第22話『香りのもたらす効果』
集団戦の訓練が行われてから数日が経ち、現在は精神魔法の訓練の為、指定されている部屋にまで来たのだが、そこには、いつも先に待っている、バールさんの姿がなかった。
「あれ、バールさんが先に来ていないなんて、珍しいね」
僕が、隣に立っているラルムに同意を求めると、コクコクと、その白く細長い首を縦に振った。
「師匠に限って遅刻はない……」
確かに、彼女が言う通り、バールさんは、決められたルールには厳格な所がある。
その後、十分ほど二人で談笑を続けていたら、扉がノックされる音がした。
「やぁ、遅れてすまないねぇ。久しぶりだね、フィロス君。あの本は有効活用してくれているかい?」
扉を開けて現れたのは、バールさんではなく、カルバンの古書店で働く、女店主のエルヴィラさんだった。
「はい、大変為になる内容でした。エルヴィラさんが来たということは、バールさんは急用ですか?」
僕がそう言って返事をすると、エルヴィラさんは顔をしかめてこう言った。
「あのジジィの変わりってのには、引っかかるけれど、フィロス君の成長も見てみたかったからね」
エルヴィラさんがそう言うと、ラルムが肩を震わせながらも小さな声でこう言った。
「師匠を悪くいわないで……」
ラルムが人の言い分に反発するのは、珍しい。よほど師匠が大切なのだろう。
「あぁ、すまないねぇ。癖みたいなものなんだ。それにしても、バールにはもったいないほど、健気な弟子だねぇ」
優しい表情で、ラルムに語りかけるエルヴィラさん。
「エルヴィラさんは、どのような授業をしてくださるのですか?」
バールさんとは違った形式になるのだろうか。
「私の専門は、香りを使った精神魔法だよ」
そう言って、エルヴィラさんは、手持ちの大きな袋から、いくつかの、カラフルな瓶を取り出した。
「それは何ですか?」
色鮮やかな液体が、様々な形をした瓶の中で、静かに揺れている。
「これは、香水だよ。嗅覚が五感の中で最も感情を揺さぶる力が強いからね。つまり、香りと精神魔法は、相性がとても良いのさ」
なるほど、確かに、アリストテレスが記した論文にも、においは不明確な感情を引き起こすと書かれてあったな。
香りは、人の感情や行動、記憶を司る大脳辺縁系へと直接働きかけるのだ。『考える』という行為を飛ばして、ダイレクトに伝わる、唯一の感覚なのだ。確かに、精神魔法との相性は抜群だろう。
「香りを使った精神魔法はとても強力……」
特殊な力を持つラルムからしても、強力と感じるのだから、その効果は絶大なのだろう。
「ラルムちゃんの言う通り。強力だからこそ、対策が必要なんだ。香りを充満させやすい、屋内などでは恐るべき効果を発揮する。香りを嗅いでしまった時点で負けるだろうね」
エルヴィラさんが、真剣な表情で言い切る。
「では、どうすればいいのですか?」
対処法はないのだろうか。
「基本的には、屋内の戦闘を避けるにこしたことはないがねぇ。でも、知識があれば対処出来ることもある。今日はその知識を教えるよ」
「お願いします」
僕の言葉のあとに、ラルムも一緒に頭を下げる。
「香りと言っても、様々な種類があるからね。その効能も千差万別だよ。ではまず、この香りを嗅いでみな」
そう言って、エルヴィラさんが、紫の瓶の栓をぬいた。
この香りは、なんだろう。穏やかで優しい、ラベンダーのような香りがする……。
「フィロス君……。フィロス君……」
ラルムの声が、ぼんやりとした意識の中で聞こえる。あれ? 僕は何をしていたのだろうか?
「やぁ、ずいぶんとぼーっとしていたね。君が今嗅いだ香水は、神経の緊張感や不安感を和らげる香りで、リラックス効果をもたらすものだ。そして、その香りを嗅いだフィロス君に、軽い精神魔法をかけて、放心状態に導いたのさ」
楽しそうに説明を続けるエルヴィラさん。香水が好きなことが伝わってくる笑顔だ。
「なるほど、凄い効き目ですね。僕は何分ほど、こうしていたのでしょうか?」
「精神魔法を浅くかけたからね、五分ちょっとだろう。しっかりとかければ、一日中は効くよ?」
香りと精神魔法の組み合わせの恐ろしさを肌で感じた。いや、鼻で感じたと言うべきか。
「では、次はこの瓶だね」
次の瓶は赤色の瓶だ。
今度の香りは、先ほどとは対照的で、鼻をつくスパイシーな香りがする。
「では、フィロス君。私に精神魔法をかけて、この香水の効果を読み取ってごらん」
言われた通り、エルヴィラさんに、精神魔法をかける僕。
「トレース!」
いつもと同じように、意識を同調させる魔法を使ったはずだが、僕の意識に流れ込む情報量が、通常よりも段違いに多い。なるほど、これらの情報を精査するまでもなく、この情報量の多さこそが、この香りの正体を自明的に表している。
「この香りは集中力を高めるものですね」
いつもよりも、数段冴えている実感がある。
「その通り、感覚を鋭くし、集中力や記憶力を上げる効能がある」
エルヴィラさんが丁寧な説明をしてくれる。
「なるほど、香り次第では、敵の不意をつくだけではなく、自身の精神を整えて、魔法の効果を上げることも出来るんですね」
「そうなんだよ。それ故に、扱うのには、膨大な知識がいる。では、最後にこれを試そうか」
そう言ってエルヴィラさんが手に取ったのは、オレンジ色の瓶である。
なるほど、柑橘系の香りがする。なんだか、幸せな気持ちになってきた。
「では、フィロス君、質問に答えてくれ」
「はい!」
えもいわれぬ満足感に満たされ、なんだか、頭がふわふわする。
「ラルムちゃんの良いところを素直に言ってみようか」
エルヴィラさんがニヤついた顔つきで言った。
「はい。まず一つ目は、物凄い才能を持っているにも関わらず、謙虚な所。二つ目は、瞳がとても綺麗な所。三つ目は、物静かではあるが、自分をしっかりと持っている所。四つ目は、仲間思いである所。五つ目は、小柄な体に大き過ぎるローブを着ており、本来であれば、ミスマッチのサイズ感が、逆に可愛らしさを演出している所。それに六つ目は、」
僕が、第一回『ラルムの良い所選手権』を開催していると、六つ目でエルヴィラさんに止められることとなった。
フードで顔は見えないが、ラルムの頭が小刻みに震えていた。羞恥で震えているのか、怒りで震えているのか、微妙な所であった……。
「フィロス君、それ以上続けると、君の印象に差し障るから止めておこうか……。それで、この香りの正体はわかったかな?」
エルヴィラさんが、苦笑しながら言った。
香り? あぁ、そう言えば、今は授業の最中だったな。
「相手の気持ちを高揚させ、油断させる香りでしょうか?」
いまいち、まだ、頭が回らない。
「まぁ、そんな所だね。正確に言えば、幸福感を感じさせる香りかな? 幸せな時には誰もが饒舌になるものさ。そこに精神魔法をかけ、相手から情報を引き出すのさ」
なるほど、相手の隠している情報を探れるわけだ。
「やはり、香りはどれも、即効性がありますね。考えるという、ワンクッションがないため、抗い難いです」
今日は見事に誘導されっぱなしの僕であった。
「しかし、究極の対策が一つだけあるよ」
複雑そうな表情でエルヴィラさんが言った。
「どんな対策ですか?」
「香りを上書きすればいい。別の強烈な香りを嗅げば、前の香りはかき消せるからね」
そう言って、エルヴィラさんは、こげ茶色の液体が入っている小瓶を僕達二人に、一つずつ手渡した。
「これはなんですか?」
僕が問いかけると、エルヴィラさんは、小難しい顔をして、こう言った。
「ヒントはゴブリンだね。それ以上言えば、フィロス君はいざって時に使えなくなるから、秘密にしておくよ」
ヒントの時点で、アウトなのだが……。というか、この世界における、ゴブリンの汎用性が高すぎる件について物申したい。どんだけユーティリティープレイヤーなんだよ。
「本当に追い詰められた時にだけ使いますね」
その時が来ないことを祈る。
「使用時は自己責任で頼むよ」
エルヴィラさんが、聞こえるか聞こえないかの声で、そっと一言を添えた。
理由を問いただしたかったが、この謎からは、危険な香りが漂っている。
日本のことわざに、『臭いものに蓋をする』という言葉がある。意味としては、根本的な解決をせずに、その場しのぎをするという意味だったはず。そして僕にも、日本伝統のその考え方が脈々と受け継がれている。
いや、この場合、ことわざうんぬんよりも、本当に直接的な意味において、臭いものに蓋をしているだけなのかも知れない。
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