虎姫物語

叶あぞ

第一部

第1話 繋がれた姫


 彼女は牢の中で、両腕を鎖で繋がれていた。あごの下から額まではまるで獣のように鉄の枷で覆われていた。三日前から続く雨で牢の中は湿気とカビの臭いがひどい。元々は鮮やかだったと思われる赤地の着物は薄汚れて、それが獣の皮のように見えた。

 牢の中から放たれる異様な雰囲気と圧力に、袮人ねいとは立っているだけで息苦しくなった。

 袮人と彼女の間を木の格子が隔てていた。格子には三歩以上近づかないように、と言われている。その上で、袮人の左右には槍を構えた牢番が油断なく彼女に警戒を向けていた。

 謀反人とはいえ大げさすぎる――と、袮人は思わなかった。この女は主君に謀反を起こし、千人にも満たない兵士で城を奪い、半年近くも籠城を続けた、戦争の天才なのだから。

「お前が兎流の鳴子姫か?」

 勇気を振り絞って袮人の方から声をかけた。

 彼女の双眸が袮人を射貫いた。彼女の瞳は鮮やかな青色だった。

「いかにもわしは鳴子である」

 彼女が人の言葉を発したことに袮人は安堵した。

「今回お前が起こした謀反について、詮議したいことがある」

「何なりと」

 何だ、思ったより素直じゃないか、と袮人は拍子抜けした。

「謀反を企てたのはお前で間違いないな?」

「無論じゃ」

「では、謀反を起こした目的は?」

「わしにそれができたからじゃ」

「……殿は、謀反の理由次第ではお前の助命も考えておられる。心して答えられよ」

「と言われてもな、城を奪った理由はひとつしかない。腑抜けた城主に守りやすい地形……。取れる城だから取ったというだけの話じゃ。下克上は戦国の世の習い。どれだけ頭を捻ってもそれ以外の理由など出て来んわ」

「それは……兎流家の独立のため、ではないのか?」

 穂羽家中では謀反の理由を一旦はそのように解釈していた。

 戦国大名の穂羽勝昌ほばかつまさは、三年前に兎流を攻めて降伏に追い込み、以降兎流氏は穂羽家に従属する立場だった。

 袮人の言葉を聞いて虎姫はくすくすと笑った。そのとき袮人は、彼女が自分よりも年下であることを思い出した。

「あのような小さな城で、兵を何年も養えるものか。兎流の独立など夢物語じゃ。夢というのはな、寝ているときに見るものだ」

「では城を奪ったあとはどうするつもりだったんだ? まさか、勝算がなかったわけではないだろう? 援軍は? どこかの家と事前に話をつけていたのではないか?」

「うむ。先のことはあまり考えなんだな。つい魔が差した」

 いかに手癖が悪くとも「つい」で謀反を起こす者がいるだろうか。

「お前ほどの用兵巧者が、勝算もなく兵を挙げるとは思えないが」

「それは買いかぶりじゃ。お主らはわしという人間が分かっておらぬ。わしはよく『虎姫』と呼ばれるんじゃがの、虎は目の前に肉があれば食らいつく。これは性分なのじゃ」

 穂羽家によって独立を失う前、兎流の一族は傭兵を生業にしていた。一糸乱れぬ行軍により一千の軍勢で勝昌の一万の軍勢を退けたその戦いぶりを聞くに、彼らの闘志や統率は未だ衰えてはいないらしい。

 そんな彼らだからこそ、勝昌は滅ぼさねばならなかったのだが――。

「お前、侍ではないな?」

 唐突に虎姫が言った。

「何?」

「お主からは血の臭いがしない。鉄や油の臭いもしない。それから、わしはおぬしの歩き方を見ていた。武術が使える者は所作を見れば分かる。さしずめ……商人だろう?」

 袮人は答え合わせをするつもりはなかった。しかし虎姫は我が意を得たりとほくそ笑んだ。

「やはりそうか。お主からは香と果物……それに錆の臭い。これは銭か? 銭には縁がなくてな、臭いが分からぬ。しかしどれも上物ではないな。それに足下が泥で汚れておるぞ。お主、普段は自分の足で歩いているな。やんごとなき身分の者ではない。しかしこうしてわしと会って話ができる。商人でありながら穂羽の家中に信頼されておる者……さしずめ、勝昌の不義の子か」

「ふざけたことを言うな」

「そうか? 声が震えておるぞ。お主、母を捨てた父を恨んでおるな?」

「私の名も知らぬお前が、見当違いもいいところだ」

「わしの軍が勝昌の退路を断ったとき、あやつがどのように逃げ出したか語ってやろうか? お主が望むならもう一度その光景を見せてやっても良いぞ」

「馬鹿な。お前は囚われの身だ――」

「であれば、出るだけじゃ」

 袮人の額には汗が噴き出ていた。気が遠くなる。虎姫と、さらに自分の両脇に立つ牢番が気になった。今の会話、どのように受け止められたのか。自分の返答に落ち度はないはずだ、と冷静になろうとする。激しい雨の音が袮人の思考をかき乱す。

「わしの挙兵がそんなに不思議か?」

「もうひとつ聞かせて欲しい。なぜあれだけ有利に戦っておきながら、あっさりと降伏したのか。しかも降伏の条件は家臣の助命だけ……。首謀者のあなたは、今こうして処刑を待っている」

「実のところ家臣のことなどどうでも良かったのだがな。しかしあれはわしの手足じゃ。矢は人を殺さぬ、殺すのは矢を射る人の意思である。……お前、わしが怖いか?」

 ――そのとき、自分がどのような返事をしたのか、袮人はよく覚えていなかった。気がついたとき、彼は早足で牢屋を後にしていた。

 皇歴一二四〇年、五月のことである。


 虎姫、という名前は通称であり、彼女の正式な名前は鳴子なこ姫という。志陽国しようのくに戸賀国とがのくにの間にある山岳地帯を領有する兎流氏の当主である。穂羽袮人がそう呼んだように、昨今の読者諸君にとっては「虎姫」という名前の方が馴染みが深いだろう。

 鳴子姫について、事実と確認されているもっとも古い活動が「兎流の乱」と呼ばれるこの反乱事件である。

 しかしこの時点での鳴子姫はただの敗軍の将でしかなく、その影響力も名声も、当時の大大名である穂羽や天作あまさか三護さんごなどとは比べようもなく小さい。

 皇歴一二三九年の十月に兎流と穂羽の戦いが始まると、鳴子姫は巧みな軍略で穂羽の軍を退け続けた。しかし年が明けて三月、反乱軍は突如として穂羽家に降伏を申し入れてきた。

 当時の人たちにとって、これから起こることは明らかであった。降伏した鳴子姫は詮議ののちに処刑され、助命された兎流の家臣たちも徐々に力を奪われ、最後は穂羽家に吸収されてその名前は忘れ去られる。鳴子姫という無謀な将がいたという、故事のひとつくらいにはなれたかもしれない。

 しかし鳴子姫の運命はここで大きく向きを変え、同じ時代の無数の人たちを巻き込んで、彼女は虎姫として後世に記憶される存在となった。


 これは、虎姫の物語である。


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