第2話 戦国大名

 袮人が牢屋を出ると諸井田春治もろいたはるはるが待っていた。早速、虎姫との会談の内容について尋ねられた。

「特に新しい話はありませんでした。誰が反乱を指揮したのか、誰を援軍に期待していたのかも、何も話しません。……やはり、私には尋問の真似事などできませんよ」

 袮人の報告を聞いても、諸井田は落胆の色も見せずに、普段通りのにこやかな声で答えた。

「いえ、腕利きの私の部下ですら何も聞き出せなかったのです。駄目で元々、武士ではない若様にならぽろりと本音を漏らすかもしれないと、ただの思いつきでしたので」

「あの、若様はやめてください。私はただの商人です」

「とんでもない。今でも私は、あなたこそ穂羽の当主にふさわしきお方だと思っています」

「……そのようなことを、みだりに言うべきではありませんよ。私は市井の人間ですが、必要とされるなら勝昌様や兄上たちをできる限り支えたいと思っています」

「失言でした。お忘れいただければ幸い」

 諸井田は表情を変えずに頭を下げた。彼とは、袮人が物心つく頃からの付き合いだが、未だに本心が分からないことが多い。

「それで、どうでしたかな。兎流の姫は。若様の印象は?」

 まるで坊主が説法をするような口調で袮人に問う。

「……恐ろしく強い人でした。私はあの人の戦いぶりを伝聞でしか知りませんが、決して誇張ではないと思いました。しかし――いえ」

「構いませんよ。若様、何でもおっしゃってください」

「あの人は、自分がどのように振る舞えばどのように見られるか、その効果をすべて計算した上でそう振る舞っているように見えました。だから私は、あの人が勝算もなしに反乱を起こすとは思えません。降伏の申し入れをしたのも、もしそれが穂羽に受け入れられなかった場合は、第二、第三の策を用意していたような気がするのです」

「……いえ。やはり若様は、当主の器だ」諸井田は満足そうにうなずく。「もし若様にその気があるのなら――」

「やめてください。私に『その気』はありません。諸井田殿こそ、私になど肩入れせずに勝昌様の支えになってください」

「そうしたいのは山々なのですがね、勝昌様の方がこの老いぼれを必要としているかどうか……」

 そう言って、諸井田は薄くなった自分の頭を撫でた。

 諸井田春治は穂羽家に仕える取次衆の一人で、他の大名や国衆との交渉が仕事である。

 穂羽袮人は戦国大名、穂羽勝昌の子である。しかし袮人の母は身分卑しい者であり、とうとう最期まで正式な側室に加えられることはなかった。したがって袮人は勝昌の正式な子息として認められることはなく、公に「穂羽」を名乗ることも許されていなかった。

 そう、虎姫の推察通り、袮人は武士ではなく商人であった。

 虎姫に言われたことを思い出した袮人は、なんとなく気になって自分の手の臭いを嗅いだ。銭の臭いなど感じなかったが、単に自分の鼻がこの臭いに麻痺しただけなのか。

「どうかしましたか?」

 諸井田が訝しんだが、袮人は何でもないと答えた。

 狭い客間に入り、諸井田と向き合って座る。しかも板間である。

 身分としては市井の商人である袮人よりも穂羽家の家臣である諸井田の方が明らかに上だったが、彼は未だに、袮人と二人で話すときは彼を上座に座らせる。上座下座にこだわるのも馬鹿らしくなるほどの狭い部屋ではあったが。

 とはいえ、自由に出入りを許されているだけでも、ただの商人にとっては大きな特権だ、と袮人は思うことにしている。

「そういえば、あの噂は本当なんでしょうか。その、勝昌様はこのたびの戦で家督を誰に譲るのかお決めになるとか」

「さあ、どうなんでしょうなあ。すべては勝昌様のお心の内にあることですから」

 諸井田はとぼけた口調で答えた。仮に何か知っていても、袮人にそのまま答えるはずもない。そのへんは抜かりのない男である。それでも袮人は話を続けた。

「今回の戦では、勝昌様は賢義かねよし様以外の全員を戦場にお連れなさったわけでしょう。いつもの勝昌様であれば、戦場に同行させるのは、成親なりちか様と辰興たつおき様と――多くても三人くらいと聞いています」

「御自らの戦働きを息子たちに見せたい、というお気持ちはあるのでしょうなあ」

三護さんごを攻めているのでしたよね。そのように戯れる余裕のある相手なのですか?」

「兵力が違いますからな。三護の領地は一国だけで、家中は内紛でまとまりを欠く。こちらは志陽国しようのくに砺岐国ときのくにの二国を持っているわけですからな。勝昌様はこのたびの戦が、良い機会だと思われたのでしょう」

 勝昌には袮人を除いて七人の息子がいる。いずれも袮人より年上であり、七人のうちの誰かが穂羽家の家督を継ぐのは間違いない。

 家督を継ぐのは、普通はもっとも年上の息子であるが、長兄の成親は勝昌以上の苛烈な性格で、とにかく家臣からの評判が悪いという問題があった。

 家中に配慮して長兄を避けるとすればもはや年功序列など関係ない。そうなると七人の息子全員にチャンスがあると考えることもできた。

 いや、一人だけ家督争いにすでに敗れている者がいた。それは五兄の賢義である。

 賢義は学問に才のある男で、教養があり、高い理想を持っていた。しかし賢義の最大の問題は、体が弱く、これまでまともに戦場に出たことがないということだった。

「賢義兄様のお加減は、まだ悪いのですか?」

「今回のは特にひどいようです。今朝賢義様を看た医者が、まだ熱が下がらないと言うておりました。……このような時期にお倒れになるとは、あのお方も間が悪い」

「いえ、不幸中の幸いかもしれません。戦場で倒れては跡目も何もあったものではありませんから。とはいえ、兄上には早く元気になっていただきたいものです。……さて、こちらでの用も済みましたし、私はそろそろ行くことにします。元々、行商の途中に立ち寄っただけですから。おかげで珍しいものも見られましたし」

「ははは。虎はお気に召されましたかな」

「良い土産話になります。……それから、兄上のお見舞いをしたいのですか、大丈夫ですか?」

「まだ伏せっていらっしゃるようですが、お話するだけなら問題ないでしょう」

 袮人は諸井田に一礼して立ち上がろうとした。

「袮人様!」

 ふすまが大きく開け放たれるのと、その人物が袮人の名前を呼ぶのが同時だった。

「――袮人様!」

 袮人の姿を見つけてもう一度名前を呼んだ。袮人の前に、少女が滑り込むようにして正座した。白地に花柄の上等な着物を着こなしていたが、それを着ている本人はいささか快活すぎた。

「志陽にいらっしゃったのなら教えていただければよかったのに! こっそり戻ってくるなんてずるい! 袮人様が戻ってこられるなら太鼓叩きと笛吹きを集めて歓迎の祭りを開いたのに!」

 だからお前には知らせなかったのだ、とは言えなかった。

「……どうも、束塚たばつか様」

「あはは! 束塚様なんて、他人行儀で恐れ多い呼び方はおやめください! 乙乃おとのと気安くお呼びください! それにもし袮人様にわたしが輿入れしたら束塚様じゃなくなりますから――わ! す、すみませんっ! わたし、また変なことをっ! このっ、乙乃の馬鹿っ! 袮人様になんて失礼なことをっ。これはもう袮人様にお嫁に行って一生かけてお詫びするしかっ!」

 乙乃は土下座するように板間に自分の頭を打ち付けた。

 彼女とは幼い頃からのつきあいで、当時は遊び相手としてしょっちゅう束塚氏の屋敷に呼ばれていた。

 黙っていて、かつ動かなければ、乙乃が美人であることには袮人も異論はなかった。

「……乙乃様こそ、袮人様なんて呼び方はおやめください。またお父上に怒られてしまいますよ」

「いいえ、父上は袮人様の素晴らしさを知らないのです! もしまた袮人様にご迷惑をかけるようであればこの乙乃、袮人様のために刺し違えても父を討ち果たす覚悟でございます!」

「やめてください」

 乙乃は幼い頃と変わらずに――というかむしろそこからさらにこじらせて袮人に接してくるが、彼女の父はごく常識的で、娘が入れあげている貧乏商人のことを苦々しく思っている様子であった。

「いつまでご滞在ですか? 泊まる場所はちゃんとありますか? よければわたしの部屋に泊まりませんか? 逆にわたしが袮人様の部屋に泊まってもいいくらいですよ!」

「今日中に発つつもりです。ここに立ち寄ったのは、ただの挨拶ですから……」

「なんと! それはとても残念です! 嫁を探すときはいつでもお声かけください!」

 無礼にならないような返事が思いつかず、袮人は愛想笑いだけで返した。

 諸井田は腕を組んで我関せずといった様子でずっと床の目を見ていた。この男はとにかく抜け目がない、と袮人は諸井田を高く評価している。その諸井田が今の地位に甘んじているのは、やはり切れすぎる者は疎まれるのが世の常なのだろう。

 そのとき、遠くから無遠慮な荒々しい足音が近づいてきた。「乙乃! 乙乃はどこだ!」という男の声も聞こえる。

 声の主はやがて袮人たちがいる部屋に現れた。

 豊かな髭を蓄えた、浅黒い肌の大男である。乙乃の父、束塚十三である。

 十三は室内を大きな目でぎろりと見渡すと、いつの間にか袮人の後ろに隠れていた乙乃に視線を止めた。

「乙乃! 勝手に城の中をうろつくんじゃあない!」

「父上! お許しください、袮人様に一目会いたい一心で!」

「袮人ぉ?」

 十三はじろりと袮人を睨み付けた。

 下手なことを言えば火事になる。袮人は無言で、小さく会釈するにとどめた。

「ふん。商売人というやつは礼儀がなっておらん! さらに言えば気迫が足りん! もっと言えば反骨心がない!」

 それすら気にくわなかったのか、袮人に一喝した。

「あと娘をたぶらかすな!」

 と、付け加える。

「父上! 乙乃はたぶらかされてなどおりません! むしろたぶらかそうとしているのは乙乃の方です!」

「乙乃! わしはこんな出がらしに嫁がせるためにお前を育てたつもりはないぞ!」

「父上! 今の言葉は無礼に過ぎます! 礼儀がなっていないのは父上の方ではありませんか!」

 乙乃が怒鳴り返した。う、と十三は一瞬怯んだが、すぐに「わしはもう帰るぞ!」と言い残して一人で出て行った。

 束塚は穂羽に従属する国衆、すなわち在地の領主の中ではもっとも大きな勢力を持っており、他の国衆とは明らかに別格の扱いを受けていた。

 今回の三護への出兵についても、束塚十三が強い難色を示したため、勝昌は束塚にだけ特別に兵役を免除していた。

 実際のところ、乙乃が本気で声を上げれば、祭りくらいなら本当に開けてしまうのである。冗談ではなく。

「まったく、父上には困ったものです……。袮人様、大変失礼しました。このお詫びは乙乃が体でお支払いします」

「いえ、お気になさらず……」

「それでは乙乃は失礼します。袮人様の旅の安全を祈っております」

 深々と床に頭をつけてから、乙乃は出て行った。




 袮人は病床の賢義を訪ねた。

 賢義が布団から体を起こそうとしたのを押し留めた。

「兄上、お加減はいかがですか?」

「良かったらこんなところにはいないよ」

 賢義が力なく笑顔を見せた。

「袮人は元気そうで良かった。商売は儲かっているのか?」

「私一人が食べていくので精一杯ですよ」

「その様子では、所帯を持つのはまだ先かな」

「ええ。あいにくと」

「金に困ったら遠慮なく言いなさい。こちらも余裕があるわけではないけど、お前一人を食わせるくらいはできる」

「お戯れを。それに、そのようなことをされては勝昌様のご不興を買いますよ」

「父上は関係ない。なに、わたしは戦に出ることもできない身だが、それくらいの口利きはできるさ」

 会話が途切れた。袮人は「そういえばさきほど面白い者と会いました」と前置きして、囚われた虎姫のことを話した。特に、袮人が虎姫に抱いた印象について、賢義は興味深げに聞いていた。

「兄上は、虎姫のことは何か聞いていますか?」

「あれの始末には父上も困っていたのだ。おそらくあの姫は切腹、兎流は領地没収となるだろうが……。お前はどう思う?」

「そうするには惜しい者だと思います。上手く使えば穂羽にとって大きな力になると思います」

「しかし切れすぎる刀は扱いを誤れば自分を切ることになる。穂羽はそのような危険な刀に頼る必要は、少なくとも今はない。それに、謀反を起こした者を放免すれば家臣に示しがつかない。一鉄斎いってつさいのこともあるし」

 謀反が起きた沼越城の城主は梶邦一鉄斎かじくにいってつさいという人物である。虎姫はその寄子であった。謀反が起きたとき、一鉄斎とその家臣は抵抗する間もなく拘束され、虎姫が穂羽に降伏するまで虜囚の憂き目にあっていた。

 一鉄斎は一命を取り留めたが、虎姫の謀反に対して何もできなかった無能を勝昌に咎められて減封されていた。

「確かに、おっしゃるとおりです。私の考えが浅はかでした」

「何、そう卑下するものでもないさ。これから穂羽の状況が変われば、ひょっとしたら袮人の言ったのが妙案となる場合もあるかもしれない。先のことは誰にも分からないからね」

 そのとき、ふすまの外から声がかかった。賢義が応答すると、賢義の娘のしずくが入ってきた。彼女は今は亡き賢義の正室、静音しずね姫との間にできた子供で、今年で十歳になる。雫は盆の上に水差しと手ぬぐいを乗せて持ってきた。

「袮人兄様!」

 その雫は、袮人を見るなりさっと襖の影に引っ込んだ。

「おいおい、わたしよりも先に袮人か」

「袮人兄様がいらっしゃるなら言ってくだされば良かったのに」

「ご無沙汰してます、雫姫」

 少ししてから雫が出てくる。しおらしく袮人に頭を垂れる。

「ひ、姫だなんて……。袮人兄様、お久しぶりです」

「何だ何だ、らしくもない」

 娘の様子に賢義が苦笑する。

「雫様が兄上の看病を?」

「お医者様がいらっしゃらないときは、そうですね。父上、喉は渇いていませんか? あと、お体をお拭きします」

「ああ、すまない。それでは、袮人――」

「はい。私はこれで失礼します」

「袮人兄様、いつまで志陽にいらっしゃるんですか?」

「残念だが雫、袮人は今日発つそうだ」

「…………そうですか」

「ほら、雫もこう言ってるし、もう少し留まってはどうかな」

「わ、わたしは何も申しておりませんっ」

 そのとき、駆け足で室内に飛び込んできた者がいた。貴人の寝所に駆け込むなど尋常ではない。果たしてそれは諸井田であった。

 諸井田は袮人と雫を一瞥すると、挨拶もなく賢義の布団のそばに膝をついた。

「何だ諸井田」

「賢義様、お人払いを」

「ここには身内しかいない」

 諸井田は袮人をちらりと見てから賢義に頷いた。

「勝昌様の部隊から伝令が。穂羽の軍は、三護の軍より奇襲を受けて総崩れとなりました。勝昌様の安否は未だ分からぬとのこと」

 袮人がその言葉の意味を理解したとき、賢義は自力で体を起こして諸井田に詰め寄っていた。

 皇歴一二四〇年五月二十五日、袮人の運命が変わる。



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