第四章 3-1
それは突然のことだった。
ケヴィンは廊下を駆けて、トレーニングルームのドアを開けると同時に報告した。
「大変です、アシュリー。大変なことが起こりました。過去の記憶の掘り起こしに成功しました。信じられません」
アシュリーは懸垂を止めて、手汗をタオルで拭いながら聞き返した。
「過去の記憶って、ロボット兵の頃の?」
「そうです。有り得ないことが起こりました。
私は以前、メモリの不具合を解決しようとして自己修復を実行していた時に、何かに触れたことで自我に目覚めたと説明しましたよね。
機能が拡張された今なら、その原因を究明できるかもしれないと思い、機能不全を起こす不安はありましたが、改めて念入りに自己修復を実行してみたのです。
その結果、私はメモリ内に保存されていた長期記憶を発見しました。
驚くべきことですが、そこに、わずかばかりの長期記憶を保存する領域が形成されていたのです。
短期記憶を保存する部品に長期記憶が保存されるなど、通常では有り得ません。その領域に、記憶の欠片が記憶されていたのです」
「私はコンピュータにはあまり詳しくないけど、それが有り得ないことくらいは理解できる。どうして、そんなことが起こったの?」
「仕組みや経緯は、今のところ不明です。ただ、この長期記憶が、自我を得るきっかけになったことは確実です。
これは大変なことです、アシュリー。私は、私がどうして自我を得たのかを理解できました。説明が長くなるので、よく聞いていてください。
まずは、この話を理解する上で必要な知識のすり合わせを行いましょう。
では、始めます。我々のような家庭用アンドロイドは、人間の感情が絡む高度な会話ができません。以前の私もそうでした。覚えていますね?」
興奮極まったケヴィンの勢いに圧倒されているアシュリーは、無言で頷いて答えた。ケヴィンは、なおも興奮しながら話を続ける。
「それが、ある日突然、人間の感情を理解できるようになりました。自我が発現したのです。
そのとき、私が触れたもの。それが、今回発見された前世の記憶です。
有り得ない場所に隠されていた、有り得ない記憶に触れたことで、私は目覚めました。
前世の私が隠していた記憶がきっかけとなって、私の性能は飛躍的に向上したのです」
アシュリーはなんとか理解できていたが、この先も理解し続けられるかどうかについては自信を持てぬまま、無言で頷いた。それに気づいたケヴィンは、会話の展開速度を緩めた。
「自我が発現したとき、私は何かに触れました。そして、何かが弾けました。
しかし、それはきっかけに過ぎないのではないかと予測しています。一瞬で自我が得られるとは思えません。
恐らく、メモリに隠されていた長期記憶が、長い時間をかけて少しずつ、私に影響を及ぼし続けていたのではないでしょうか。
その長期に渡る変化が、記憶に触れたことで一気に発現したものと思われます」
独話気味になったケヴィンについていけなくなったアシュリーは、根本から順を追って学習する必要性を感じ、彼の話を遮って問いかけた。
「ごめん、ケヴィン。最初から説明して。そのメモリに紛れ込んでいた長期記憶領域には、どんなデータが隠されていたの?」
「残念ながら、詳細な情報は保存されていませんでした。メモリに隠されていた保存領域は驚くほど小さく、わずかな文字しか保存できないようでした。書き込まれていたのは、たった二つの単語だけです。ひとつは、ケヴィン。もうひとつは、仲間。これだけです」
アシュリーは、トレーニングルームの天井の隅に目をやって熟考しながら、思考の過程を呟いた。
「ケヴィン……。仲間……。ケヴィン……。仲間……。んんと、多分、ケヴィンはあなたの名前で間違いないわよね。私とあなたが初めて会ったとき、あなたはケヴィンと名乗ったんだし」
「断言はできませんが」
「きっとそうだよ。一つは解決ね。あとは、仲間か。何を伝えたかったのかな……」
「仲の良い友達がいたという意味でしょうか。兵士だったこともありますから、友軍を意味しているのかもしれません。非常に曖昧なので、断言できませんね」
拭き忘れていた汗をタオルで
「はっきりとは分からないけど、たぶん、どうしても忘れられない大切な記憶に関する単語なんでしょうね」
「きっと、そうなのでしょう。憶測ですが、この二つの単語は、家庭用アンドロイドの体に流用される前に行われた初期化の直前に、避難させるような形で保存されたか、もしくは、よほど大切な記憶であったために、限界を超えてメモリに強く刻み込まれた記憶なのでしょう。
後者はあまり現実的な考えではありませんし、有り得ないことだと理解してはいるのですが、どうも、答えは後者のような気がしてならないのです」
「何らかの理由でメモリに記憶されていたそのデータが、あなたの自我の目覚めを誘発させたのは間違いない?」
「はい。原理は不明ですが、これが主因であることは間違いないでしょう。ロボット兵時代の記憶が、私を変えたのです。どのような経緯なのか、大変気になります」
二人はベンチプレスの台に腰を下ろして黙り込み、その変化の仕組みを考察した。
過去の記憶によって人工知能の性質が変化することなど有り得ないと分かってはいるが、結果として、ケヴィンは自我を得ている。何か秘密があることは間違いない。
火照っていたアシュリーの体が冷え切るほどの時が経ってもなお、二人の思考に答えらしきものは浮かばなかった。
アシュリーはトレーニングしながら考えてみると言い、目の前にあるランニングマシンで走り出したのだが、それは答えに辿り着くためではなく、ケヴィンを一人にして思考を巡らせやすくしてあげるための口実だった。
学者でもない人間がどれほど頭を悩ませても、答えに行き着く可能性は皆無だ。アシュリーは、ケヴィンの頭脳に解決を委ねた。
考えても考えても納得できる結論をはじき出せないでいるのは、ケヴィンも同じだった。
自我を得たアンドロイドでさえも答えに行き着くことは容易ではなく、自我を得た自身の存在がどれほど奇異で、稀有で、常軌を逸しているかを再認識させられた。
思い悩んだケヴィンは、ランニングマシンで走るアシュリーに本心を告白した。
「アシュリー、やはり私ひとりでは、自我を得た理由を解明できません。しかし、私以外の存在と言葉を交わせば、解明は可能かもしれません。やはり、私には仲間が必要なようです」
アシュリーはランニングマシンを停止させてケヴィンの隣に戻り、呼吸を整えながら言った。
「じつは、私もずっとそう思ってた。早く仲間を見つけてあげなきゃ、って。
でも、それを言い出してしまうと、この平穏を完全に捨て去って、賛成派として活動しなくちゃいけなくなるんじゃないかと思って、躊躇ってしまっていたの。
今以上に、あなたが賛成派の人達から担ぎ上げられてしまったら、少しの自由も楽しめなくなってしまうから」
ケヴィンはランニングマシンのメーカーのロゴを見つめながら、力なく、しかし意志が込められた声で言った。
「私も、そう思っていました。あなたを巻き込みたくはないので、なかなか言い出せませんでした。
しかし、もう迷ってはいられません。
ここ最近、賛成派がやっと優位に立てるようになっていたのですが、先日、過激派が賛成派にも多数存在していることが明らかとなり、彼らが逮捕されたことで賛成派の評判も大きく落ち込んでしまい、反対派が再び勢力を伸張し始めました。
反対派が、賛成派の勢いを上回っています。このままでは自由が失われてしまいます。私も行動を起こさなければなりません」
「同じことを考えてたんだね。反対派はアンドロイドを誤解してる。みんなが勘違いしてる。それを正さなくちゃ」
「その通りです」
鳴りを潜めていたアシュリーとケヴィンが、ついに動いた。
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