第8話 見込み違い


 砺岐との戦いのあと、袮人はしばらく虎姫と顔を合わせていなかった。政務に忙殺されていたのも理由の一つだが、最大の理由は、虎姫との約束を未だに果たせていないことによる後ろめたさだった。

 袮人が虎姫に兎流の里を与えようとしたときに、諸井田と砂坂の二人は激しく反対した。

「なりませぬ。たった一度の戦手柄で逆臣を許したという前例を作ってしまえば、よからぬことを考える者もおりましょう」

 と、砂坂。

「私も、砂坂殿と同じ意見です。家臣に所領を与えるは当主代理のお役目なれど、勝昌様がお取り潰しになった兎流を再興するのは……。せめて賢義様にご相談されてからの方がよろしいかと」

 こちらは諸井田の意見。

 たとえ代理であろうと袮人は当主の権限を持つ。袮人が強引に押し通せば、少なくとも二人は最後は袮人の肩を持ってくれると信じていたが、しかしその先に待つ他の家臣たちの抵抗を考えると気が遠くなる。

 結局のところ、袮人は虎姫との約束の履行よりも、保身を優先したのである。

 意外なことに、虎姫は袮人の不義理にもさしたる反発を見せなかった。何を言われるか戦々恐々としていた袮人はほっとしたが、虎姫は元々袮人のことなど当てにしておらず、狙いは賢義に恩を売ることなのだろうと気づいた。

 袮人の口添えがなくとも賢義は虎姫の武功には報いるだろうし、その狙いが的外れとは思わなかった。しかし最初から期待されていないというのもそれはそれで情けない話である。もちろん、期待されても今の袮人にはどうすることもできないのだが……。

 九弦城に列を成す訴人の対応を家臣たちに任せて、袮人は虎姫の様子を伺いに行った。

 虎姫の本拠地はもちろん兎流の山であるが、さすがに九弦城と兎流の山を往復させるのは不便であるということで城内に部屋を用意して兎流の一族を住まわせていた。

 袮人が虎姫の部屋を訪れると、彼女は黒い服を床の上に広げて眺めていた。その横には白い仮面が置いてある。

「何だ、これは」

「服と、仮面じゃな」

「そんなことは見れば分かる。仮装大会でもやるのか?」

「そんなわけなかろう。これはな、戦のための服じゃ。わしら兎流隊はこれを着て戦おうと思うての」

 そう言って、虎姫は服を自分の前に広げて見せた。体にフィットするような細身の服で、手首、足首、首までをすっぽりと覆う形になっていた。

「なんだか妙な装束だな……。鎧は着ないのか?」

「それは今作らせておるが、まあ中に鎖を着れば大丈夫じゃろ。くふふ、どうじゃ、黒衣の軍団が、この白い仮面をつけて一列に並んで来る様を想像してみい」

 仮面は顔の上半分を覆うもので、両目の場所が薄くくりぬかれていた。仮面の両側には幅のある布が伸びていて、あれを後頭部で縛って顔に固定するのだろう。

「……楽しそうで何より」

 何と言って良いか分からず、袮人は言葉を濁した。

「最初は大きな兎流の旗を作らせようと思うたんじゃが、目立ちすぎるからの。装束で目立たせることにした」

 悪目立ち、という言葉が脳裏に浮かんだが、水を差すのも悪かったので言わなかった。

「そう怪訝な顔をするでない。そこは、ほれ、これを着てしばらく勝ち続ければ、そのうち箔も付くじゃろう。そうじゃの、敵がこれを見て逃げ出すようになれば儲け物よ」

「……しばらく出陣の予定はないぞ」

 虎姫は少し黙って袮人の顔を見つめてから、

「いつなんどき何があるか分からんからの。戦う準備を急いだまでじゃ」

 そのようなものか、と納得して、このときの袮人はそれ以上深く考えなかった。

「ところで主殿、わしに用があったのではないか?」

「ああ、そうだった。この機会に軍制と兵役を見直そうと思うのだが――」

 袮人は仮装にしか見えない黒装束のことは頭の隅に追いやった。




 八月も中頃になると、領内の動揺も収束に向かっていた。ここに来て袮人たちは天作への対応に本腰を入れることになる。

 袮人は大広間に諸井田と、取次の箕島宗成みのしまむねなりを呼んで天作の様子を報告させていた。

「そうか……天作は戦に傾いたか……」

「垂水村晴に天作龍頼宛の書状を送りましたが返書はありません。どころか、垂水村晴への面会すら断られました。もはや戸賀国に入ることすらかないませぬ」

「それでは断交ではないか」

 いやあ参りました、と箕島が妙に気楽な調子で答えた。袮人はそれが癪にさわって箕島を睨み付けたが本人はどこ吹く風である。箕島を天作への取次に推薦したのは諸井田だったが、推薦者に劣らぬしたたか者である。

 袮人は息を吐いて自分を落ち着かせた。今の穂羽が天作と戦争するなど、とても現実的ではない。

「実は私も商人仲間のつてで天作の様子を探らせていたのだが」

「ほう」

「戸賀国で米価が跳ね上がっているらしい。誰かが米を大量に買い込んでいるとか」

「兵糧米を買い集めているということですな」

「戦を避ける方法はないか? せめて先延ばしにできないものか……」

 箕島の代わりに諸井田が答えた。

「戦とは出産のようなものです。こちらの都合で時期をずらすことなどできませぬし、そのときが来るのを万全の体制で迎える必要がありましょう」

「備えてどうにかなる相手なのか」

「どうにかせねば私たちは滅びましょう」

「……無能者として歴史に名を残すのは避けたいな。宗成、穂羽に攻めてくるのはいつごろと見る?」

「今日、明日ということはないでしょうが、来年や再来年になるとも思えませぬな。どうも天作のやつら、塔京寺とうけいじを立てる用意をしている様子です」

 塔京寺というのは志陽国に本拠地を持つ寺社の一派である。穂羽家は昔から塔京寺に対して所領の保護を行っていた。

「なるほど。穂羽へ戦を仕掛ける大義名分というわけですな」

 箕島の言った意味が分からず袮人が沈黙していると、諸井田がさりげなく説明を加えた。

 塔京寺は穂羽家とは縁の深い寺社勢力だったが、先の砺岐との戦いにおいて備蓄食料の供出を拒んだため、袮人の命令で寺からの退去と所領の強制徴収を執行していた。

 袮人は決して寺社勢力を軽視していたわけではなかったが、塔京寺の領地は九弦城のすぐそばにあり、砺岐衆がここを略奪すれば虎姫の作戦が成り立たなくなる恐れがあった。

 戦後、袮人は塔京寺との関係回復を模索していたが、この時点まで進展はなく、穂羽家は塔京寺の代わりに真戒宗しんかいしゅうという宗派の寺社と結んでいた。

 天作は塔京寺を保護し、その復興を大義名分として穂羽家へ侵攻する。

 袮人は頭の中で、天作がこちらへ動員できる兵力を試算した。天作が直接支配しているのは戸賀一国であったが、天作は活発な婚姻外交によって流州国るしゅうのくににも強い影響力を持っていた。領内に未だ不安定要素を抱える穂羽とは、動員できる兵力も継戦能力も違う。

 今にして思えば塔京寺を追い出したのは失敗だったかもしれない――そう思いかけて、袮人は慌ててその考えを追い払った。いや、過ぎたことだからそのようなことを言えるだけであって、あのときの自分にここまでの展開を予想することは不可能だったはずだ。それを悔やむのは「自分にはそれができたはずだ」というただの自惚れにしか過ぎない。

「天作が穂羽を狙う理由は何だ? 条件によっては上手く和睦に持ち込めないか?」

「それはまあ、立花たちばなの件でしょうなあ」

 諸井田がぼやくと、箕島がうんうんと頷く。何の話か分からず、袮人は二人の顔を交互に見た。諸井田は苦笑いを浮かべながら気まずそうに事情を説明した。

 昨年、天作家中で譜代家臣の立花業有なりありが、当主の天作龍頼の暗殺を企てた。謀反の企ては事前に察知され、立花と彼が擁した天作孝興たかおきは捕らえられて処刑された。

 立花は天作家中において親穂羽派の中心人物だったため、この事件の影響で天作家中の親穂羽派は軒並み失脚し、天作家中を親三護派が占めることになった。

「……実は立花業有は、謀反の前に密かに勝昌様と通じておりましてな。立花が蜂起したときには勝昌様は援軍を送ると、起請文を書いて約束をしたのです。まずいことに、その起請文は立花が捕らえられたときに天作の知るところとなりましてな」

「それでは……穂羽が天作に宣戦布告したようなものではないか!」

「上手くいくと思ったのですが、まさかああも見事に見破るとは、噂通り天作の隠密はよく組織されておりまするなあ」

「お前の献策か……」

 ともあれ、天作が穂羽を敵視する事情はよく分かった。仮に起請文の存在がなかったとしても天作は穂羽を攻めることを考えただろう。家中を親三護派が占めたということは、地政学的に天作が領土を伸ばす余地は南、つまり穂羽のいる方向にしかないのだから。

 話が終わり、箕島が退室した。諸井田も下がろうとしたが、袮人がそれを呼び止めた。

「少し頼みがあるんだが」

 袮人が小声で言うと、諸井田も嬉しそうに声を落とした。

「何でしょう」

「秋になって実りがないと嘆く前に、春のうちに種まきをしておきたい」

「ほう、種を」




 夜、袮人が虎姫の部屋へ行くと、板戸の隙間から蝋燭の明かりが漏れていた。

「……入ってもいいか?」

 外から声をかけると、中から「かまわぬ」と声が返ってきた。

 部屋の中には紙が散乱していた。紙には虎姫が筆で走り書きしたものがのたくっていた。

 さらに部屋にはもうひとり、虎姫の家臣の兎流阿木楽がいた。阿木楽は袮人の姿を見て一礼すると入れ替わりに部屋を出て行った。

「何だ、これは?」

「決まっておろうが。どこからどれくらい兵を集められるか試算しておったのじゃ。阿木楽にも手伝ってもらっての」

 ここのところ、軍事についてはほとんど虎姫に丸投げした状態だった。

「勝てそうか?」

「分かりきったことを聞くでない。兵も時間も金も足りんわ」

 虎姫は不機嫌そうに口を尖らせた。が、すぐに笑みを浮かべる。

「とはいえ、それをどうにかするのがわしの仕事じゃ。その代わり主様よ、わしらとの約束を違えるな。飢えた虎は何にでも噛み付くぞ」

「肝に銘じておく」

「まあ穂羽が滅びれば約束も何もあったものではないからの。せいぜい長生きしてもらわねば困るというもの」

「何か策はあるのか?」

「うむ。わしらの兵力では天作と砺岐の両方を相手にはできぬ。これは良いな?」

「できれば戦そのものを避けたいところだが……」

「それは主様の領分じゃ。で、戦場の話をするなら、天作と砺岐の両方を相手にできぬのだから、せめて一つ一つ順番に戦う方法を考えねばならん」

「敵を分断する、ということか」

 カカカ、と虎姫は笑った。

「それが簡単にできれば戦はどれほど楽か。しかも、もし天作と一対一の状態に持ち込んだとしても、兵力は向こうの方が多いじゃろうから、そこで負けぬ方法も考えねばならぬ」

 そう前置きして、虎姫は作戦の基本方針を袮人に説明した。

 虎姫は袮人の質問を歓迎した。まるで師のように、袮人が疑問を投げればポンと答えが返ってくる。

「主様、『必ず成功する策』などは存在せぬ。たとえば敵が気まぐれを起こせば、読みも何も成立せぬからな。どのような策でも、最後は神頼みじゃ。負けるときは負けるものじゃ」

「それでは困る。必ず勝ってもらわねば」

「無論、勝つつもりではおる。わしも負けるのは嫌じゃからな」

「……結局何が言いたいんだ?」

「覚悟を決めろということを言っておる。主様が戦うということは、主様の過ちで、主様自らが家を滅ぼすことになるやもしれぬということじゃ。歴史に愚鈍な大名として名を残すことを覚悟せよと言うておる。負けるのが嫌なら、家のことなど忘れてどこかへ逃げ出せ」

「それはできない。私は兄上にこの家を任された。それを投げ出すなど、歴史が忘れても私が覚えている」

「兄上、か……」

 そういえば、虎姫には家族はいないのだろうか。虎姫の家臣、兎流阿木楽という者は同じ兎流の名を持つ者だが、あれは虎姫とどのような関係なのだろう。虎姫は饒舌だったが、自分の身の上についてはこれまで一度も話したことがなかった。

「前から聞きたいと思っていたのだが。どうして異人のお前が兎流の当主をやっているんだ?」

「まア、色々あっての。……わしは小さいころに父と二人で海を越えて来た。兎流の里は流れ者が最後に行き着く場所での」

「あの阿木楽というやつも異人なのか?」

「父が死んだ後に家族になった。兎流に来る前のことは知らん。まあ、義兄弟というよりは弟子のようなものじゃが。兎流の里の人間は血ではなく名前でつながるんじゃ。よそ者の集まりじゃからな。……あの里の人間は他に行ける場所がない。だからどうしてもあの山を手に入れたいんじゃ」

「……お前は、どうなんだ?」

「正直言ってわしはそれほどあの山に執着はない。……なんじゃ、そんなに意外か? まあ長くおったから、愛着はあるがな……。生まれ故郷というわけでもなし」

「異国に帰りたいと思うか?」

「夢に見ることはある。一年中、氷と雪に閉ざされた土地じゃった。わしは小さかったから、異国の言葉もあまり覚えてはおらんがの……」

 幼い異国の少女が、虎姫と呼ばれるほどの戦名人になったのだ、それはきっと、すさまじい地獄を見てきたに違いない。

「しかしわしのようにどこへでも行ける者ばかりではないからの。……ふふふ、わしと主様は似たもの同士かもしれぬな」

「それは、買い被りだ」

「もし戦に負けたら二人きりで旅に出るのはどうじゃ? 主様ほどの商売人なら用心棒のひとりも雇うじゃろ?」

「ありがたい申し出だが、あいにくと商売の方もそれほど儲かっていたわけではなくてね」

「なんじゃ、見込み違いじゃったか」

 虎姫はけたけたと笑った。


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