第37話『思索』

 石造りの部屋がもたらす静謐な朝の空気にも慣れてきた。

 この静けさの中で、ヴェルメリオに来てからの数週間の記憶を遡っていると、部屋の端っこでピンッと背筋を伸ばしているアイが話しかけてきた。


「おはようございます、マスター」


「あぁ、おはようアイ」


「今日はいかがされますか?」


 僕の思考を読んだ上であえて口にするアイ。会話そのものを楽しんでいるのだろう。


「執筆作業も昼頃には終わるだろうから、完成した原稿をシュタイン博士のもとに届けるよ」


 シュタイン博士のもとで製本と複製を頼む手筈だ。


「では、仕上げの作業ですね」


「そうだね」


 朝食は、書き終えた後に、博士のもとへ向かう途中で買えば良いか。


「では、この前見かけた屋台で食べましょう!」


「アイは普通の食事を食べられないだろ?」


 僕がそう問いかけるとアイは笑顔でこう答えた。


「マスターが美味しいと感じている感覚は共有されるので、マスターが旨味を感じれば、私にとってもそれは大歓迎なのです」


 なるほど、正に一度で二度美味しいわけか。



 今日の予定も決まった所で、そろそろ執筆に取りかかろう。


 ソクラテス、プラトンとくれば、最後はアリストテレスで決まりだろう。

 アリストテレスは、早くに父母を失くし、義父に養われ、アテナイにあるプラトンの学園のアカデメイアに通っていた。

 プラトンのもっとも優れた弟子となったアリストテレスはその後、学園を去り、マケドニアの皇太子『アレクサンドロス』の家庭教師となる。

 そして、アテナイのリュケイオンに学園を開いた。

 アリストテレスの学問は極めて多彩である。

彼の残した著作によれば、哲学や論理学はもちろん、倫理学や政治学、動物学に植物学、天文学などの自然科学すら学んでいたという。それに加えて芸術も嗜む人だったらしい。


『合理的な思索は概念によって行われる』と考えた彼は、概念を正しく定義するために、十のカテゴリーを作った。

 実態・量・質・関係・場所・時・位置・所有・能動・受動。

 これら十のカテゴリーをもとにアリストテレスは様々なことを判断し、証明したと言う。


 この考え方が僕に一つの可能性を示唆した。

 ノイラートからヴェルメリオに来る際に、リザが言ったひとこと、『哲学って精神魔法に使えそうだよな』この言葉を聞いて以来、僕の頭の中では、様々なパーツ探しがはじまった。今それに一つの答えが示された。


 概念と言う、あやふやなモノにカテゴリーを与えて形作ったアリストテレス。では僕は、その土壌をもとに、精神魔法の細分化を行おう。そして、新たな精神魔法を生み出すのだ。

 概念を分けたこの十のカテゴリーは、全てのことがらを考える際に、避けては通れぬ道だ。それは勿論、人間の精神活動においても。

 ならば、この十のカテゴリーを操る精神魔法が完成すればそれは、哲学と魔法学が手を取り合った瞬間と言える。正に新たな学問の誕生だろう。イデアの学問と地球の学問が混ざり合う光景は、とても好奇心をくすぐる。それが可能なのは両世界を知っている僕だけだろう。


 僕が密かに一大決心をしていると、不意に隣から声が聞こえた。


「私には理解出来ない思考が多々ありましたが、本が完成したようですね?」


 アイが僕の顔を覗き込みながら、淡々と言った。


「あぁ、完成したよ」


 その言葉は、本の完成を指しているのか、新たな考え方の誕生を祝しての言葉なのか、口にした自分ですら、わからなかった。


「では、出発しましょう」


 アイの言葉を合図にして、僕は完成した原稿用紙を持ち、部屋を出た。



 朝から飲まず食わずで作業を進めた為に、お腹のコンディションは抜群だ。通り過ぎるお店の料理がどれも美味しそうに見える。


「マスター、ありました。あのお店です」


 そう言ってアイが指さしたのは、外に並んでいる移動式の屋台だった。


 こ、これは、おでん?


 そこには、タプタプの汁に浸かった野菜やらお肉が並んでいた。


「らっしゃい、好きなのどうぞ」


 おそらく店主である、小柄なお爺ちゃんが優しい声音でそう言った。


 僕はその中から、店主のオススメの品をいただいた。お肉にも野菜にもダシ汁が染み込んでおり、柔らかくてとてもジューシーだ。野菜の旨味と肉の旨味が手を取り合い、最大限の相乗効果を生んでいる。


「美味しい」


 僕が思わずそうつぶやくと、アイも仕切りに頷いてみせる。


「お嬢ちゃんは食べないのかい?」


 店主が不思議そうにアイに問いかけた。


「私はマスターが嬉しそうなら、それだけで満足なのです」


 文字通り、僕の満足感そのものがアイの満足感に繋がっているのだが、店主にそれが伝わるはずもなく、怪訝な視線で僕達を見つめていた。


 周りの席の人達も不思議そうにしていたので、なんとなく居心地が悪くなり、僕は残りの分を早々と食べ切り、その屋台を後にした。


「どうしたのですかマスター」


 僕の隣を歩きながら不思議そうに首を傾げるアイ。


「いや、あの状況だと僕だけが料理を楽しんでいる、悪いお兄ちゃんになってしまうからね。なんとなく居心地がね?」


「結果として、私も嬉しいのですから、問題はありません」


「周りの人にはそれが伝わらないだろう?」


 僕はゆっくりと優しく問いかけた。


「私とマスターの問題なのですから、他者は関係ないのでは?」


 なるほど、アイは状況を正しく認識した上で、自分なりに考えたわけか。この考え方はリザの影響を強く受けていそうだな。


「リザさんの考え方はシンプルで合理的なので、手本になります」


 アイは淡々とそう言った。


 関わる人間によって様々な思考が芽生えるのか。まぁ、それは人間も同じか。


「同じです!」


 同じと言う言葉が嬉しかったのか、とても満足気に顔を綻ばせるアイ。


 そんなやりとりを繰り返しながら、狭い路地へと入って行き、お目当てのお店が見えてきた。


「失礼します」


 店のドアを数回ノックし、僕達は店内へと入る。相変わらず店内は、スペースの大半が発明品により埋め尽くされていた。


「やぁ、フィロス君。完成したのかい?」


 薄暗い店内の奥から、シュタイン博士が顔をのぞかせる。


「はい、おかげさまで」


 僕は深く頭を下げた。


「私は道具を貸しただけさ」


「お借りした魔道具は、後日、ヴェルメリオの馬車にて搬送してもらいます」


「あぁ、それでいいよ。そんなことより、早く原稿を見せてくれ」


 灰色の目を怪しく光らせながら、シュタイン博士がそう言った。


 その後、原稿を受け取った博士は、しきりに頷きながら、文字を追うのに夢中になり、しばらくの間、顔を上げなかった。


「どうでしょうか?」


 僕はおそるおそる、博士に問いかけた。


「大変興味深いね。もっとじっくりと読みたいが、まずはこの用紙を製本し、複製することにするよ」


「ありがとうございます。この期に及んで図々しいお願いではあるのですが、僕はそろそろ、ノイラートへ帰国せねばならないので、完成した本はノイラートの宮殿に送って貰えないでしょうか?」


「お安い御用だよ。そう言えば、その後、彼女の調子はどうだい?」


 アイの方に視線を向けながら、博士が僕に問いかけてきた。


「えぇ、動作面も精神面も驚くべき速度で成長していますよ」


 僕がそう言うと、心なしか誇らし気な表情を見せるアイ。


「なるほど、君のもとに送り出したのは正解だったようだ。では私は製本作業に取り掛かるとするよ。またいつでも来てくれたまえ。君との会話は良い刺激になる」


 その後、何気ないやりとりを数回交わし、僕らは店を後にした。


 

 来た道をゆっくりと二人並んで歩く。サイズが同じ僕達は、無理に歩幅を合わせずにすむ。二人で歩いているはずなのに、不思議な一体感があった。


 アイの成長を日々隣りで感じている僕は、アイの踏み進める一歩がアイだけではなく、僕の思考を前へと進ませていることに、ふと気がついた。


「ありがとう」


 僕は、つぶやくようにそっと気持ちをこぼした。


「はい」


 照れ笑いによる頰の朱色と夕陽による柔らかな赤みが、アイの整った横顔に混ざり合い、鮮烈で幻想的な光景を作り出していた。

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