第五章 1-2

 頭の中での計算が確かならば、そろそろ目的地が見えてきてもおかしくない。


 あの小高くなっている丘を越えたら、畑が広がっているはずだ。


 高低差二メートルの緩やかな坂。これを登った先に、きっとある。あってくれ。




 丘を越えた瞬間、彼の目に、若緑色の線が何本も並んでいる光景が飛び込んできた。




 これはトウモロコシ畑だ。まだ若いが、しっかりとした葉を生やしたトウモロコシが、広大な農地に並んでいる。


 目的地に住む人々の畑に違いない。


 それにしても広いな。彼らにとって、この畑は外の世界との緩衝地帯と言ってもいいのかもしれない。


 とにかく、この畑の奥に村があるはずだ。早く突っ切って行こう。追っ手が来ない保証などない。




 畑に踏み入れると、トウモロコシ独特の瑞々しくもアクが強い香りが出迎えた。




 トウモロコシ畑の中は、視界を遮られて不安になるな。


 これらが収穫されるのは、一ヶ月後あたりだろうか。花柱はまだ茶色くないし、包葉は一回り痩せて見える。


 収穫期は、さぞかし心躍るのだろうな。もし命が助かったら、いつか作物を育ててみたい。


 この願いは叶うだろうか。




 何本ものトウモロコシをすり抜けて畑から脱すると、今度は林が出迎えた。




 あれは、オークの木か。帯状にいくつも植えられているな。


 目隠し目的で植えられたのだろうか。きっとそうだろう。村の近くまで来たような気がする。この奥に行ってみよう。




 ロレンスは五重ごじゅうに植えられたオークの幹に触れては去りながら、林の奥を目指す。


 頼りがいのあるオークの幹との別れを惜しみながら林を抜けると、その先には、彼が求めていた光景が広がっていた。




 これは凄い。木の柵が何百メートルも続いている。とても広い放牧場だ。


 ここだ。やったぞ。やっと着いた。


 ここがアーミッシュの土地であることは間違いない。


 先ほど通り抜けてきた畑の横の道路には、馬車注意を意味する黄色い標識が見えた。馬車に乗ったアーミッシュが、この周辺を通ることの証拠だ。


 やった。望みが繋がったぞ。この場所に逃げ込めば、奴らは追ってこられないはずだ。私を追跡するのは困難だろう。


 彼らは外の世界とは関わろうとはしないので、通報されるリスクは限りなく低い。


 アーミッシュは現代文明の道具を許容しないので、通信機器で通報したりはしないはずだ。


 もし通報すると勧告されたとしても、逃げられる可能性は高い。彼らは通信機器を持っていないので、通報したい場合は町まで出かける必要がある。その間に全力疾走すればいいんだ。


 状況は悪くない。好転してる。


 しかし、まだ悪夢は終わっていない。問題は、私が彼らに受け入れてもらえるかどうかだ。ここからが本番なんだ。よく観察しなければ。


 この村の戒律の度合いを見抜かなければならない。彼らが過度に排他的だった場合、よそ者である私は追い出されてしまうだろう。


 しかし、全ての共同体が厳しい戒律の元で暮らしているというわけではない。


 教義の捉え方は、共同体によって様々だ。近代文明の道具を絶対に使用してはならないと定められている村もあれば、所有さえしなければ使用しても問題ないと定められている村もある。


 電気を使用してはならないが、天然ガスを燃料にしている空気圧縮機によって作り出した空気圧で動作する機械ならば、いくらでも使用してもいいと定められている村もある。


 彼らは様々な解釈の下に、信仰を貫いているらしい。この共同体はどうなんだろう。


 この村に立ち入るのは賭けだ。命懸けの、とびきり大きな賭けだ。


 最悪の場合、通報されてしまうだろう。


 しかし、私にはもう、ここに逃げ込む以外の選択肢が残されていない。行動するしかないんだ。


 伏せながら近づいて、村の様子を見てみよう。



 右奥には白壁の住居群と、いくつかの小型風車が見える。


 風力を何に使っているんだろう。製粉だろうか、それとも井戸汲みだろうか。


 風車を用いているということは、どうやら、この共同体では太陽光発電とモーターの使用を認めてはいないらしい。戒律が厳しい可能性があるので、少し心配になるな。



 左奥の隅に見えるのは、恐らく厩舎だろう。大きいな。沢山の家畜を育てているらしい。


 それもそうだ。彼らは、村人全員分の蛋白質を自給しなければならない。


 それに加え、畜産は彼らの現金収入の手段でもある。


 かつては観光業に乗り出していたこともあるようだが、いくつかの代を経て、元の暮らしに回帰した者も多いそうだ。


 しかし現金収入が減ってしまったので、それを補うために畜産の規模を拡大したらしい。



 居住区と厩舎の中間に位置する、あの大きな建物は何だろう。


 横には丸太が積まれている。木を加工するための工場だろうか。かなり大きい。


 規模の大きさから察するに、手作業で木材を加工しているような工場こうばではない。空気圧を利用して加工機器を動かしているような、大規模な製材所かもしれない。


 あの工場の裏あたりに空気圧縮機があり、それによって作り出した空気圧を利用した加工機器があるならば、それはこの村の戒律が緩いことを意味する。


 よし、放牧場を突っ切って、近づいて調べよう。



 木の柵を飛び越えるのは、これが初めてだ。不幸なことに、私は都会生活しか知らない。


 あたりには、家畜のものと思われる野生的な匂いが漂っている。この匂いを嗅ぐのも初めてだ。


 牧草の上では足音が立たないので、村人に気づかれる心配をせずに済む。気をつけなければいけないのは、家畜の置き土産を踏まないようにすることだけだ。




 ロレンスは再び柵を飛び越え、舗装されていない剥き出しの村道を素早く駆け抜けて、工場らしき建物の陰に隠れた。


 工場らしき建物の中に明かりは点いていないので、村人が中にいる心配はない。


 窓から覗き込むと、工場内には同じ形をしたチェストがいくつも並んでいた。


 それらは全て、くすみのない新品であるように見え、在庫が溢れているというわけではなさそうだった。家具の量販店との取引があるのだろうか、作れば安定して売れていくらしいことが見て取れた。需要は高いらしい。


 加工場はここからは見えず、加工機器が使用されているのかどうかは分からなかった。


 そこで彼は、窓から離れて壁沿いに移動し、建物の裏にあると思われる空気圧縮機を探しに向かう。


 壁際に詰まれた丸太を避け、工場の裏に回り込んですぐ、無骨で大きな機械に出くわした。


 その古めかしい見た目と構造から察するに、それは大昔に製造された空気圧縮機のようだった。彼は大いに歓喜した。




 やった。機械を使っている。


 この村の人々は、天然ガスを動力とした空気圧縮機によって作り出された空気圧は戒律に背いていないと判断し、その使用を認めているらしい。


 どうやら、ここは比較的柔軟に生活しているアーミッシュの共同体のようだ。


 良かった。助けてもらえるかもしれない。民家を訪問しよう。駄目なら、そこまでだ。それも運命だと受け入れるしかない。



 気が抜けてしまったせいか、この村の者に通報されてしまって、連中の手に落ちてもいいとさえ思えてきた。


 下手に生き延びてしまったら、公表してはならない真実を明らかにしてしまう可能性もなくはない。私はそんなことをするつもりは毛頭ないが、心は移ろうものだ。


 未来の自分が、どのように考え、どのように行動するかは分からない。


 いっそのこと、真実を抱えたまま、この世からひっそりと消えてしまったほうがいいのかもしれない。公表してしまったら、社会は混乱の渦に叩き落される。


 ああ、くそ。弱気になってしまった。落ち着くんだ。まだ望みもあるんだ。


 彼らは、個を尊ぶ。それに、大罪人さえも赦してしまうほどの強い心を持っている。


 一部を除いてだが、アーミッシュの人々は宗教を背景に権力を強める輩が現れるのを防ぐために、教会施設を建造しない。それくらい、個人を尊重してくれる。


 もしかしたら、奇跡が起こるかもしれない。何も問わずに匿ってくれるかもしれない。自分のような個の意思を尊重してくれるかもしれない。


 そもそも、彼らは徹底した平和主義で知られている。実際は排他的なのではなく、自戒の念が強いだけなのではないだろうか。


 そうだ。きっとそうだ。私の考え方が悪いんだ。疲れ果てて、悪い方向に考えすぎてしまっていただけだ。


 あの、最も近い家のドアを叩こう。迷っていても仕方がない。




 ロレンスは足音が鳴り響くのを気にせず、一歩一歩に力と決意を込めながら、馬車の轍の隣を行く。暗闇の中に浮かんで見える、白壁を目指して。




 ロレンスは馬車の轍が刻まれた村の大通りから、目当ての家の敷地に踏み込んだ。


 よく手入れされた芝生を眺めながら、三十センチ四方の石板を綺麗に三列並べて作られた石畳を歩く。


 農具の一つや二つが庭先に転がっていてもおかしくはないはずなのに、見当たらない。見栄えよく片付けられた庭が、住人の勤勉さを如実に物語っていた。




 この家の持ち主は信頼できる人物のようだ。良い結果が齎されるかもしれない。これで全てが決まる。


 恐れても仕方がない。夜分遅くに申し訳ないが、呼び出させていただこう。




 ドアの木板が、コンコンと乾いた音を立てた。しばらく待つが、反応はない。




 ふむ、深夜だから当然か。眠っているんだろう。心苦しいが、もう一度だ。




 再度、ドアを鳴らす。より強く、何度も。


 すると、ノックの音で目を覚ました家主が、玄関の真上にある二階の窓から顔を出した。


 おでこからうなじにかけて一直線にはさみを入れた、笠が開く前のキノコのような髪型に、ブラウンの顎髭あごひげを豊富にたくわえた三十台の男は、眠気と警戒心によって目を細めて、玄関にいる非常識な客人が誰なのかを見極めようとしながら問うた。


「誰だ、こんな時間に……」


 家主が発した言葉は、英語ではなかった。




 そうだった。彼らはペンシルベニアドイツ語を話すんだった。


 幸い、私はドイツ文化に関して造詣が深く、ドイツ語も話せる。


 現在のドイツ本国で使用されているドイツ語とは少し異なっているが、問題ない程度の差異だ。


 家主の声には明らかな警戒の色が宿っているが、敵意は含まれてはおらず、丸みを帯びた声色をしている。


 私には分かる。彼は善人だ。




 訪問者はドイツ語で返答した。


「こんな時間に訪問したことを謝罪します。私は、ロレンスと申す者です。どうか助けてください」


 ようやく家主の目が冴え、玄関前に立つ者の姿を明確に捉えた。


 十六年前のラムスプリンガ期間中、街に滞在していた時に観賞した映画に出てきた執事や下僕のような小奇麗な髪型をした男が、玄関から数歩下がった場所から、こちらを見上げている。


 その見慣れない姿に、家主は深夜であることを忘れて叫んだ。



「なんだ、お前は!」



 突然の怒声に、ロレンスの背筋が跳ねる。



「待って、助けて!」



「黙れ。この家から離れるんだ!」



「違うんです。私は追われていて、匿って欲しいだけなんです」



「なんだ、こいつは。気味が悪い。今すぐ離れろ!」



「助けてください。お願いします」



 両手を胸の前で組みながら懇願するロレンスに、家主は怒りを込めて叫んだ。



「お前のような機械人形を、家に招き入れるわけにはいかない!」

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