第4話 虎姫、再び


 砂坂と一緒に牢屋に入り、虎姫が囚われている房へと近づく。彼女は目を閉じていたが、眠っているとは思えなかった。目を閉じて、密かにこちらの気配を探っているに違いない。

「鳴子姫」

 袮人が呼びかけると、虎姫は青い目を開いた。

「ここで耳を澄ませておるとな、色んな音が聞こえてくるぞ。ここ何日か、何かが起きているな。それも大事だ……。家督争いでも起きたか? ……ふむ。勝昌が死んだか」

 袮人は砂坂と顔を見合わせた。

「なぜそう思うのか?」

「わしは山の天狗より地の果てまでも見渡せる千里眼の術を授けられておるからな」虎姫は戯けた。「それで、わしになんの用じゃ?」

「その千里眼の術とやらで見てみればどうだ?」

 砂坂が怒気を含んだ声で言い返すと、虎姫はくすくすと笑った。

「今わしに用があるのはお主たちで、わしはそれを吟味する側におる。用がないなら帰るがよい」

「袮人様、帰りましょう。このような者、すぐに首を落としてしまいましょう」

「――ほう。お前が穂羽袮人か。お主が家督を継いだのか?」

「私は穂羽賢義の家督を代行しているに過ぎない。しかし、私の言葉は穂羽家当主の言葉と心得よ」

「その穂羽家当主がこの囚人に何の用じゃ?」

「もう一度、穂羽に仕える気はないか?」

「それは順番が逆じゃの。お主がわしを許す気があるかどうかじゃ」

「では許すと言えば、また穂羽のために戦ってくれるのか?」

「裏切らぬという保証はできぬ」

 砂坂の顔にカッと血がのぼって腰の刀に手をかけた。袮人はそれを静かに制して、砂坂を一歩分、虎姫の檻から遠ざけた。

「保証は求めない。しかし私たちの側に付く方が得だ」

「舐められたものじゃな」

「兎流の山をお前に返そう」袮人はあえて『返す』という言葉を使った。「その代わり、お前には穂羽のために命をかけてもらう」

「そう言えば、わしが喜んで尻尾を振ると思うたか?」

「穂羽が滅びれば、兎流の山を支配するのは砺岐か、三護か、はたまた天作か。いずれにしろ兎流に山を返す理由のない者ばかりだ」

「しかしわしがお主についたところで共倒れということもあるぞ。そうなれば領地どころの話ではない」

「そうならないよう知恵を絞れ。これが最後の機会だ」

「知恵だけで勝てる戦などない」

「穂羽の軍指揮権の一切をお前に任せよう」

 さすがに、虎姫が言葉を失った。袮人は虎を前にして初めて愉快な気分になった。

 後ろに立つ砂坂が咳払いをした。砂坂が自分を睨んでいるのは分かったが、ここで日和る姿を見せるわけにはいかなかった。

「……果たしてそれを、お主の家臣たちは納得するかの」

「納得させる。穂羽がこの戦で勝つにはそうするしかない」

「ほう。勝つと。お主は勝つと言うか」虎姫は顔を綻ばせた。「良い。気に入ったぞ。兎流の山を返すという言葉、ゆめゆめ忘れるな」

「では虎姫――これで私たちは同じ船に乗ったということだな」

「勘違いするな、わしは兎流の領地を受取る代わりにおぬしらのために戦うというだけじゃ。義をわしらに期待するな」

「それで十分だ。では、穂羽のためではなく、兎流のために戦ってくれ」

 こうして虎姫は牢から解放され、その日のうちに評定が開かれた。しかし評定の場に、肝心の虎姫の姿がなかった。

「諸井田殿、虎姫はどうした?」

「身支度を整えてから来ると申しておりましたが……」

 三杯目の茶が出たころ、やっと虎姫がやってきた。

 虎姫に不満を持っていた家臣たちが言葉を失った。諸井田や砂坂はもちろん、袮人も。

 虎姫は見事な赤い羽織を着ていた。その羽織の肩には金色の糸が垂れているように見えた。それは虎姫の、見事な金色の髪であった。

「ふう。良い湯じゃった」

 肌から湯気を立てながら歩いてきて、虎姫は臆することなく袮人の隣、すなわち上座に腰を下ろした。

 牢生活でくすんだ髪は本来の色を取り戻し、目は青く鼻は高く、袮人たちとは違う異邦人の顔つきであった。しかしその体は間違いなく少女のもので、華奢な腕と足首は大人の男とは比べようもなく華奢だった。そのような体でどうやってあのような戦働きをしたのか、袮人には想像もつかない。

「で、皆の者。話は聞いておるじゃろ? わしがお主らを指揮してやるから、安心して命を預けるが良い」

 胸を張ってそう言った。家臣たちは言葉を失った。袮人は頭を抱えた。




 虎姫の解放をきっかけに、反乱に加担したかつての兎流の家臣たちも虎姫のもとに集結した。

 城内に与えられた虎姫の部屋に、家臣たちが窮屈そうに並んで座っていた。

「姫様、美味い話もあったものですな」

 会って早々に永玄えいげんが虎姫に言った。永玄は兎流の山に居を構える寺の僧であったが、古くから兎流一族に武将、または外交僧として仕えていた。兎流一族が領地を追われたときに同じく寺を奪われていた。

「永玄、少しはわしの身を気遣ってはどうじゃ」

「そうは言われましても、姫様が無事であることを今さら安堵するのも間抜けな話でございましょう」

 永玄の言葉に虎姫は声を上げて笑った。

 虎姫が囚われていた間も、実は牢番に気づかれずに家臣たちとは密に連絡を取り合っていた。牢番がいちいち気に留めないような音――鳥の囀りや雨音に偽装した符丁を送り、虎姫はそれを、牢の窓から見えるように体の動きで返信する。兎流の里に伝わる技術である。

 実のところ虎姫は袮人に会う前から、ここ数日で穂羽家に起きた一連の出来事を余すところなく知っていたのである。

「それにしてもなぜ穂羽の申し出を受けたのです? そんなことをせずともこのまま逃げ出せば穂羽の奴らは勝手に滅んでくれたでしょうに」

 そう発言したのは兎流阿木楽あぎらという少年である。阿木楽は兎流を名乗ることを許されていたが、虎姫との血のつながりはない。というより兎流一族には血のつながりがある者はほとんどいなかった。兎流の起源は流れ者による傭兵集団である。

 とはいえ血の繋がりはなくとも阿木楽は虎姫にとっての弟分であり、次の当主の最有力候補である。

「それよ。阿木楽の言うようなことはわしだって考えた。放っておけば滅ぼすのは簡単じゃ。しかしそれで兎流の山を押さえてもわしらはただの山賊でしかない。これからの時代、賊では山は守れぬ。わしらが山を押さえる正当性が必要じゃ」

「その正当性を、穂羽に担保してもらおうということでございますな?」

「傾きかけた屋台とはいえ穂羽は名門じゃ。わしらは名を得る。その代わりに奴らには力を貸す。それに、今の穂羽であれば軒下を奪うのは容易い」

「この戦い、勝てますか?」

「わしは負けぬ。しかし穂羽が滅びぬという保証はいくらわしでもできぬ。そのための保険は用意しておけ」

「抜かりなく」

 阿木楽の返事に、虎姫は満足して頷いた。

 かつて兎流の里で内紛があったとき、多くの家臣が敵と味方を行ったり来たりした中で、永玄と阿木楽は決して虎姫のそばを離れなかった。その内紛は虎姫の勝利に終わったが、以来、永玄と阿木楽の二人は虎姫からもっとも厚い信頼をもって遇されていた。




「なんじゃ、ずいぶん人が減ったの」

 評定の場に現れた虎姫は、誰もが言わなかったことを不躾に言った。袮人は家臣たちの無言の圧力で失神寸前だった。

 ただでさえ穂羽家や国衆の首脳部が全滅して動揺していたところに、市井の人間が当主代理となり、しかも反逆者に軍を任せるという大博打をやり始めたのだ。他家にツテを持つ家臣たちは出奔し、国境に領地を持つ国衆たちは勝手に国許へ帰っていった。結果を見れば袮人の選択は家臣と国衆の離反をさらに加速させたことになる。この場に残った家臣たちは、言葉にこそしなかったが、袮人に対して厳しい視線を向けていた。諸井田一人だけがとぼけた顔で腕を組んでいた。

 もしこれで負けたら、自分は歴史に残る大間抜けだ――。

「代理殿。始める前に確認なのじゃが、わしはここに集まった者たちの兵を、わしの意のままに自由に使っても良い、ということで相違はないな?」

「無論だ」

 家臣たちの不満そうな顔をなるべく視界に入れないようにした。

「取り消すなら今のうちじゃぞ」

「出し惜しみはしない。もはやお前と私たちは一蓮托生だ」

 そうだ、勝負に出るなら全力で張るしかない。――という、理性による決断であったが、袮人の感情はまったく制御不能に荒れ狂い、胃はきりきりと痛み、不安で泣きそうになっていた。

 袮人は回答を間違えなかった。虎姫は満足そうに頷く。

「では、作戦を説明しよう。永玄!」

 虎姫のそばに控えていた永玄が、一堂の中心に大きな紙を広げた。それは墨で書かれた志陽の地図であった。

「斥候を出しておるから正確なところはおいおい分かることになるが、とにかく砺岐衆がここへ攻め込もうとしておるのは間違いない。それも来年や来月の話ではなく、明日にでも出陣しそうな勢いでな。砺岐衆が兵と武器をかき集めておる噂も聞こえておるしの。おそらく穂羽が家中を立て直す前に落とすつもりなのじゃろうが、何、速攻というのはそう簡単ではない。わしらはその弱点を突く」

 そう言って虎姫は地図の上を踏んづけた。虎姫のつま先が示す場所はここ、九弦城のある場所だった。さらに虎姫のつま先は砺岐の方へ動き、敵の勢力圏との境界にたどり着いたところで止まった。

「ここから、ここまで。道中にあるすべての城を破棄し、武器と兵糧を引き上げる。そして井戸には毒を入れ、砺岐衆が使えないようにするんじゃ」

 虎姫は一堂の顔を見渡して「速やかにの」と付け加えた。

「つまり、焦土作戦をするということか」

 砂坂がいち早く虎姫の作戦の意図を察した。

「しかし持久策をとろうにも戦の備えがないのはこちらも同じだ。道中の城を破棄するということは敵は一直線にこの城まで来るということだ。すぐに籠城戦が始まれば敵より先にこちらが干上がることになるぞ」

「焦土作戦は敵にそう思わせるための欺瞞じゃ。わしの狙いは別のところにある」

「その狙いとは?」

「それよりもまずは城の破棄と物資の引き上げじゃ。特に兵糧だけはなんとしても引き上げてもらわねばならん。できるか?」

「志陽の城すべてから兵糧を引き上げるとなると……人手を集めるだけでも時間がかかりそうですなあ」

「いや、引き上げるのは道中の城だけで良い。敵は一直線に九弦城を目指して行軍するはず」

 諸井田のぼやきに虎姫が素早く答える。そう言われて、諸井田は顎に手をやりウウムと唸り始めた。虎姫は簡単に言うが、それを実行に移すことこそ困難である。なにせ敵の侵攻までほとんど時間が残されていないのだ。

 その難事の解決には、虎姫に指名された諸井田があたることになった。

 諸井田はすぐに伝令を飛ばし、周辺の村から人を雇って城の破棄と物資の輸送を命じた。翌日から、近隣の城や砦から物資を運ぶ人夫が昼夜を問わず九弦城に長い行列を作ることになった。

 諸井田は虎姫と相談し、輸送コストの高い武具は見切りをつけて、九弦城に運ばずにその拠点で破壊するように命じた。

 また、九弦城から遠い城では、城の門を開け放ち周辺の住民に武具と兵糧の無料提供を行った。この手法は時間効率の良さという点においてだけは抜群であった。とある城では、もし持ち出すとなれば百人を雇って五日はかかるような量の備蓄が、たったの二日足らずで空になってしまった。

 一方で、袮人と砂坂は兵士を集めるために奔走することになったが、こちらは諸井田の仕事ほどは順調にはいかなかった。

 先の戦いで穂羽配下の国衆の多くが戦場で当主を失っていた。そのため国衆の多くは家中の統制がとれずに家督争いのために兵役どころではなくなっていた。

 とにかく一時的にでも国内の動揺を押さえ込む必要があった袮人は「とりあえず家督は空席のままで良いから軍役を果たすように」「もし軍役を果たせばいずれ正式な継承者が決まったときに領土やその家督継承について穂羽家が保証する」ということを書状で約束した。

 この時点で袮人には戦後の構想など何もなく、これは必要に迫られた場当たり的な対応でしかなかった。それでも兵士が足りず、借金で傭兵をかき集めてなんとか軍の体裁を整えることだけはできた。

 そして七月に入り、砺岐衆の動向を探っていた諸井田の遠聞が、敵の侵攻を報せてきた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る