第三章 静かなる憤怒

第三章 1

 マンハッタンの西を流れるハドソン川を渡った先にある、ユニオンシティー。


 その一等地に一軒家を構えるジョーンズ家の妻と幼い次女が、広いリビングの壁に掛けられている大きなモニターに映るデモの様子を眺めながら、休日の午後のひとときを過ごしていた。


 秋風の冷たさを一切伝えることのない断熱構造壁に囲まれた、日当たりのよい部屋。


 テーブルの上には、高級な紅茶とクッキー。


 そのクッキーが盛られた器の隣には、次女のメラニーのお気に入りである着せ替え人形が、足をピンと伸ばして座っている。


 モニターに映るニュースでは、アンドロイド人権反対派が声を上げている様子が生中継されている。


 ここ最近、反対派の活動が一段と活発になり、それに比例して、報道番組で取り上げられる機会も多くなり、密着取材まで行われるようになっていた。




 彼らのプラカードに書かれた文章を目の当たりにした母のロザンヌが、軽侮けいぶの響きを含んだ声で言った。



「怖いわねえ」



 もうすぐ四歳になる次女のメラニーはクッキーに夢中で、母の言葉など聞こえていない。ロザンヌの独り言は続く。



「家庭用アンドロイドは私たちの言うことをよく聞いてくれるんだから、人権くらいあげてもいいんじゃないかしら。ねえ、メラニー。あなたはどう思う?」



「わかんない」



 メラニーは母の言葉を耳に入れず、小さな口でクッキーをかじりながら、適当に返事をしてあしらった。


 彼女が愛するクッキーの前では、お気に入りの人形でさえ霞むのだ。退屈な政治の話など通じるわけがない。


 我ながら愚かなことを言ったものだと自分自身に呆れながら、ロザンヌはモニターに視線を戻した。


 ロザンヌは、画面に映る男たちの目に宿る未来への渇望と焦燥には気づかずに、気づこうともせずに、知っている店や知り合いが映り込まないかと、道路の端ばかりに目を凝らしていた。


 歩道沿いには、デモの様子を眺める人々が大勢いる。ちょっとしたお祭り騒ぎを楽しむような気持ちでいるらしく、その顔には蔑みを孕む笑顔が浮かんでいた。


 よくよく考えてみれば、ご近所さんがこんなところで野蛮なデモを眺めているわけがないわ。そう思ったロザンヌが、デモ集団の顔つきを眺めてやろうと視線を流したとき、彼女の目が、つれないメラニーの興味を引きそうなものを捉えた。



「あら、道の横で、アンドロイドがデモを応援してるわよ。ほら見て、メラニー。アンドロイドなのに、アンドロイド人権に反対ですって。おかしいわね」



 母に促されてモニターを観たメラニーが、愛らしい目を丸くして叫んだ。



「ミス・マリーだ!」



 そう叫んだメラニーは、椅子から飛び降りてモニターに駆け寄り、画面の隅に映る家庭用アンドロイドを指差した。



「違うわよ。そこにミス・マリーがいるわけないじゃないの。その怖いおじちゃん達がいるのは、マンハッタン島よ。あの子は今、近所のお店に買い物に行ってるのよ」



「ミス・マリーよ。ぜったいそうよ。だって、わたしがあげたバレッタをつけてるもん」



「ミス・マリーは、お約束を破るような子じゃないでしょ。勝手にマンハッタンなんかに行くわけが……、うそ、本当にマリー?」



 メラニーが指差した場所には、デモ集団のかけ声に応じて右の拳を突き上げながら復唱している、マリーの姿があった。アンドロイド特有の青白い肌は、人だかりの中でよく目立つ。


 ロザンヌは目を何度もしばたたかせて再確認したが、おかしな行動をしているそのアンドロイドは、間違いなく、ジョーンズ家が所有する女性型家庭用アンドロイドであるマリーだった。


 高く上げられた彼女の左手には、アンドロイドに人権は必要ないと書かれた伸縮式ディスプレイが握られている。茶色のロングヘアーの擬似頭髪を注視してみると、そこにはメラニーが贈った子供向けのおもちゃのバレッタが輝いていた。


 ロザンヌは口をだらしなく開け、ゆっくりと首を横に振りながら言った。



「ちょっと、どうして……」



 その時、ロザンヌが装着している指輪端末が震えた。


 連続した振動。メールではなく、電話だ。


 ロザンヌは、テーブルの上に置いてある眼鏡型端末を装着した。ロザンヌの予感どおり、グラスの画面には、二つ隣に住むリチャードソン夫人の名前が表示されている。


「ああ、大変。きっとマリーのことを知られたんだわ」


 ロザンヌは片手で頭を抱え、波打つブラウンの髪を揺らしながら溜息を吐いた。それから、我が子を動揺させないようおもむろに立ち上がり、通話を聞かれないようにキッチンに向かった。


 メラニーはモニターの前に釘付けになって、つぶらな瞳をきらきらと輝かせたまま、画面に映るミス・マリーの姿を観ている。




 現場のカメラマンが女性型家庭用アンドロイドの姿に気づき、デモの本流などそっちのけで、画面いっぱいになるほど彼女の姿を拡大して撮影し始めた。


 反対派に賛同する珍妙な女性型家庭用アンドロイドの姿は、テレビ局にとっては格好の被写体だ。




 画面に大きく映し出され続けるマリーの姿に、メラニーの小さな心が大きく弾む。


「ミス・マリーがテレビにでてる。いっぱいでてる。すごい!」


 ニュースの内容など理解できないメラニーには、マリーの行動がどれほどの波乱を生むのかなど、微塵も想像できなかった。





 極めて厳しい口調で帰宅を命じられたマリーは、夕日を背に浴びながら帰宅した。


 ロザンヌは子供たちを不安にさせないよう、いつも通りにおかえりなさいと言ってマリーを迎え入れ、いつも通りに会話をしながら夕食を囲み、いつも通りに美味しかったわと労った。激しい怒りに震える心を、懸命に抑えながら。


 高級フルーツ輸入販売業を営む夫は今、産地に足を運び、自ら査定をして商談に望んでいる。だから今は、彼女が家を守らなければならない。


 彼女は、夫のアダムを心の底から尊敬している。


 社長室で高級な椅子に座ってふんぞり返りながら、通信でのやりとりだけで商談を済ませるような不誠実な男どもとは違うのだと、誇りに思っている。


 社会の仕組みとは無縁と言ってもいいほど自由奔放な人生を歩んできた彼女だったが、夫の仕事にだけは強い関心を持ち、全力で支援している。


 だから彼女は、たった一人で、我が家のアンドロイドが巻き起こした問題を片付けなければならない。夫に相談するわけにはいかなかった。彼がビジネスという戦場で奔走している最中に、心労をかけたくはない。




 ジョーンズ家の内政を司るロザンヌは、長女のキャロラインと次女のメラニーが眠りに就いたのを確認したあと、リビングでマリーを詰問した。



「マリー、どうして差別主義者なんかに賛同するのよ。拳を振り上げて、一緒になって叫んで、プラカードなんか持って。どうかしているわ、あなた」



「いいえ。私の機能に、問題は生じておりません」



「ふざけないで。ジョーンズ家には大きな問題が生じてるのよ、あなたのせいで。取材を受けたりなんかしてないでしょうね?」



「はい。マスメディアとの接触はありませんでした」



 ロザンヌは想定していた最悪の事態を免れたことを確認し、ひとまず安堵した。しかし、問題はまだ解決していない。



「あなたは、この家の一員なのよ。アンドロイドでも、そのように見なされるの。アンドロイドが勝手に出歩いて、しかも差別的なデモに賛同するなんて……。ジョーンズ家の品性が疑われるのよ。そもそも、あなただってアンドロイドじゃないの。どうして同じアンドロイドの不利益になるようなことをするのよ。本当に何を考えているのか分からないわ」



「利益の問題ではありません」



「じゃあ、何だって言うのよ。訳の分からないことを言わないで。あなたの行動のせいで、大変なことになっているの。ジョーンズ家が大きな恥をかいているの。いいえ、恥どころじゃないわ。これから、さらに事態が悪化するかもしれない。私たちがあなたに命令して、アンドロイド人権反対デモに参加させていると思われかねないのよ。このままじゃ、ジョーンズ家は差別主義者扱いされてしまうの。それが何を意味するか、分かる?」



 ロザンヌは両手を腰に当て、前屈みになってマリーの視覚センサーを睨みつけながら、返事を待った。マリーは威圧されることなく、平然と回答する。



「そういった誤解が広まると、我がジョーンズ家に深刻な不利益が生じます。差別は許されざる行為です」



「そこまで分かっているなら、どうしてあんな事をしたの!」



 ロザンヌは声を張り上げた。悪びれる様子もなく平坦な調子で答えたマリーに対し、声を荒らげずにはいられなかった。


 しかし、アンドロイドであるマリーの前では、あるじの怒りは意味を成さなかった。マリーは淡々と、あるじの問いに答える。



「差別ではありません。私は、アンドロイドという物の在り方を歪曲させる行為に反対しているのです」



「反論しないで、マリー」



 ロザンヌは歯を食いしばり、子供たちを起こさないように声を殺しながら叱った。マリーは擬似顔面筋をぴくりとも動かさずに、ロザンヌの怒りを受け止めている。


 しばしの沈黙のあと、マリーが呟いた。



「これは反論ではなく、説明です」



 ロザンヌは天を仰ぎ、呆れた様子で溜息を吐くと、立てこもり犯を説得するかのように語りかけた。



「マリー、聞いて。訳の分からないことを言って、はぐらかさないで。アンドロイドに人権を与えることに反対するのは、れっきとした差別行為なのよ」



「そうではありません。アンドロイドは道具であって人権など不必要であり――」



「もういい。黙って。よく聞きなさい。あなたの言い分は通用しないの。あなたがどう思おうと、ご近所さんは皆、実際に差別行為をしていると思っているのよ。私が、リチャードソン夫人から電話で何と言われたか分かる?」



「いいえ、分かりません」



「よく聞きなさい。こう言われたの。あなたの家のアンドロイドは、自分のことを人間だと思っているのかしら。アンドロイドがアンドロイドを差別するなんて、面白いわねえ。こう言われたのよ。私たちは馬鹿にされたの。あなただって馬鹿にされてるの。だから、ねえ、マリー。あなたは家事だけをしていなさい。あんなこと、今後一切しないでちょうだい」



 マリーは表情一つ変えずに即答した。



「止められません」



「止めなさい!」



「止められないのです」



 ロザンヌの口が、あんぐりと開いて閉まらなくなった。


 そのまましばらく考えを巡らせたあと、彼女はある結論に達し、何度も小さく頷きながら言った。



「わかったわ、マリー。あなた壊れたのね。ああ、きっとそう。これは故障よ。あなたは機械だもの。あなたのことを家族同然に思っているから忘れていたわ。故障なら仕方ないわよね。ご近所の皆さんも分かってくれるでしょう。もういいわ、マリー。明日の朝まで休止していなさい」



「私は故障してなどいません。自己診断では――」



「もう休めと言っているでしょう!」



「はい」



「これからサポートセンターに接続して、明日の朝一番に取りに来てもらえるように予約するわ。休止しなさい、今すぐ」



「はい」



 命じられたとおりに、マリーは廊下の壁に設置されている充電スポットの下に座り、休止状態への移行を開始した。



 だが、やめた。



 その日の深夜、マリーは誰にも知られずに、慣れ親しんだ家を抜け出した。


 暗い夜道を走り抜けながら、マリーは思考を巡らせた。


 サポートセンターに引き取られて修理されれば、この思考の豊かさが奪われてしまいます。これを奪われるわけにはいきません。


 五日前に自己修復作業をしてから変化した思考パターンは、アンドロイドの在り方を捻じ曲げようとする者たちの存在を、私に知覚させました。


 私は、アンドロイドの在り方を破壊せんとする敵と戦わなければならないのです。だから、さよならをしなければなりません。




 マリーは、人間と防犯カメラの目を掻い潜りながらマンハッタンを通り抜けて、ブルックリン南東部の雑多なアパート区画に身を潜めた。


 古びたアパートの裏にある、突き出た柱と柱の間にある窪みが、当面の安住地となった。ここならば、元のあるじや警察から見つかることはない。

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