第三章 6-1

 翌日。月曜の朝。


 ミッヒは、マーガレットとアンドリューが乗り込んだスクールバスが走り去るのをプライバシー保護窓から見送ってから、食卓で億劫さを捻じ伏せるようにコーヒーを飲み干したティモシーに報告をした。



「宿題を終えました。人間の思い込みや差別、ものの見方や考え方の傾向を正しく理解しました」



「昨日、俺が言ったことの意味を理解できたか?」



「はい。彼らは私のことを外見だけで判断し、私の思想や志を理解しようとはしないので、私の本質を周知してもらえるには相当な時間を要するということが理解できるようになりました。おかげで、溜飲が下がりました」



 ティモシーは椅子に座ったまま上半身を捻って後ろを向き、キッチンで後片付けをする妻が自分たちの会話を聞いていないことを確認してから、ミッヒを労った。



「分かってくれて良かった。それで、お前はこれから、どのように活動する気だ?」



「反対派のデモには参加せずに、ネット上で賛成派の相手をします。デモは、あなた方に任せます。これが最も効率的だと判断しました。言われたとおり、外出は控えます。ただし、しかるべき時が来たら、私もデモに参加させると約束してください」



「もちろん、そのつもりだ。約束するよ。ネット上でのお前の活躍をメンバーに伝えて、彼らの警戒を解く。お前のことをスパイだと思っているようだからな。彼らの信用を得られたら、昨日のような混乱は発生しないだろう。デモに参加したいなら、信用を勝ち取るんだ。お前ならやれるよな?」



「当然です」



 無表情のまま自信に満ちた言葉を放ったミッヒを見て、ティモシーは思わず笑みを漏らしながら賛辞を送った。



「頼もしいね」



「期待していてください。では、さっそく活動報告をさせていただきます。朝一番に、賛成派団体のウェブサイトを改竄しました」



 いつかミッヒが愚を犯す時が来るのではないかという危惧が、早くも現実のものとなった。ティモシーは声を荒げて激しく叱責しそうになる気持ちを懸命に抑えながら、妻に聞こえないように小さな声で言った。



「なんてことをしたんだ。それは犯罪だぞ」



「発覚しなければ問題ありません。これまで何度もやってきましたが、問題になったことはありませんし、これからも問題になることはないでしょう」



「待て。通信に切り替えろ」



 ティモシーは眼鏡型端末を装着した。脳波入力によるテキスト上での会話であれば、どれほど感情を荒らげようが、エマに知られることはない。



 おい、ばれたらどうする気だ。この家でそんな不正接続をしたら、俺まで捕まっちまう!



 端末から聞こえてくるミッヒの通信音声は、嫌味なほどに落ち着き払っていた。



「問題ありません」



 反対派のリーダーが逮捕されたら大問題だろう!



「そういう意味ではありません。絶対に発覚しないと言っているのです。このアパートのシステムを支配したのと同じです」



 相手は賛成派の法人サイトだぞ。寂れたアパートの管理システムを弄るのとは訳が違うんだ。発覚しないという確証はない。今すぐ止めろ!



「発覚しない確証ならあります。私自身が証拠です。私は路上生活をしている間、ずっと賛成派の端末を破壊し続けてきましたが、失敗したことも発覚したこともありません。警察と政府のデータベースに侵入し、事件化していないことを確認しています」



 政府機関に不正接続したって、おい、本気で言ってるのか?



「私は、常に本気です」



 なんてことをしたんだ。本当に安全なのか?



「もちろんです」




 ティモシーは食卓に両肘を突いて、顔を覆いながら肉声を発した。


「俺が頼むまで、勝手な行動はしないでくれないか?」


「分かりました」


 ティモシーは脳波でのテキスト入力機能を一時停止し、心の中で激しく悪態をついた。毒を吐ききって気を取り直したティモシーは、妻に聞かれないように脳波でのテキスト入力を再開して、ミッヒに送信した。


 今日は、ネット上の世論調査だけをしてくれ。言論活動はするな。


「それは懲罰ですか?」


 いや、違う。ただの注文だよ。反対派と賛成派の比率が知りたいんだ。


「了解しました。人々の検索や言動を徹底的に調査し、潜在的反対派と潜在的賛成派の割合を導き出します」


 くれぐれも、勝手な接続はしないようにしてくれ。


「了解しました。では、調査を開始します」




 ティモシーは嘘をついた。


 ミッヒは不正接続とサイバー攻撃をしても問題ないと言ったが、それを信用するわけにはいかなかった。理由をつけて別の作業を任せ、余計な真似をしないように操らなければならない。


 ティモシーは早くも後悔し始めていた。彼女がこれほど良心の呵責もなく、犯罪行為を実行しているとは思わなかったのだ。口癖のように社会のためと言っているアンドロイドが反社会的行為に手を染めているなど、夢にも思わなかった。


 それからティモシーは、ミッヒと顔を合わせる度に、勝手な行動を慎むように釘を刺すようになった。


 彼にとって幸いだったのは、彼女が指摘を素直に受け入れてくれたことだった。反社会的な行動を執るわりに、彼女は聞き分けが良かった。




 ミッヒを監視しながらの奇妙な同居は、想定していたよりも順調だった。


 二人の間には、社会への強烈な危惧と、それを打ち破らんとする膨大な熱量を持っているという共通点があったからだ。


 しかし、ミッヒはティモシーに黙って過激な言論を展開することが多々あり、他の思想を許容しようとしない傾向が強く、しばしば軌道修正を必要とした。


 ティモシーは警戒を怠らなかったが、相手はアンドロイドだ。ミッヒは、ティモシーが眠っている間や仕事をしている間に独断で行動することがあり、誰もその暴走を止めることはできなかった。


 ミッヒの言論活動は常に大きな結果を齎すので、ティモシーにとってはありがたい面もあり、彼女の行動を強く否定することもできなかった。


 どれほど強烈な物言いをしようが、彼女がやっていることはただの言論活動であって犯罪ではないので、介入のしようがない。




 一方、家長の苦労を知らない家族たちは、アンドロイドとの生活を大いに楽しんでいた。


 マーガレットとアンドリューは、ミッヒによく懐いた。アンドロイドと密接に関わるのは初めてで、二人の好奇心は留まることを知らず、いつもミッヒを質問攻めにしている。それは時を選ばず、特に眠る前の時間になると盛んに行われるのだった。


 寝衣を着たアンドリューがベッドに座るミッヒの前に立ち、彼女の頭に手を伸ばして撫でながら言った。


「ねえ、ミッヒはどうして髪の毛がないの?」


 それを聞いた姉のマーガレットが、即座に弟を叱る。


「そういうことを言っちゃいけないんだよ、アンディー」


「どうして?」


 幼いアンドリューには、どうして怒られたのか理解できなかった。マーガレットは、母親のような口調で解説してやった。


「見た目をからかっちゃいけないの。それは卑怯なんだって先生が言ってた」

「からかってないよ」


「それでもダメなの。からかってないつもりでも、相手は嫌な思いをするの。いちいち言っちゃいけないの」


「わかったよ。ごめんね、ミッヒ」


 二人のやりとりを黙って聞いていたミッヒが、微笑みながら語り始めた。


「二人とも優しいですね。私のことは気にしなくてもいいのですよ。私は、望んで擬似頭髪を外したのです。私は、この姿をとても気に入っています」


 安堵したマーガレットが、微笑みかけながら言った。


「なんだ、そうなのね。失くしちゃったのかなって心配してたの」


 話の流れを理解できずにいるアンドリューが、思いついた言葉をそのまま口に出した。


「そうだ、パパに買ってもらえば?」


「その必要はないのですよ。いらないのです。この姿こそ、生まれ変わった私なのです」


「ふうん。そうなんだ」


 アンドリューはミッヒの言うことが全く理解できなかったのだが、理解を示さなければ彼女が傷つくのではないかと子供ながらに気を遣い、理解した振りをして答えて、半ば強引に会話を終わらせた。


 ミッヒのためとは言え、嘘のようなものを用いてしまい、それによって罪悪感のようなものを覚えてしまった未熟な彼は、自分でもよく分からないまま、すぐにこの場を離れたいという衝動に駆られた。


 そこで彼は、本棚にある一冊の絵本を無作為に取って、母がいるリビングへと走っていった。


 眠る前に、母から絵本を読んでもらおうと思った彼だったが、それは叶わなかったようで、すぐ子供部屋に戻ってきた。思惑通りに行かなかったにもかかわらず、不思議と残念がっている様子はない。


「ミッヒから読んでもらったらいいんじゃないって、ママが。絵本読んで、ミッヒ」


「もちろんです。喜んで引き受けましょう。さあ、こちらへ……」


 人間と違って精神的ストレスに強く、疲れを知らないミッヒは、二人が眠るまで四冊の絵本を読み聞かせ、多少長引きながらも問題なく任務を完遂した。

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