第2話『精神と身体』

 スマートフォンの機械的なアラーム音が部屋中に鳴り響いている。


 宮殿内の豪奢なベッドで眠りについた僕は、六畳一間の隅にひかれた、シワシワな布団の中で目をさます。


 もう八時半か、全く眠れた気がしない。それもそのはずだ。ここ数ヶ月、一分足りとも眠りにつけてはいないのだから。しかし、それでもどういう訳か、身体への影響が全くと言って良いほどに出ていないのだ。


 布団からゆっくりと出た僕は洗面台に向かった。そこには、新谷哲也としての自身の顔がはっきりと映し出されていた。


 ソクラテスをはじめとするギリシャ時代の哲学者は、理性を重視する合理主義者が多く、理性的存在として、自己を確立する重要性が人間の使命とまで言っている。そして、精神的健康は自己に対する正確な認識が必要だとも述べている。


 今の僕は日本で暮らす新谷 哲也という青年の身体と、あちらの世界で暮らすフィロスという小さな少年の身体を持ち合わせている。


 一つの精神に対して肉体は二つ用意されているのだ。今の僕が自然体では無いことは明らかである。そんな僕が、自己に対する正確な認識を行えているのだろうか?


 肉体と精神の関係性については様々な哲学者達が何百年もの間、意見を交わしてきた。しかし、その誰一人として、二つの肉体を所持したことは無いだろう。

 少なくとも、現在の段階で、自身が感じとることの出来る範囲のみにおいては、僕自身が精神的健康を著しく損ねているとは思えない。しかし、この問題を考える上で、すでに僕の自己認識が正確に行えているのかという根本的な問題があった。


 そんな堂々めぐりで頭を回していたら、いつの間にか家を出る時間になっていた。


 * * *


 特に理由もないが今日は先頭車両に乗った。僕は通学に電車を使っている。普段は車内の窓から流れる景色を唯々眺めるだけの時間だが、今日は先頭車両に乗ったため進行方向を見つめることが出来る。そうやって道の先を見通していると、不思議と思考がまとまってきた。


 大学の最寄駅に着き、学内までの一本道を早足で歩く。駅から大学までの距離は短く、徒歩でも十分程度だ。大学内にたどり着いた僕はエレベーターに乗り次の講義がある講堂を目指す。


 講堂内にはすでに沢山の生徒が集まっている。井上教授の講義は哲学の基礎的な知識をわかりやすく説明しているため、哲学科以外の生徒も受講している。僕が席に着いてから数分後、講義が始まった。


「私は懐疑論が嫌いではない。しかし懐疑論者は嫌いなんだよ、なぜだかわかるかい?」


  そう言って教授は前列に座っている学生に問いかけた。


「懐疑論者は根暗だからですか?」


 前列の生徒がそう答えると、教授は笑いながらこう言った。


「それは良くない決めつけだね、私は大いに賛成するがね」


 講堂内の多くの生徒達が笑った。


「それに、私は根暗なだけで人を嫌いにはならないさ、やつら懐疑論者は、皆一様にけんかっぱやいのだよ、実際に試してみようか。では、そこの君、2+3はいくつかな?」


「はい、5です」


 教授に当てられた生徒が答えた。


「本当にそうかな? 君は今、何者かに洗脳されていて、それが正しい答えだと信じこまされているだけかも知れないよ?」


 井上教授が、試すような口ぶりで言った。


「2+3が5であるということは、誰の目からみても明らかなことですし、数式を使って出された答えなのだから、2+3が5というのは真理だと言えますよ」


 眼鏡をかけた生徒が自信ありげに答えていた。


「では、歴史上の全ての数学者達が洗脳されていて、私たちが嘘の知識を植え付けられていたら?」


 井上教授が愉しげに語りかける。


「嘘の知識を与えられていたとしても、誰一人として気づかないなんてことは、ありえません」


 眼鏡の位置を直しながら、生徒が答えた。


「では、そもそも、人類全てが悪魔に洗脳されていたら?」


「そんなバカバカしいことを言いはじめたら、全てのことを疑わなければいけないじゃないですか」


 あきれたように、言い捨てる生徒。


「その通り、懐疑論とは、全てのことを疑うことからはじまるのさ。だから懐疑論者は、けんかっぱやい。お前の考え方は決めつけだ! 疑う余地があるじゃないかってね」

 


 井上教授のやり方はとても上手い。まず、最初に質問を投げかける生徒は哲学科ではない人を選び、会話によって哲学の基本である部分を実体験として感じさせるのだ。そうすることにより、哲学に興味の無い人を引きつけ、哲学科の生徒には、どのようにして哲学的な思考を他者に伝えるのかを教えている。


「ここまでの話だけを聞くと、哲学ってのは常識批判なのかと思ってしまうけれど、そうじゃないんだ。あらゆる非常識を残りなく包み込んだうえで常識に達するのが哲学の理想だと私は思う」


 優しく諭すように、自論を語る教授。


「常識の再確認こそが哲学の課題と言いたいのですか?」


 哲学科の顔見知りが教授に質問を投げかけていた。


「再確認というよりは、再建だね、つまり、常識を立て直すのさ」


「……」


 答えて貰った生徒はピンときていないようだ。


「あまり、ピンときていないようだね。では、みんなも知っているであろう、デカルトの話をしよう。デカルトは正しい知識を持つためには、一度全てのことを疑い、全てを新しくはじめなければならないと考えていた。そして、その中で確実で疑う余地のないものだけを残して、それ以外の、少しでも疑う余地のあることは、はっきりと間違っていることとしたのだ」


 教授がスムーズに話を進める。


「極端な考え方ですね」


 生徒の一人が声をあげた。


「その通り。彼は極端な考え方の持ち主だからね。デカルトは考え得る全てのことを疑っていくうちに、とんでもないことにまで疑いをかける。全能の神が私に幻覚を見せているとすれば、全ては嘘になると。時間も空間も何もかもが幻覚なのだと」


「もとも子もない話ですね」


 一人の女子生徒が言った。


「確かに、そうだね。しかし、デカルトはあきらめの悪い男だった。例え、森羅万象すべての事が虚偽だとしても、虚偽だと思っているのはこの私だと。デカルトとして生きてきた記憶は全て幻覚だったとしても、自分自身を幻覚かも知れないと疑っている私は確かにいるのだと考えた。つまり、神だろうが悪魔だろうが、超常的な力で欺かれているのだとしても、少なくとも、そのとき私がそう思っているということは否定しえない事実だと述べたのだ。この考え方が、世に言う、『われ思う、ゆえにわれあり』なのです」



 教授の講義が終わり、帰りの電車に揺られながら、こんなことを考えた。確かにデカルトは当時の常識を破壊し、新しい常識を再建しようと試みたのだろう。デカルトの考え方に批判的な哲学者も大勢いるが、現在、人として途方もない程に不安定な状況下にいる僕には、この言葉だけは真実のように思えた。いや、信じたいだけなのかも知れない。『われ思う、ゆえにわれあり』

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