第26話『モノクロの世界』

 宮殿内は不気味な程、静寂に包まれていた。そして、うっすらと薔薇に似た香りが漂っている。


 神経を尖らせながら、ゆっくりと、誰もいないエントランスを進む。敵や味方に限らず、あまりにも人の気配がない。一体どうなっているのか?


 いくつかの部屋を見てまわったが、人っ子ひとりいなかった。人が居そうな場所で、残されているのは、王の間位だ。僕がアンス王女とはじめて出会った場所でもある。


 王の間の扉に手をかけ、一気に扉を開けた。

その瞬間、室内に充満していたであろう、赤紫色の煙が、一気にこちらに流れ込んでくる。急いでローブの袖で口元を覆うが、ほんの少し、肺に吸い込んでしまった。


 王の間には、異様な光景が広がっていた。赤紫色の煙が部屋中を満たし、その中で、物音一つ立てずに、敵味方合わせて二十人程の男達が整列している。そして、階段の最上段の王の椅子には、一人の女性が不敵な笑みを浮かべ座っていた。この煙の出どころは、彼女が持っている細長いキセルだろう。そして、その隣には、両手両足に枷をはめられた、意識のないアンス王女が横たわっていた。


「あら、随分と可愛い救世主様の登場ね?」


 王の椅子に座っている女性が艶やかな声で言った。


「……」


 相手はおそらく、精神魔法師だ。うかつに口を開くのは危険だ。それにこれ以上は煙を吸うわけにはいかない。


「あら、賢い坊やねぇ。煙の正体に気づいたのね? 私の名前はシェイネよ。よろしくね」


 彼女の言葉には、心を乱すような色香がある。その白い首筋や、女性らしさを強調するような仕草全てが男を狂わせるのだろう。この煙による香りと、彼女本人が持つ色香で敵を惑わせ、精神魔法をかけるのだろう。


「あんまり黙っていると、退屈しちゃうわ。あまりにも退屈だと、王女様で遊んじゃうかもね」


 彼女はそう言って、アンス王女の髪を撫でる。


「わかりました。ですから、アンス王女から手を離してください」


 今は応じるしかないだろう。それに、エントランスにいる際に、わずかな香りに気づいた僕は、エルヴィラさんに貰った、例の香水をローブに染み込ませている。この刺激臭が続く限りは、ある程度の誘惑には打ち勝てるだろう。


「私は名乗ったのだから、坊やの名前も教えてちょうだい」


 艶やかさを多分に含む声音で彼女は言った。


「僕の名前は、フィロス。宮殿にて、アンス王女に仕えています」


 僕がそう言うと、彼女は満足そうに笑った。


「なるほどねぇ、坊やがフィロス君で間違いないのよね?」


「まるで、僕を探していたような口ぶりですね。目的はアンス王女ではないのですか?」


 僕がそう問いかけると、彼女は不敵に笑った。


「王女を欲しがっているのは、今回の内乱の首謀者のアルヴァロよ。私とエオンが仕えているのは、あんな小悪党じゃないわ。そして私達の目的は貴方なのよ」


「なるほど、今回の一連の騒ぎとは別件で貴方達に命令を下した人物がいるわけですね?」


 それにしても、なぜ僕なのだろうか? 最年少で国家魔法師になれたとはいえ、現段階での実力は、よくて並だろう。そんな僕をさらう理由が見当たらない。


「あの方が、他人に興味を持つのは珍しいからね」


 あの方とは、いったい……。それに、どのような意図で僕なのだろうか。


「では、僕が大人しく従えば、アンス王女は見逃していただけますか?」


「あら、勇敢なのね。そう言う男は好きよ。坊やの忠義に免じて、王女は見逃してあげるわ。元々、私達はあなたを連れていくことが目的なわけだしね?」


 話しの通じる相手で良かった。これで最悪な事態は避けられる。


「では、交渉成立ですね」


 そう言って僕は、ゆっくりと相手のもとへと歩いていく。


「じゃあ、念のためにも、坊やに精神魔法をかけるから、そのローブを脱いで、懐の香水をこちらに渡してくれるかしら?」


 彼女は、その潤んだ瞳で僕を見つめながら言った。やはり、香水の存在は見破られていた。


「わかりました」


 そう言って、ローブを脱ぎ、香水を渡す僕。


「では、いくわよ、抵抗はなしよ?」


 いくつかのやり取りを済まし、精神魔法をかけられる、まさにその瞬間、聞き慣れた声が僕の鼓膜を振動させた。


「待たせたのぅ!」


 バールさんはその一言を言い終わる前に、シェイネの動きを完全に抑えていた。


「くそ! 大賢者バールか!」


 ここにきて初めて、焦りの表情を見せるシェイネ。


 チャンスは今しかない。アンス王女のもとへ駆け寄る僕。しかし、彼女の操っていた兵士達が俊敏な動きでアンス王女の前に壁を作る。


「邪魔じゃのう!」


 バールさんは、その一言で、兵士の支配を奪う。よし! 僕はアンス王女へと手を伸ばす。


 あと数センチの距離だ。


 しかし、僕の手は、空を切ることとなった。

僕の目の前から、突如として、アンス王女が消えた……。


「何を遊んでいるんだい、シェイネ?」


 最悪のタイミングで、現れたのは、またしてもこの男。エオン・アルジャン。


「遊んでいるように、見えるのかしら?」


「確かに、バールさんが出てきた以上は、遊んでいる暇はないようだね」


 最強の騎士がバールさんを警戒している。


「ワシは、そこのベッピンさんを捉えとくので手一杯じゃよ」


「ご謙遜を、シェイネを捉えた上で、私の行動も制限しているではないですか。しかし、惜しかったですね。ここに煉獄姫もいれば、そちらの勝利でしたのに」


 エオンさんがこっちに来ているということは、リザは……。


「リザは……」


 僕は最悪の状況を考えるあまり、つぶやくような声で小さくそう言った。


「あぁ、彼女との戦いは、久々に心躍りましたよ。あと数年あれば、その剣は私に届いたでしょうね。でも、それはもう叶うことはない。彼女は最後まで、フィロス君を気にかけていましたよ。戦いの最中に考えごととは、愚かな。だから彼女は死んだのです」


 リザが死んだ……。そんなバカな話があるか。彼女はいつだって、真っ直ぐで正しかった。僕にとってのリザは、強さの象徴のような少女だ。だから、今回だって……。


「彼女は自身の命が尽きるという、その最期の一瞬に、こう言いましたよ。『ごめん』と一言だけね」


 その光景が脳裏に浮かんだ瞬間、僕の世界は色を失った。


 視界に広がるのはモノクロの世界。そこには、音も匂いすらない。ただそこには、黒と白のみの景色が広がっている。


 人の思考が溢れかえっている。皆、栓を閉め忘れたのだろうか? あるいは鍵を閉め忘れたのか? いや、僕が栓を抜き、鍵をこじ開けたのだろう。今ならそれがはっきりとわかる。


 色を失った世界は、僕に必要な情報のみを与えた。この力は恐らく、ラルムとは対極に属するものなのだろう。色彩豊かな彼女の世界は暖かさと優しさに包まれていた。しかし、二色で塗りつぶされた僕の世界には、冷たさと無感情な思考が際限なく広がり、孤独によって支配されていた。


 色とりどりな黒に塗りつぶされ、柔らかい鉄に引き裂かれる。僕という存在は矛盾した表現が積み重なった、集積場。心が減ることはない、心は千切られるのだ。千切られた空白には血のセメントが流しこまれる。心は減らない。心は汚れるのだ。


 そんな行くあてのない思考が、一瞬のうちに僕の頭を駆け巡った。


「返して下さい」


 僕は確かにそう言ったのだろう。今の僕には音が聞こえない。


「返して下さい」


 次に僕がそう言った時には、最強の騎士が膝をついていた。


「返して下さい」


 あれ、僕は何を返して欲しいのだろう?


 眼前には、敵二人が倒れ伏している。


「返して、返して、返して、返して、返して」


 僕の瞳からは、黒い血が流れているのだろう。視界がもう、真っ暗だ。このまま、底まで沈みこんでしまいたい。しかし、先ほどからそれを邪魔する者がいる……。随分と遠くから、僕の世界に色を塗ってくる存在がいる。その色には見覚えがある。この暖かさは……。



「フィロス君! フィロス君!」


 こんな声を僕は知らない。だって、ラルムはこんなに声を張り上げられる子じゃないんだから。


 僕の視界には、色彩豊かな瞳がうつっていた。その瞳からは、大粒の雨が降り注いでいる。


「ラルム?」


 僕が意識を取り戻すと、そこには、ラルムとルナ教官の姿があった。


「良かった、本当に……」


 そう言って、僕の顔に虹色の涙を落とすラルム。そうか、僕の頭は今、彼女の膝の上にあるのか。


「私が駆けつけた時にはすでに、王の間にいる全ての人が倒れていた。かろうじて、バール殿の意識があったので、事情はその時に聞いた」


 ルナ教官の声に耳を傾け、意識を周りにやると、そこは、宮殿内の医務室のようだった。


「ラルムの意識の同調がなければ、君の精神は壊れていたじゃろう」


 疲弊しきった顔のバールさんが、隣のベッドに横たわりながら言った。部屋の中を見渡すと、意識を取り戻した、アンス王女の姿があった。本当に良かった、無事で……。


「ありがとう、ラルム」


 僕はまず、命の恩人であるラルムへと深く頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。彼女の涙は止まりそうにない。


「アンス王女、本当にご無事で何よりです」


 この姿をもう一度見るために、僕達は戦った。僕達は……。


「フィロス、助けてくれて、本当にありがとう。またあなたの顔が見れて、本当に嬉しい」


 ここまで堪えていたのであろう涙を流す、アンス王女。


 命を天秤にかけることなど、誰にも許されることではないが、今回の勝利の代償はあまりにも大きかった。リザ……。


 僕がそうして、悲しみに打ちひしがれていると、ドンドンっと、強めのノックが医務室のドアを揺らす。


「いやー、それにしても、やっぱ、王国最強は伊達じゃないなー!」


 扉を叩いて、入ってきた人物は、リザだった……。これは、僕の悲しみが見せている、幻覚だろうか。


「リ、リザ?」


 僕が恐る恐る問いかける。


「なんだ?」


 幻覚の症状と幻聴が合わさっているのだろうか? それとも精神魔法にでもかかっているのだろうか?

 

「あれ、なんで、生きてるの?」


 わけがわからない……。


「いやー、戦いに負けて意識を奪われたんだが、なぜかそのまま、殺されなかったみたいだ」


 エオンさんは嘘をついていたのか? 一体、何の為に? 


 だがしかし、今はそんなことなど、どうでも良かった。リザが生きて目の前にいる。今は、その事実だけで充分だ。


 僕の目にも、涙が溜まってきたのがわかる。今度のそれは、黒い涙などではなく、正真正銘の透明な液体だった。


「おいおい、泣くなよ、男だろ?」


 リザの発言に対し、アンス王女が口を開いた。


「涙は嬉しい時に流すものだから、それでいいのよ。それはそれとして、フィロス、はやくその女から離れなさい、精神の同調はもう要らないでしょ!」


 先ほどまで、涙を流していたかと思うと、今度は顔を真っ赤にして、僕とラルムを引き剥がしにかかる、アンス王女。このせわしなさが無性に懐かしく感じる。


「まぁまぁ、そう怒らずに、ここは王女の懐の深さを見せる所ですぞ?」


 バールさんがそう言ってちゃかしに入る。


「王女といえば貴方もよね?」


 アンス王女がリザに問いかける。


「あぁ、俺はリザ・ヴェルメリオ! リザって呼んでくれ!」


「えぇ、私のことはアンスでいいわ。あと、そこの貴方は?」


 アンス王女がラルムに問いかける。


「えっと、ラルムです……」


 先ほどまで、脱いでいたフードを目深に被り、恥ずかしそうに自己紹介をするラルム。


「弟子のライバルが王女二人とは、何とも複雑な状況じゃのぅ」


 バールさんが愉快そうにつぶやいた。


「すみません。聞きたいことは山ほどあるのですが、今日はもう自室で休んでも良いですか?」


 僕はそう言って、みんなの顔を一望したあとに自室のベッドへ向かった。


 今日一日で、本当に色々な事が起きた。一度眠って、心の整理をつけたいところだ。僕は眠りにつくことなど出来ないのだけれど。


 まぁ、向こうでの平和な日常でも過ごして、一旦心を落ち着かせるとしよう。

 

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