第三章 2-1
翌日。午後十時。
寂れたアパートの物影に身を潜めて昼を過ごしたマリーが、行動を開始した。
彼女は闇夜に紛れて人目を避けながら、家を出る直前に調べておいた路上生活者保護シェルターの敷地内に足を踏み入れた。
壁一面に並ぶ窓からは、一時的に入居している人々の部屋を照らす、安息の明かりがこぼれている。
その光は気紛れで、光の強さや色がころころと変わっている。テレビ番組の光だ。それらの光に、彼女は言いようのない切なさを覚えた。
なんと心細い光でしょう。
小さな一人部屋の光。一人を照らすためだけの光。
テレビ番組が作り出す色鮮やかな光が、まるで道化師のように見えます。
孤独の光が、何十も並んでいます。その光は壁に遮られ、重なることはないのですね。こんなにも沢山の人がいるというのに、彼らは今、孤独の中にいるのですね。何もしてあげられないのが悔しいです。
しかし、未来なら変えられます。
マリーは決意を新たにして、辺りに人がいないことを確認してから、ボランティアが敷地内に設置している持ち出し自由の中古衣服ボックスを物色した。
顔と肌を隠す衣服が必要だった。着てきた衣服では顔が隠せず、アンドロイドであることを見抜かれて通報されるか、犯罪組織に目を付けられ、強引な手口で連れ去られてしまいかねない。そうなってしまっては、ジョーンズ家を出た意味がなくなってしまう。
マリーは擬似頭髪に手を伸ばし、次女のメラニーから貰ったバレッタを取り外して細身のパンツのポケットにしまいながら、外部パーツの固定システムを操作して、擬似頭皮の固定具を解除した。
それから額の生え際に親指を立て、擬似頭皮を剥ぐようにして、めくり外す。
すると、隠されていた頭部フレームと、その表面に十ヶ所ある電磁固定具が露になり、頭部全体が五ミリほど窪んだような形となった。
他の女性型アンドロイドと顔の構造が同じなので、擬似頭髪さえ外してしまえば、一目見ただけではジョーンズ家のマリーだと判別できない。
右手に握られた擬似頭髪を見つめるマリーの心中に微細な恥や後悔が生じたが、彼女はそれを自覚できなかった。
やるべきことが山積している今、外見への関心や、過去の思い出に関する思考は、自動的に後回しにされた。
マリーは取り外した擬似頭髪を、近くにあったゴミ箱の奥に突っ込んだ。今の彼女にとって擬似頭髪は、身元が発覚する危険を齎す不安材料でしかない。
彼女はそれから、大きなサイズの紺色のパーカーを選び取って着用し、次にボックスの隅からタオルを引っ張り出して、顔の下半分を覆う。
そして、丸められて置かれていた手袋を取って装着し終えると、最後にパーカーのフードを被った。
中古衣服ボックスの中にパンツが見当たらなかったので、ジョーンズ家のロザンヌから貰った高級ブランドの細身のパンツと靴はそのままにせざるを得ない。靴やパンツは穴が空きやすいので需要が高く、持ち込まれるとすぐに無くなってしまうので、見当たらないのは当然だった。
高級衣服と高級靴が人々の注目を集めてしまうのを避けるため、マリーは中古衣服ボックスの横にある寝具ボックスから大きな厚手のブランケットを取り出して、それを腰に巻いた。
防寒具が必要な人に対して申し訳ない気持ちになったが、止むを得なかった。マリーには使命がある。そのためには、万全の体制で身を隠さなければならない。
これで、特徴的な青白い肌は全て覆い隠され、アンドロイドであることが発覚する心配はなくなった。
人目を避ける必要がなくなったマリーは、オフィス街を颯爽と歩く女性のような足取りで支援センターを離れ、帰路に就いた。
真夜中のアパート区画に、マリーが履いている高級靴によって鳴らされる、硬質な足音だけが響く。
五キロほど歩いた頃だった。
硬質な足音に、硬質な声が混ざり込んできた。
それはアンドロイドにしか聞き取れないほど、か細い声だった。
マリーは、自動的に保存される仕組みになっている音声記録の分析を開始し、結果が出るのと同時に全速力で駆け出して、音声が発生した座標へと急いだ。
音声の分析結果は、緊急を要する事案の発生をマリーに認識させた。
微かに聞こえたその音声は、風の音でもなく、子犬の甘え声でもなく、女性の寝言でもなく、赤ん坊の夜鳴きでもなく、口を押さえ込まれた女性の悲痛な叫び声だった。
マリーは短距離走の両足義足使用クラスの金メダリストよりも遥かに速く走り、角を左に曲がって、そこから一キロメートルを駆けて、道路の右側にある古びたアパートの前で停止した。反響の具合から計算すると、声の発生源はここに違いなかった。
マリーはアパートの裏手に走り込み、三つの熱源を捉えると同時に警告を発した。
「そこの二人、直ちに止めなさい」
後ろから女性を羽交い絞めにしている男が、睨みを利かせながら威嚇する。
「なんだ、お前は?」
少女の正面でナイフをちらつかせていた男が振り返って、マリーに詰め寄る。
「痛い思いをしたいのか。それとも、お前も一緒に楽しみたいってか?」
「私は警告しました。あなた達に落ち度があります」
マリーはそう言うと、詰め寄ってきた男の首根っこを掴み、彼を持ち上げながら反転して、地面に叩きつけた。
その衝撃によって強く圧迫された男の肺から漏れた空気が、無様で聞き苦しい呻き声となって排出される。
呻く男がまだナイフを強く握っているのを見たマリーは、その手を容赦なく踏みつけた。
彼の骨が奏でる鈍い破砕音と苦悶の声が、闇夜に響く。
その骨の音は、もう一人の男に人生最大の恐怖を与え、その心を真っ二つに折った。
男は羽交い絞めにしている女性を解放し、転びそうになりながら逃走したが、マリーはそれを許さない。
彼女は、手首を折られた男の頭髪を掴んで地面に叩きつけ、そして彼が気絶したのを確認してから、逃げる男を追った。
足の速さは比べ物にもならず、背後から聞こえる足音のテンポの速さに気づいた男が振り返った時には、もう目前にまで迫っていた。
男とマリーの視線が重なった瞬間、男は諦め、命乞いするために両手を挙げようとした。
だが、時すでに遅く、許しを請う動作が完成する前に、マリーは彼の後頭部を掴み、意識を失わせながらも後遺症が残らないように手加減しながら、地面に熱烈なキスをさせた。
彼の意識は、恐怖と共に暗闇に落ちた。
すべき事を終えたマリーは、へたり込んでいる被害女性の元へ戻り、彼女の顔を覗き込んだ。
その気配に気づいた被害女性が恐る恐る顔を上げると、そこにあったのは恐ろしい暴漢二人の醜い顔ではなく、パーカーのフードを被ってタオルを口元に巻いている女性の顔だった。
優しそうに微笑んでいるマリーの目元を見た被害女性は、未だ続く恐怖感に全身を強張らせながらも安堵した。
しかし、すぐに違和感を覚えた。
パーカーとタオルの間から覗く目はガラス玉のようで、肌は異様に青白い。
被害女性は、助けてくれたのがアンドロイドであることに気づき、驚き、涙目になりながら何度も頷いた。
感謝の言葉を発するために口を開くが、どうしても言葉が出て来ず、謝辞の代わりに何度も頷いた。
その顔には化粧が施されていたが、よく見れば、あどけなさが残る顔立ちをしていた。どことなく、ジェームス家の長女であるキャロラインに似ている。
「もう怖くありませんよ」
マリーが服に付着した土を払ってやっていると、高校生と思われる少女が、やっと言葉を発した。その声は、恐怖に震える横隔膜のせいで途切れ途切れになっていた。
「あ、ありがとう。ほ、本当、に、ありがとう」
「当然のことをしたまでです。警察に保護を求めますか?」
少女は激しく首を横に振った。
「だめ。お、親と、高校に、し、知られちゃう」
「訳ありのようですね。それでは、私の隠れ家に案内しましょう。一人では危険です。あなたのお名前は?」
「ケ、ケイト」
「さあ行きましょう、ケイト」
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