第10話 沈む船



 天作の意表を突いて、虎姫はあえて八月のうちに行動を起こすことを選択した。

 重臣たちが朝から集められ、虎姫から作戦の指示が行われた。ただし諸井田だけは深見への外交工作が不調で、対策のため欠席を余儀なくされた。

「わしらがもっとも恐るるべきは、砺岐と戸賀の二方向から同時に攻め込まれることじゃ。そうなってはわしらの兵力ではどうにもならない。逆に言えば、わしらの活路は敵を各個撃破することにある」

 大広間の中央に、志陽周辺の大きな地図が広げられていた。志陽の東と西に、虎姫が朱色で小さな丸をいくつも書いてゆく。砺岐の軍勢と、天作の軍勢を表す記号だった。

「主様が上手いことやってくれたおかげで、天作はこちらが動くまではじっとしてくれているじゃろう。まずは砺岐と全軍で当たり、これを素早く撃退し、砺岐方面から侵攻される憂いを絶つ」

 西側の丸の上に、大きくバツ印を書く。

「そうしたら、すぐに全軍で志陽を横断して、今度は天作と全軍で当たる。天作の軍を打ち倒し、撤退させる」

 今度は東側の丸の上にバツ印を書いた。

「肝心なところは、とにかく砺岐との戦いを素早く終わらせることにある。東側でもたもたしていては、西側の天作が動き出して、がら空きの九弦城を奪われるかもしれん」

「馬鹿な。仮にこの策が上手くいったとしても、天作の軍をどうやって退ける。こちらが全軍を天作方面に出せたとしても、天作の方が多勢だぞ」

 発言したのは大室だった。その隣で砂坂も頷いている。

 虎姫は筆をくるくる回して、総大将とは思えない軽い調子で答えた。

「うむ。正直言って、そこは相手の出方次第じゃ。この戦いはこちらが不利すぎて、正直五分の状態に持って行くのがやっとなんじゃ」

「そんな無責任な策があるか!」

「ではお主はどう考える」

「ここは城に籠城すべきだ! 下手に決戦を挑めば、数の差で押しつぶされるに決まっておる!」

「九弦城がいかに強固な城とはいえ、支援もなしにそういつまでも籠城できるとは思えぬが。仮に城を守り抜いたところで、わしらが城に籠もっていたのでは、志陽の国衆たちはみな穂羽を見限って天作に付くじゃろうな」

「貴様ら兎流も裏切るということだろう」

「……まあ、敵が九弦城を落とせぬ無能である可能性に賭けるというのも悪くはない。天作龍頼が急死する可能性もあるしの。そうじゃ、ひょっとすると戸賀の山が火を噴くかもしれんぞ」

 くっくっく、と虎姫は自分の言葉に笑いを漏らした。それが大室の顔をさらに赤く煮えたぎらせた。

「よさないか。大室、すでに作戦と指揮は虎姫に一任した。もし虎姫が敗れたときはお前の指揮で好きなだけ籠城するがよい」

「そそ。順番を待つんじゃな」

 虎姫がなおも大室をからかったので、袮人は彼女を睨み付けてたしなめた。

「虎姫、続きを」

「うむ。部隊を五つに分ける。ひとつは束塚の部隊、ひとつは大室の部隊、ひとつは鎌坪の部隊、ひとつは主様の本隊――まあ、実際は砂坂が指揮をやってくれ。この四つの部隊を中心に、わしが指揮する部隊が予備兵力として後方に控える」

 鎌坪師継かまつぼもろつぐは穂羽に従う国衆、鎌坪氏の当主である。束塚ほどの勢力はないが、穂羽との関係は長く、勝昌も信を置いていた。勝昌の遠征に参加した国衆のひとつで、最後まで戦場に留まり奮戦し、先代の当主が討ち死にしている。

「袮人様を戦場に出すのは、いささか危険ではないか?」

 意外にも、発言したのは束塚十三だった。袮人の身を案じているというよりは、戦場に不慣れな袮人が陣を混乱させることを危惧したのかもしれない。束塚十三はこれまでいくつもの戦場で穂羽のために戦ってきた歴戦の強者である。

 虎姫ではなく袮人が質問に答える。

「束塚殿のご指摘ももっともだが、これは穂羽家の命運を賭けた戦いとなる。当主代理である私が戦場に出ないというのは道理に反する」

「まあ、そういうわけじゃ。砂坂よ、主様の目付役、しっかり頼んだぞ」

 命じられた砂坂はわずかに表情を変えて、自らの主の方をちらと見た。




 出陣の前夜、虎姫の部屋には兎流衆の重臣だけが密かに集められていた。

「とりあえずはわしの策の通りに進められそうじゃ。大室と束塚が色々と横槍を入れてきておるようじゃが、そこは問題ないじゃろ」

「勝てますか?」

 質問したのは阿木楽だった。それに虎姫が歯切れ良く答える。

「勝てる。とは思うが、こんなところで命を賭けた大勝負はしたくないのう。船が沈むからと言って、鼠が船と運命を共にしなければならぬ道理はない」

「わしらは鼠ですか」

 永玄がしわがれた笑い声を漏らす。

「阿木楽、天作とはまだ繋がっておるか?」

「はい」

「書状を出しておけ」

「姫様の名前で?」

「いや、とりあえずお主の名前でよい。わしの名前を出すのは時が来てからじゃ。それから、天作の方に何人か付けておけ。向こうから提案があれば戦場にいるわしのところに伝えに来るようにと」

「天作が応じてくれますかな」

「すでに種は蒔いてある。問題はいつ芽が出るか……」

 それからしばらく、今後の行動について打ち合わせたあと、兎流の評定は静かに解散した。

 部屋にひとり残された虎姫は、室内を照らす灯明皿の光を見つめながら、今後の展開を頭の中で予想していた。

 外で人の気配がする。

「誰じゃ」

 刀に手を伸ばす。

 障子がゆっくりと開かれて、そこにいたのは袮人だった。

 聞かれた? まさか――。

「こんな夜にどうしたんじゃ。明日に備えて休め」

「眠れないんだよ。それに話をしておきたかった」

「……入れ。と言っても少しだけじゃぞ。わしも早く寝たい」

 袮人が部屋に入ってきた。虎姫は刀から手を離した。

「主様は不安か?」

「そういうことになる。兄上と雫姫に話したら、戦は虎姫に任せておけと止められたよ」

「主様は恐れを知らぬお方じゃ」

「正直不安で吐きそうだ」

「今からでも辞めるか?」

「まさか。士気は少しでも高くしたいし、それで勝てる見込みが少しでも上がるならそうしたい。それに――」

「負けたときのことか? 潔く戦場で死にたいとか?」

 どうやら図星を言い当てたらしく、袮人は目を丸くした。それがおかしくて、虎姫は手を叩いて笑った。

「……はしたないぞ」

 苦虫をつぶしたような顔の袮人。それが精一杯の強がりだった。

「淑やかさで戦に勝てるか。にしても、そうか。いじらしいの」

「いじらしい?」

「さしずめ、戦場でできることは何もないから、せめて命くらいは賭けようという心づもりなのじゃろ?」

「私の判断に穂羽と将兵の命運を賭けるのだから、せめて私も命くらい賭けなければ道理が通らない」

「道理を通したところで仏様が助けてくれるわけでもなかろうに……。まあ、そうしたいというのならそうすればよい。くれぐれもわしの戦いを邪魔してくれるな」

「神仏に誓って」

「大名の約束は当てにならん」

 そう言ってから、しばらく二人の会話が途切れた。

 袮人は視線を落として床板を見つめている。虎姫は袮人のために酒でも持ってこさせようかと考えていた。一服盛ればぐっすり眠ってもらえるだろう。

「なんじゃ、話はそれだけか?」

「話があったわけではない」

「子守歌でも歌ってやろうか?」

「兎流の歌か?」

「父に教わった北の国の歌じゃ。言葉の意味は分からんが」

「……お前の父上はさぞ強い戦士だったんだろうな」

「いや、父は戦う人ではなかった。北の国では宮廷で働いておった。こっちでいうところの公家のような立場じゃな。文書を管理する仕事をしておったらしい。……父は一度も戦場に出たことがなかったが、戦のやり方を最初に教えてくれたのは父だった。宮廷の書庫には世界中のあらゆる国のあらゆる時代で起きた戦争のことが記録されていたとか。父はそれを記憶していて、わしに名将の戦い方を教えてくれたんじゃ」

「なるほど……虎姫の戦上手は、古今東西の名将の戦術を借りていたのか」

「無論、わしの才能があってこそじゃが」

「はいはい」

「まあ、父はわしを戦場に出したかったわけではなかったがの。……ふむ、そう考えると、わしとお主は正反対なのかもしれぬな。あ、いや、まだそうと決めつけるのは早いが。こたびの戦場で、お主の評価も定まるというもの」

「評価? 世間のか?」

「まあ、もっと大きな視点で、歴史とか、そういうのじゃな。百年後にお主が名君と呼ばれるか暗君と呼ばれるか」

「今のこの時代の評判でさえ私には手の届かぬことなのに、百年後のことなど考えれば気が遠くなってしまうよ」

「良いではないか。気が遠くなれば今夜は眠れるぞ」

 袮人は笑った。袮人が気を許している分だけ、虎姫の方も気を許しそうになっていた。

 二人はそれからしばらく、眠くなるような歴史の話で盛り上がった。




 翌朝から穂羽の全軍が砺岐へ向けて移動を開始し砺岐の山城に先制攻撃を仕掛けた。比根山城ひねやまじょうの戦いである。

 すぐに砺岐と三護から援軍が派遣されて、山の麓で両軍が対峙する形となった。敵は砺岐衆が二千に三護が千の合計三千。虎姫率いる穂羽軍も三千であり、兵力の上では同数である。

「三護の兵が思ったよりも少ないのう」

 陣幕の中、斥候の報告を聞いて虎姫が感想を漏らした。

「三護は砺岐との同盟があるから軍を出しているが、本心では穂羽と戦うよりも北の秋月あきづきを優先したいと考えているのかもしれない」

 秋月は伊高国の北、尾坂国おさかのくにを支配している。三護とは以前から国境を争っていたが、近年は穂羽と三護の争いに乗じてますます軍事的圧力を強めていた。

「どちらにせよ嬉しい誤算じゃ」

 現在の三護の動員可能兵力は少なく見積もっても一万を超える。もし三護が本気で穂羽に侵攻を考えていたら苦しい戦いを強いられていただろう。

 正午になって、虎姫は全軍に攻勢を命じた。まず両翼の大室隊、束塚隊を前進させ、中央の袮人隊と鎌坪隊はその場に留まらせた。

 敵の陣形は横一列であったため、左右両翼の部隊だけが敵と衝突すれば、必然的に中央部は突出することになる。

「……まずいな。このままでは半包囲されて袋叩きにされる」

 三護の指揮官、九時高家斉くじたかいえなりは、伝令の情報から戦場の全体図を即座に把握した。

「すぐに後退させましょう。我々が下がれば味方も前進を止めます」

 九時高の声を聞いて木根正国が進言した。戦場の指図は砺岐衆の動きも含めて九時高が行うことになっていた。九時高はわずかに考えたあと、その進言を受け容れて中央部の後退を指示した。

 連合軍の後退を砂坂は見逃さなかった。すぐさま馬衆に突撃を命じて、前進の足を鈍らせた連合軍に最初の出血を強いた。短時間の戦いで連合軍は二百あまりの損害を出した。

 九時高はさらなる追撃を予想し、穂羽の突出した馬衆への挟撃を画策して両翼に命令を出したが、馬衆がすぐさま後退したためこの命令は空振りに終わった。どころか、攻撃が緩んだ隙を突いて両翼の穂羽軍も後退したため、夕方を待たずして戦闘は終結した。

「穂羽は退いています。追撃しましょう!」

 木根の提案に、九時高は首を横に振った。

「無用である。ここは守りを固め、三護からの援軍を待つ。現時点でこちらとあちらの戦力は拮抗しておる。何も今すぐ勝負をする必要はない」

 木根は態度にこそ出さなかったが、内心は三護の消極的な態度に不服であろう、と九時高は思った。

「それにしても……穂羽はこちらへ進軍したか……」

「……九時高殿は、何か気がかりでも?」

 なぜ穂羽は天作を無視して全軍でこちらの方面に展開できたのか。考えられるのは、穂羽は天作からの攻撃を心配する必要がないということだ。つまりこれは、穂羽と天作に何らかの密約が結ばれたのではないか。

「……いや、何でもない。木根殿、部隊の再編をお願いする。私は戦の結果を殿に報告せねばならぬゆえ、ここで失礼する」

 九時高は三護利明より、不測の事態が起きた場合はすぐさま砺岐から兵を退くようにと命じられていた。三護は砺岐との同盟を軽視しているわけではなかったが、それにしても、本国の防衛より優先して良いものではないのだ。


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