僕と猫とα星の恋人 【後編】
彼女のアパートは、ふもとの街に近い国道沿いに面する1LDKで。この辺りには、その利便性から多くの研究員やスタッフが住んでいた。
僕が助手席のドアを開けると。
「ありがとう、凄く楽しかった」
別れを悲しむみたいに、彼女はそう呟いた。
「どうせ明日、研究室で会うよ。またよろしくね」
ふざけて僕がそう言うと。
「あー、総務から連絡が行ってないのかな? 明日からあたし有休よ。
先生にも…… 相談したと思ったけど」
すねたように口をとがらせて、フェイ・シュンは僕を上目づかいに睨んだ。そう言えば仕事の切れ間がどの辺になるか、そんな相談を受けてたような気がする。
僕が困ってたら。
「まあ良いわ、それより寄ってきますか?
――お茶ぐらい出しますけど」
そう言って、彼女はスッと僕に身体を寄せてきた。多くな2つの膨らみが僕の胸に当たり、お互いの心臓が早鐘を打つのが分かった。
切れ長の瞳に、整った顔立ち。まだあどけなさの残る口元……
僕がその顔に見とれて、立ち尽くしてると。
「あー、あたし魅力ないですか? それとも好みじゃなかったとか……
先生、ゲイってわけでもなさそうですし。
――実は秘密の恋人とか、奥様がいるとか」
どれも違ってたから、僕はゆっくりと首をふって。
「いや、凄く魅力的だし。今もドキドキしてる」
そう答えると。
「じゃあ、あの女の子の話が気になってるの? それともあたしが中国人だから……」
探るようにフェイ・シュンは、小声でそう呟いた。
「あの子って……」
僕がそう言うと、彼女は前髪をそろえてハサミで真っ直ぐ切りそろえるようなジェスチャーをして。
「みんなミーテングルームを出たけど、あたしだけ廊下で立ち聞きしてたの。
――あれは本当よ、でももう終わった話。
先生は女の過去を気にするタイプなの?」
さらに小声でそう聞いてきた。僕はその事に対して、よく考えてから。
「そんなに気になるタイプじゃないと思うし。あの話を聞いても特に何も思わなかったよ、ただ…… 大変だなあって思っただけで」
「じゃあ……」
僕は彼女の言葉をさえぎるように。
「きっとヘタレと言うか、勇気が無いだけだよ。 ……それに、もっとお互いを知ってからと言うか」
ちょっと意味不明ぎみの言い訳をしてしまった。
彼女はなんだかあきらめたように笑うと。
「そう? なら、そう言う事でいいわ」
急いで立ち去ろうとしたから、僕は慌ててその手をつかんだ。
「まって!」
そう言うと、やっと彼女は立ち止まり。ゆっくりと振り向く。
「もう…… 気にしなくても良いわ、こうゆうのも初めてじゃないし」
そう言ったフェイ・シュンの瞳には、輝く何かが溢れていた。
「僕には人種や生まれに対する差別意識なんて……」
その言葉に。
「そうね、あなたは日本人でもアメリカ人でもないし。ましてや中国人でもないものね…… α星の住人だもの。あたしね、ひょっとして分かり合える人が見付かったんじゃないかって思ったんだけど。 ――きっとこれは違うのよね」
そんなことを言って、無理に笑顔をつくった。
「僕たちはもっと分かり合えると思うんだ」
でも、僕のその言葉に彼女は不審そうに。
「この国はあたしの国じゃないけど、中国もあたしの国じゃないのよ。
そして誰もが皆、α星に住むことを憧れても…… あなたのように、平然とそこに住むことなんかできないわ ……人間誰もが、あなたのように強くないのよ」
そう言って、アスファルトの上にポタリと大きな涙を落とした。
「きっと、それにはもっと時間が必要なんだ。そんな気がして……」
僕がもう一度彼女の手を包み込むように握りしめると。
「そう……」
フェイ・シュンは、もう一度困ったような笑顔を向けた。
「じゃあ、そうね」そしてハンドバックからスマホを取り出して。
「……また連絡くれない」と、そう言ってくれた。
僕がまだ日本のスマホになれてないこと。
そのSNSアプリも登録していないことを告げると。
「さすがα星人ね、まずそこからなんとかしなきゃ」
やっと、ちゃんと笑ってくれて、メモ用紙にメールアドレスを書いてくれた。
僕もその用紙を受け取り、念の為にアドレスを書いて渡す。
バタバタしていたら、他の住人がこちらを覗くように窓をそっと開けたから。
「じゃあ、ちゃんと連絡するよ」
僕はそう言って、慌てて車に乗り込んだ。
そして家に着くと、バーベキュー臭い服を洗濯機に放り込み。
残ったビールを数本、乾いた喉に流し込んだら…… 疲れてたんだろうか?
おどろくほどの眠気が襲ってきて……
――僕はソファーで、野良猫のように眠りについた。
+++ +++ +++
心配そうな顔の猫の、ざらついた舌の感覚が頬を撫でて。
僕はやっと目を覚ますことができた。
時計はまだ朝の5時を回ってなかったけど。
頭痛と吐き気のせいで、あらためてベッドに向かう気にはなれなくて。僕はシャワーを浴びると、猫と自分の朝食の準備を始めた。
途中何度か、気味の悪い違和感に襲われて。
いつものコーヒーが、より不味く不気味な味に変わったけど。
悪酔いした舌には、ちょうど良い酸味だった。
少し早めのニュース・ショーは、キャスターの顔ぶれも違ってて新鮮だったから。
いつもより幾分長い時間、眺めることができた。
そして話題が、スマートフォンのながら見で起きた交通事故に変わって。
――僕はやっとその違和感の正体に気付いた。
昨日彼女に渡したアドレスは、アメリカ時代に使っていたもので。
日本で新規契約した際に、破棄したものだったことを……
うっかりとは言え、なにしてんだかと。
謝罪の言葉を考えながらポケットを探っても、フェイ・シュンからもらったメモが見つからない。
バタバタしてたら、また心配そうに猫が見上げてきたから。
「昨日酔ってて、そのまま洗濯機に服を放り込んだっけ」
猫の頭を撫ぜてから、脱衣所まで歩き。
洗濯が終わった衣類を発見して、呆然としてしまった。
「いつもなら、夜中にスタートボタンなんか押さないのに」
慌てて、昨日着ていたパーカーのポケットを探ると。
ボロボロになった紙屑が出てきたけれど、やっぱりそれを読み取ることはできなかった。
何故そんなことをしたのか……
酔ってたから? ただの偶然?
その日はそんなことばかり考えてて、仕事でもつまらないミスを繰り返した。
それでも仕事の切れ目だったから、なんとか定時に研究室を出て。
彼女のアパートまで足を運んだけど……
ベルを押しても、決して誰も出てはこなかった。
念の為、謝罪とちゃんとしたアドレスを書き込んだメモを郵便受けに入れて、その日は家に帰ったが。
どうしても治まらない頭痛のせいか。
吐き気ばかりで…… 結局食事もとらずにベッドにもぐりこんだ。
なかなか訪れない眠気をじっと待っていたら。
あの前髪がそろった女の子の言葉が、僕の脳裏に何度もこだました。
「あの子、前の課長と不倫してたんです。それで課長は奥様とも別居して、この研究所も辞めました。あたしたち研究員も、外注の技術者もみんな知ってます。
――気を付けた方がいいですよ」
フェイ・シュンの言葉も、聞こえてくる。
「あれは本当よ、でももう終わった話」
僕がなにかを伝えようともがいても。
「それともあたしが中国人だから……」
彼女は、何度も何度も。想像の中で、冷たい涙を流した。
「人間誰もが、あなたのように強くないのよ」
大声で、その言葉に異を唱える。
そう…… 僕なんか、決して強くはないんだと。
そして、さっき画像検索で見つけたモンスターが、虹色に輝くα星の大気を泳ぐように優雅に飛んで行った。
眠りにつくまで、僕は……
――その美しさに、言葉を失っていた。
+++ +++ +++
翌日、ダメもとで総務部に掛け合ってみたが。
「個人情報保護法の関係で、お教えすることはできません」
その化粧がユニークすぎる小太りのおばちゃんは、痴漢でも見る目つきで、僕にそう告げた。
そして、彼女の有休は今月いっぱいまで提出されていたこと。
今朝彼女が直接総務部を訪れて辞表を提出したことを、とても自慢げに話した。
個人情報保護法はそんな意味の法律じゃないと、教えてあげようかと思ったが。
いろいろと自分の愚かさにあきれ返って、僕はそれを断念した。
研究室に戻る途中、自販機で缶コーヒーを買う。ひとりになった研究室で一休みするために、飲みなれないそいつのプルタブを引いた。
……そう、この缶コーヒーも日本独自の文化だ。
僕はその甘すぎる不思議な液体を体内に流し込みながら、フェイ・シュンの言葉を思い返したけど。彼女の最後の質問に、僕は確りと答えることができなかった。
そして、思考は徐々にα星へと移る。
その虹色の空には、美しく巨大なButterflyが優雅に飛び。
荒れた大地には、約束された2人の恋人と無口な猫がいて。
民族も宗教もなく、温かな信頼だけが存在する。
もしそんな素敵な場所があるのなら、僕はきっとそこに住み続けるだろう。
たったひとりの研究室で、
まるでいつか見つかる、約束の大地を探すように。
だから僕は、どうしても消えないざらついた苦みに耐えながら……
――その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます