作者からの注釈


 読者諸君の盛り上がりに水を差すようで申し訳ないが、ここで少しばかり、作者の私から歴史的事実についての補足を加えておこうと思う。

 とはいえ物語はあくまで物語であり、史実を忠実に再現するよりも物語としての盛り上がり、物語としての整合性を重視しているため、実を言うとこの節を読まなくても物語を楽しむ分には何の影響もない。というわけで、歴史講釈に興味のない読者はこの節を丸々飛ばしてもらっても構わないが、しかしそれはそれとして、元となった歴史を知ることで物語を様々な視点からいっそう深く楽しむことができると、このわたしは確信しているものである。

 虎姫物語は鳴子姫(作中では「虎姫」と呼ばれている)の謀反とその失敗から幕を開ける。このときの鳴子姫たち反乱軍と穂羽軍の戦いを「兎流の乱」と呼ぶ。歴史的にはこの戦いが、鳴子姫の名前が確認できるもっとも古い出来事である。

 鳴子姫は少数の軍勢を操り大軍の穂羽軍を翻弄し続けた――と言われているが、この出典として用いられる「志陽記」は歴史書というよりは軍記物であり、実を言うとこの戦いについてはよく分からないことが多い。

 反乱が起きたこと自体は、穂羽家が討伐の兵を招集するために国衆に送った書状から確認できる(真水弘忠書状写、『戦国史研究』二二〇一号)。しかし反乱軍が鳴子姫の指導で戦ったことを示す証拠はないし、戦いの経過も不明だ。

 反乱の理由についても、鳴子姫と穂羽の間で行われた交渉の記録が残されていないため正確なところは不明である。一説には兎流の里にある銀山の採掘権をめぐり相論があったことが原因ということだが、これも想像の域を出ない。

 穂羽家が三護に大規模な出兵をしたのがこの反乱事件の直後であるので、実はそれほどの激しい交戦はなかったのではないか、という説もある(上村俊夫・一九八五年)。もし鳴子姫との戦いで穂羽軍が大打撃を被っていたとしたら、勝昌がこの時期に三護への出兵を強行するのは無理がある、ということだ。その場合、志陽記での記述は、その後の鳴子姫の活躍や袮人が彼女を起用したことから逆算して作られたエピソードであろう。

 勝昌の三護への出兵は、伊高国と砺岐国の国境を安定させるのが狙いだったと考えられる。

 この時期の三護はしばしば北方から大滝氏の侵攻を受けており、穂羽との合戦の直前まで三護の主力は北の国境で釘付けにされていた。勝昌はその留守を狙ったのであるが、不運にも侵攻の直前に大滝氏は家中の内乱によって撤退してしまった。そして行動の自由を得た三護軍が急いで穂羽軍の迎撃に向かった先で、嵐の中で無警戒に野営していた穂羽軍と遭遇、奇襲をかける形になってしまった。

 そこからもさらに穂羽家の受難が続くが、この嵐がきっかけで穂羽袮人と虎姫が歴史の表舞台に飛び出すことになる。

 ところで、実は史実の穂羽袮人が鳴子姫を起用した理由はよく分かっていない。というより、そもそも鳴子姫が穂羽軍の全軍を指揮する立場にあったのかはかなり怪しい。

 三護との戦いで穂羽は重臣の多くを失い国衆の離反を招いたが、それでもまだ家中には最有力の束塚氏や、譜代の重臣である砂坂も健在であった。彼らの既得権益と衝突することを、当主の代理でしかない袮人が強行できたとは考えにくい。

 ただし渦毬城を落とした部隊に鳴子姫がいたことは間違いなく、鳴子姫たちが敵本隊の背後から最高のタイミングで奇襲したおかげで穂羽家は九弦城を落とされずに済んだ(上村俊夫・一九八五年)。戦後に諸井田春治が遠方にいる自分の親戚に送った手紙の中で、袮人が鳴子姫の活躍に感状を送ったことに触れている(「村山家所蔵文書」)。残念ながら感状そのものは失われてしまった。

 賢義の代理人としての袮人の態度は、基本的には既得権益を保護する融和的なものであった。

 また、この時期の袮人が賢義にかなり遠慮している様子が書状から分かる。たとえば国衆に出陣を要請する書状の中で袮人は「自分はあくまで期間限定の賢義の代理人であり、賢義が政務に復帰したときにこの件(土地の安堵や後継者について)について正式な下知があるだろう。ただし、なるべくそちらの意に沿う結果となるように努力するため、心配しないで欲しい」という内容のことを書いている(「大月家所蔵文書」『戦国遺文志陽穂羽氏編』一八九号)。あくまで緊急事態における代理人であり、権力の実態は賢義にありますよ、というわけである。

 しかし「期間限定の代理人」の立場では交渉もおぼつかない。なぜなら、賢義が復帰したあとに袮人との約束をすべて反故にされる可能性があるからだ。袮人の出陣要請に、国衆たちが驚くほど乗ってこなかったのは、穂羽の旗色が悪かったということ以上に、それほど袮人の立場が不安定なものだったということなのだろう。


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