第五章 逃亡者
第五章 1-1
十二年前。
二二二七年、夏。
もう駄目だ。早くマンハッタンを離れなければ、殺されてしまう!
ロレンスは今、命を狙われている。
巨大企業と政府がひた隠しにしている秘密を握っている彼を亡きものにしようとする輩が、彼の部屋のドアを叩き、落ち着き払った声で出てこいと何度も要求する。
部屋の主は息を殺して後ずさりをしつつ、端末で逃走経路を検索しながら、頭の中で悪態をついた。
なんということだ。
私は、アンドロイドメーカーと政府の命運を握ってしまった。
アンドロイドが自我を得て好き勝手に動けることを知ってしまった。
知るべきではないことを知ってしまった。
そして、私が情報を持っていることが発覚してしまった。
畜生。最悪だ。奴らは、私が生き永らえることを許さないだろう。
ああ、部屋のドアを叩く音が止まない。奴が力ずくでドアを破る前に、どうにかして逃げなければ。
しかし、どうやって逃げればいい。一体、私はどうすればいいんだ?
今は夜だ。外に出ることさえ叶えば、無事に逃げられる可能性は充分にある。
やるべきだ。やるしかない。それしか道はない。飛び降りても怪我をしない高さだから平気だ。
問題なのは、窓だ。脱出するには窓を破るしかない。自由に開閉できない窓に行く手を阻まれるだなんて、私はどこまでも不幸な男だ。
思い起こせば、今までろくなことがなかった。楽しみは映像配信を観ることだけ。
そんな人生しか経験しないまま、権力に殺されちまうのか。
いや、お断りだ。まだやりたいことが沢山あるんだ。
窓ガラスを破るときに、腕を怪我したら面倒だ。素手で割るわけにはいくまい。
ああ、もう、仕方ない。この椅子には愛着があるんだが、そんなことは言っていられない。こいつに活路を切り開いてもらおう。すまない!
ロレンスは角ばったデザインをしたアルミニウム合金製の椅子を持ち上げ、窓に突っ込んだ。
重い衝撃音が街に響き、その直後、重力に囚われた椅子と砕けた強化ガラスが、重い音と軽い音を立てて地面を強く叩く。
そして間を置かずに、地に叩きつけられてさらに細かくなった強化ガラスの破片が、パラパラと音を立てて飛散した。
よし、割れた。古いガラス窓で良かった。樹脂製だったら一巻の終わりだった。
足を毛布で覆って飛び降りれば、ガラスで足の裏を切らずに済むだろう。
ゆっくり準備している時間はない。ドアを叩く音が強くなっている。窓を割った音を聴いて焦ったのか、ドアを蹴破ろうとしている。
猶予はないぞ。すぐに飛び降りなければ。窓枠に残っているガラスを排除するのを忘れてはならない。足をかけた時に怪我をしてしまう。
下には、よし、誰もいない。
誰かが怪我をした様子もない。良かった。
下を確認しないうちに椅子を投げるなんで、私らしくないことをしてしまった。
ああ、早く飛び降りないと。毛布を足に巻いたんだから、きっと平気だ。
行くぞ、一、二、三!
重力の抱擁に背筋が凍りついた、その直後。強い衝撃が、ロレンスの両足を襲う。
彼は足の筋繊維を張り詰めさせて衝撃を吸収し、どうにか堪えた。
足に巻かれた毛布の下からは、ガラスの破片を踏み割ることによって奏でられた、神経を逆撫でする高音が聞こえてくる。
足に痛みはない。よし、考えろ考えろ考えろ。走り出す前に考えろ。
街には隠匿された防犯カメラによる監視網が張り巡らされているから、逃げる経路が重要だ。考えろ。私が目指すのは南西だ。
だから、まずは逆の北東方向に逃げて、逃げる姿を見せつける。
そして郊外に出て、防犯カメラがないのを確認してから方向転換し、大きく回って南西に向かう。
奴らは、私が北東に逃げたと思い込むだろう。よし、これで行こう。急げ!
丸一日歩いて、また夜が来た。
マンハッタンから南西に位置する森の中まで来たんだ、ひとまずは安心か。
昼のうちは周囲を確認しながら動かなければならなかったが、夜は前に進むことだけに集中できる。
今のうちに距離を稼がなければ。夜は、逃げる側に味方してくれる。きっと大丈夫だ。うまく逃げられるはずだ。
家から逃げるとき、北東方向に逃げたと見せかけておいてよかった。
馬鹿正直に最短距離で逃走していたら、すぐに捕まってしまっていただろう。走ることには自信があるが、小型無人偵察機の追跡能力には
奴らは今頃、北東方向を探していることだろう。
だが、安心はできない。差し迫った危機をひとまず脱しただけで、命の危険が完全に過ぎ去ったわけではないんだ。
逃げ出すことには成功したが、私には居場所がない。知り合いの家に逃げ込んだとしても、即刻、奴らに通報されてしまうだろう。
行く当てがない。最悪だ。
いま私が目指しているのは、安全が保証された場所などではなく、隠れられるかもしれないという程度の場所でしかない。
そこが安全だという保証などない。到達できたとしても、危険な状態は続くだろう。
いっそ、全てを暴露してしまおうか。そうすれば、正義を重んじる人々から守ってもらえるかもしれない。
いや、駄目だ。何を考えているんだ、私は。真実を明かすわけにはいかないだろう。
愚かなことを考えてしまった。公表するのは危険すぎる。社会は衝撃に耐えられない。
ああ、くそ、星が綺麗だ。こんな時なのに。
どこか安全な場所で、この美しい星空を毎晩のように見上げながら暮らせたら、どんなに幸せだろう。
しかし、それは叶わぬ願いだ。私は立ち止まったら殺される身だ。今もなお、殺されかけているんだ。
ロレンスは考えるのを止め、前後左右を目視しながら森を行く。
倒木を跨ぎ、岩を跨ぎ、踏むと音が鳴りそうな小枝を跨ぎながら、夜を進む。
遠くのほうで虫が鳴いている。孤独ではない気がして、少しだけ心が強くなる。
しかし、その声の主に近づきすぎたせいで、鳴き声が止まってしまった。
彼はまた孤独に逆戻りして、遠くの虫の声に縋るようにして、歩を進める。それが何度も繰り返された。
寂しい。寂しいな。心も体もつらい。
道が険しくて嫌になる。森には、障害物がごろごろ転がっている。
道路沿いの平坦な場所を走れればいいんだが、部屋着で森の近くをさまよっているところを誰かに発見されたら、間違いなく通報されてしまう。歩きにくいが、森の中を行くしかない。
丸一日、歩きっぱなしだ。膝が軋む。
森の風景を楽しみながら歩きたいところだが、そんな悠長なことをしている余裕はない。
そこかしこに転がっている倒木や岩に気をつけ、追っ手を振り切ることができる速度で歩を進めながらも、消耗しすぎて歩けなくなったりしないように、適度なペースを保たなければならない。
体が使い物にならなくなったら終わりなんだ、気をつけなければ。
かなり歩いた。
徐々に、希望の光が強くなってきているような気がする。かなり移動した。いい感じだ。逃げれば逃げるほど、捕まる確率は下がっていく。
今のところ、私を追う者の姿はない。
周りには誰もいない。夏のキャンプを楽しむ人々の気配もない。
遠くに、野ネズミと野ウサギとハイイロリスがいるだけだ。動物たちよ、驚かせて申し訳ない。
もうすぐニューヨーク州を抜ける頃だろう。
目的地まで、あと少しだ。ペンシルバニア州に入ったら、目的地はすぐそこだ。
頭の中に地図を入れてあるので、インターネットに接続して地図を参照する必要はない。恐らく、接続した瞬間に位置情報を把握され、奴らがすぐにやってくるだろう。
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