるつもりだ。よって、お主らもわしに命を預けて欲しい」
大室と鎌坪はまだ言いたいことがあるようだったが、束塚の顔を立ててその場は引き下がった。
「束塚殿、助かった」
小声で礼を言うと、束塚は白い歯を見せてニッと笑うと、
「何、礼には及びませぬ。このことをあとで袮人様によくお伝えいただければ」
と言って自分を売り込んだ。
「姫様」隊長たちが去ってから、阿木楽が小声で虎姫に話しかけた。「良いのですか? あのような約束をしてしまって……」
「かまわん。どうせ読みが外れればこの戦は負けて、天作は九弦城まで一直線じゃ。そうなればわしの首なぞに構ってる暇はあるまい。それよりも、北側の様子はよく注意しておけ。本隊が負ければわしらは敵中に孤立することになる。逃げ時を見失うことのないように」
もちろん虎姫としても、穂羽に勝ってもらった方が利が大きい。しかしそれはそれとして、穂羽が負けたときに命運を共にするのは真っ平御免だった。
幸いにして、袮人たちの本隊が潰走するより先に、敵の別働隊が山裾から砦の東側に現れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。