第36話『指揮』
誰もいない部屋で目覚めることに寂しさを感じるようになったのはいつからだろう。
アイと一緒に過ごすようになってからは、イデアでの起床は常にアイに見守られている。
その所為か、一人暮らしをしているアパートで起きるこの瞬間に妙な味気なさを感じている。
今日は大学の図書館にこもる予定だ。
ヴェルメリオでの哲学書の執筆も順調に進み、まとめに入る所である。その為にも知識の復習をしておこうというわけだ。
筆記用具を鞄に入れ、履き慣れたスニーカーで外に繰り出す。
そのまま、最寄りの駅に向かい、電車で揺られること十五分。大学付近の駅で降り、真っ直ぐな道のりを静かに歩き出す。
赤く色づいた木々が風に揺られてその葉をヒラヒラと地面に落とす。無機質なアスファルトを赤く染まった落ち葉が彩る。
コンクリートで固められたこの道を人工的に植えられた木々が等間隔で並ぶこの景色は、なんと言えば良いのか、自然があまりにも自然に立ち並んでおり、その作られた自然があまりにも不自然に感じてしまうのだ。
人間がこの景色を自然に見えるように作ったのと同じように、神様もきっと、この世界を自然に見えるように作ったのだ。だから時々、自然なことを、いや、自然に信じ込んでしまっていることを疑ってしまう輩が出てくるのだろう。そして、そういった輩達の思想が根拠を持ちはじめ、哲学という分野が広がっていったのだ。
そんな益体もない思考が舞い散る落ち葉のようにヒラヒラとユラユラと僕の頭の中で重なり合っていた。
大学図書館に着いた僕は、受付のお姉さんに挨拶を済ませ、哲学書が並ぶ本棚へと足を運ぶ。
そこから数冊の本を抜き取り、僕がいつも座る奥のテーブル席へと向かった。
静かに、本のページをめくる。
そこには、プラトンに関する記述がある。
プラトンは古代ギリシャのアテナイにある、アカデメイアという場所に、学園を開設した。この地名がそのまま学園名となり、これがアカデミーの語源となっている。
哲学が体系化されていないイデアで、アカデメイアのような学園を開設出来たならば、それは計り知れない程、やり甲斐を感じることが出来るだろう。ソクラテスやプラトンなどの偉大な哲学者の考えをなぞるので手一杯な僕にはまだ、大き過ぎる話だが。
過去の偉大な哲学者に思いを馳せていると不意に後ろから声をかけられた。
「おはよう、哲也君、朝から勉強熱心だね」
二つ上の、三年生の先輩である『新田 剛志』さんが静かに話しかけてきた。
「おはようございます、剛志さん。相変わらず、締まってますね」
筋骨隆々な肉体が、タンクトップ姿から伝わってくる。
「あぁ、今朝も上げてきたからね」
剛志さんは、そう言って、バーベルを上げる動作をして見せた。
「朝から精がでますね。図書館には何の用事で?」
「来年には教育実習があるからね、指導案を見にきたのさ」
バリバリ体育会系に見える剛志さんだが、教職課程を履修しており、なんと専門は国語なのだ。人は見かけによらない。
「生徒に授業をする際に気をつけていることなどがあれば教えて頂けませんか?」
哲学書が完成すれば、アンス王女との授業も本格化するだろう。その前に、一つでも多くのポイントを知りたかった。
「あれ? 哲也君は教職取っていないよね、家庭教師のバイトでもするのかい?」
剛志さんが不思議そうにこちらを見た。
「えぇ、まぁそんな所です」
流石に、王女に哲学を教えるとは言えない。
「俺もまだ、教育について学んでいる身だし、教育に終わりはないと思うから、偉そうなことは言えないけれど、まずは生徒に興味を持って貰えることを意識しているかな」
「導入が大事ということですか?」
「もちろん導入も大事だね。でもそれだけじゃなくて、声の強弱の付け方や、板書の色分けに、授業の山場などの工夫で、生徒がなるべく飽きないような流れを作るようにしているよ」
聴覚や視覚からの情報をバランスよく使って、生徒の集中力を意図的に持続させるわけか。そう考えると、上手い授業の流れは、他者の精神を巧みに誘導しているとも言える。
まるで精神魔法のようだ。
「上手いことリードしていくイメージですか?」
僕が剛志さんに問いかける。
「アシスタントティーチャーとして、現場の教育を間近に見学させて貰っているけれど、生徒からの信頼が厚い教師は、皆さん、巧みに練られた授業で生徒をまとめ上げているよ」
俺にはまだまだ出来ないけれどね、と付け加えるようにして照れ笑いを浮かべる剛志さん。
「なんだか指揮者のようですね」
オーケストラという名の一つの大きな楽器を演奏する指揮者。多くの人が集まればそれだけ多様性も生まれるが、意見の対立も生じる。
多くの人が集まる場所には、それを統率する存在の必要性が生まれる。
軍隊における指揮官しかり、国を統率する国王しかり、学校における教員しかり。
それらの統率する側の意思が、集団の意思を誘導するのだ。
「それに哲学者もそうだよね?」
剛志さんが声のトーンを上げて試すように僕に問う。
「確かに、その通りですね」
僕のその返事を最後に、剛志さんは自分の作業へと戻っていった。
哲学という学問を切り開いてきた人物は皆、多くの人々の思考を誘導してきたと言える。そう考えれば、哲学と言う学問には、人の心を揺さぶり、変化をもたらす力があるのだろう。
この考えが脳裏をよぎった瞬間、僕の中で別々な場所にあったパーツ達が、拠り所を見つけはじめ、集まりつつあった。
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